第四十四話 家族は生放送の後で解散する 前編
Elの力によってダイジェストに圧縮された生放送が終了しても、天羽祈の父親と母親はしばらくスタジオの床から動けなかった。
現実には五時間十三分しか経過しておらず、医師が測った血圧と体温にも生命を脅かす異常はない。
それでも二人の意識には、過酷な百五十二日分の記憶として残っていた。
救急隊員から毛布を渡された母親はそれを父親と分けようとせず身体へ二重に巻きつけ、父親も机へ置かれた水を自分の胸元へ抱え込んでいる。
「一人一本ありますから、奪わなくて大丈夫ですよ」
救急隊員が新しいペットボトルを差し出しても、父親は栓を開けた一本を手放さなかった。
「ほ、本当に、あとから取り上げないんだな」
「取り上げません」
「食べ物は……?」
「搬送先でも用意します。喉へ詰まらせないよう、今はゆっくり召し上がってください」
父親は頷いた直後、近くの机に残っていた番組スタッフ用の菓子パンを見つけた。
周囲の制止も聞かず二つを上着の内側へ押し込み、そのうち一つを母親が取ろうとすると反射的に手を叩き落とす。
「これは俺が見つけたんだ!」
「私だって何日も食べてないのよ!」
「現実の身体が食事を取っていないのは、五時間ほどです。今はお二人とも食べられますから、急がなくて大丈夫です」
医師が説明したが二人には届かなかった。
床へ落ちたパンを母親が拾い、包装の汚れも確認せず口へ入れる。
その姿を撮影しようとする者はいなかったが天井に残った番組用カメラの赤いランプを見るたび、母親は食べ物を隠して顔を覆った。
「止めて……もう撮らないで……」
「落ち着いてください。放送は終わっています!」
「う、嘘よ! あのカメラは止まらない……!」
母親は毛布を頭まで被った。
父親は怯える妻へ手を伸ばしかけたが今度は自分のスマートフォンに表示された通知へ気づく。
電源を切っていたはずの画面には会社からの着信が二十八件、取引先からのメッセージが十二件、見知らぬ番号からの着信は百件以上並んでいた。
最初に開いたのは勤務先の人事部から届いた連絡だった。
『本日の放送内容および未成年のご子息に関する報道を受け、事実関係を確認するまで自宅待機を命じます』
続いて昼間まで食事へ誘っていた取引先の役員から短い文章が届いている。
『予定していた会食は取りやめます』
「違う……テレビが勝手に編集したんだ」
「生放送でしたよ」
近くにいた高瀬美由が静かに答えた。
父親は顔を上げた。
「あんたたちがElと組んで、私たちを陥れたんだろう!」
「番組側も被害を受けています。こちらからElへ接触した事実はありません」
「では、なぜあんな資料を持っていた!」
「放送中、匿名の提供者から届きました。内容については警察へ提出します」
「削除しろ! 出演を許可したのは家族の再会を扱う番組だからだ。あんな映像を流すことへ同意していない!」
高瀬は父親の上着から覗く菓子パンを一度見たあと、手元の資料を閉じた。
「祈さんも、家から追い出されることへ同意していなかったと思います」
父親は言い返せなかった。
スタジオの扉が開き、追加の救急隊員とともに制服警察官と児童相談所の職員が入ってくる。
警察官は、祈に対する保護責任者遺棄の疑いについて、後日正式に事情を聞く予定だと伝えた。
「今夜は無理です!」
母親が毛布の中から叫んだ。
「私たちが何をされたか見ていたでしょう!」
「聴取は医師の許可が出たあとに行います」
「Elを先に捕まえてよ! 私たちは被害者なのよ!」
「Elから受けた行為も捜査します。その件と、十六歳の息子さんを住居も所持金もない状態で家から締め出した件は別です」
警察官の言葉に、父親の目が動いた。
「祈は、祈はどうなる!」
今度は児童相談所の職員が答えた。
「現在の一時保護は解除せず、和泉七緒さんの住居を生活場所とする一時保護委託へ切り替える方向で調整しています」
「事故に遭った女の家へ戻すのか!」
「警察による警戒と安全確認を行ったうえでの判断です。また、家庭裁判所へ親権停止を求め、審判までの安全を確保するための保全処分も申し立てる準備に入ります」
母親が毛布から顔を出す。
「親権を……止める?」
「当面、祈さんとの直接の接触は控えてください。必要な連絡はこちらを通していただきます。本人の安全を確認しながら今後の対応を決めます」
「そんな……私は母親よ!」
「今夜の放送で何度も伺いました」
職員は感情を見せず答えた。
「その言葉が祈さんの安全を保証するかどうかをこれから確認します」
父親と母親は別々の救急車へ運ばれた。
家族の再会を扱うために始まった番組から二人は一度も互いの名前を呼ばずに去った。
* * *
午前一時二十分。
《ミモザ》では火村が鑑識課から届いた速報を読み直していた。
海底から引き上げられた鉄パイプの接合部には海水へ直接触れずに残った微量の血液があり、DNA型は祈から任意提出された口腔内試料と完全に一致した。
祈があの鉄パイプで殴られたという坂口航平の供述を物証が補強していた。
さらに、二つ目の重りへ巻きついていたナイロンロープの結び目には劣化した透明な粘着テープが折り込まれていた。
粘着面に残った指紋は海水から守られ、照合可能な特徴点が十二か所も検出されている。
一致したのは一ノ瀬真。
本人は盗撮事件の参考人として去年七月に指紋を採取されており、比較に必要な資料は県警の記録に残っていた。
「火村さん、捜索差押え令状の請求準備ができました」
森川が店の奥から戻ってくる。
「一ノ瀬本人の身柄は」
「自宅と学校へ捜査員を向かわせています。ただ……」
「何だ」
「先ほど代理人弁護士から連絡がありました。一ノ瀬真本人を、本日午前十時に県警本部へ同行させるそうです」
火村の眉間へ皺が寄る。
「逃げずに来るのか」
「任意で事情を説明したいと」
「おかしい、鑑定結果はまだ外へ出していないぞ」
「理事長のところにはこちらより耳の早い人がいるんでしょうか」
「腐った組織ほど情報だけはよく循環するもんだ」
火村は速報を鞄へ入れた。
「鑑定結果へアクセスした記録も保存してくれ。本部長が辞任を表明した翌日に、同じ穴から情報を流している奴がいるなら、そいつも調べる」
「分かりました」
七緒がカウンターの内側から不安そうに二人を見ている。
「待って、一ノ瀬って祈くんと同じ学校の……?」
「今の段階では、名前が証拠から出たとしか話せない」
「その人が、祈くんを海へ……」
「店長」
火村は言葉を遮った。
「俺たちは……それを確かめるために行く」
七緒は唇を噛み、テーブルへいる祈へ視線を向けた。
祈は十一皿目を食べ終えたあと追加で作られた大きなオムライスへスプーンを入れている。
自分の血が凶器から見つかり、自分を海へ沈めた可能性のある人間の名前が出てもその手は止まらない。
「祈くん」
「はい」
「一ノ瀬くんの指紋が見つかったって……」
「伺っております」
「何とも思わないの?」
「海底へ沈められた"当時"の僕であれば、何か思ったでしょう」
「また、当時の僕って言う」
七緒が悲しそうに眉を下げる。
「今の祈くんだって……されたことは同じでしょう?」
祈はスプーンを置き、七緒を見る。
「現在の僕には、帰宅を待っている方がおります」
七緒の目が僅かに揺れた。
「ですので、家を無くした時と同じではありません」
「……うん」
「ただし、夕食が冷める点に関しては被害を訴えてもよろしいでしょうか」
「わかった、温め直すよ」
「店長、甘やかすな」
火村が口を挟む。
「祈くんの事情聴取で遅くなったからでしょう」
「こいつの食事が終わるのを待っていたら、令状の方が先に失効しちまうよ」
「その前に夕食は終わる予定ですが」
「ったく……お前は黙って食ってろ」
「先ほどからそのようにしております」
祈は温め直されたオムライスを受け取る。
火村は一度だけ少年の顔を見たあと、森川とともに店を出た。
真への聴取は朝になってから行う。
夜のうちに確保すべき記録と、関係者へ確認する事項を森川と整理しながら火村は県警本部へ向かった。
そして祈は生活場所の変更手続きと安全確認が済むまで、一時保護施設へ戻ることになった。
迎えに来た職員に七緒は今日の午後には会えるのかを確かめた。
祈には朝食を抜かず、職員に断ってからおかわりをするよう念を押す。
「施設の食糧備蓄に関するご心配でしたら、既に一度ご指導を受けております」
「だったら、今度は守ってね」
七緒は小さな紙袋へ夜食を詰め、祈へ渡した。
「今日の午後、待ってるから」
「承知しております」
祈が出たあとも七緒はしばらく玄関に立っていた。
二階へ戻るだけの帰宅祝いを、今日の午後には扉の内側でやり直そうと思った。
* * *
同日の午前九時。
祈の父親は病院の個室で目を覚まし、最初にベッド下に食べ物が隠されていないか確認した。
眠っている間に何度も河川敷へ戻される夢を見た。
看護師がカーテンを開けただけで玄関の鍵が閉まる音を思い出して身体が震える。
枕元には病院から出された朝食が置かれていたが半分を食べたところで残りを袋へ入れ、誰にも見つからないよう鞄の底へ押し込んだ。
スマートフォンを開く。
会社の内部システムへ接続しようとしても社員アカウントは既に停止されている。人事部へ電話をかけると弁護士を通して連絡するよう告げられた。
妻にも電話をかけたが繋がらなかった。
しかし三度目でようやく応じた妻は挨拶もせずに言った。
『あなたが余計なことを言ったからよ』
「何だと……!?」
『祈が野垂れ死んでいたって認めたでしょう! あれが流れなければ、番組はあんなことにならなかった!』
「なんだと!? お前が和泉七緒を洗脳だと責めたから祈が反発したんだろうが!」
『最初に家から追い出せと言ったのはあなたよ!』
「鍵を交換した業者へ電話したのはお前だ!」
『あなたがカードを渡したからでしょう!』
二人は十分近く半年前にどちらが何をしたかを争った。
しかし祈がどこで眠って何を食べ、なぜ海底の鉄パイプから血液が見つかったのかを口にする者はいなかった。
「もういい」
父親は通話を切る直前、低い声で告げた。
「退院しても、家には戻ってくるな」
『あの家は私の家でもあるわ!』
「お前の顔を見たら、またあの河川敷を思い出す」
『そんなの……私だって同じよ!』
通話が切れる。
家族でやり直すと全国へ宣言してから、まだ一日すら経っていなかった。
父親は弁護士へ離婚について相談するというメッセージを送り、母親も別の病室で同じ言葉を検索していた。
五か月間息子の行方を見つけなかった二人は、離婚届の提出方法だけは数分で見つけた━━。




