第四十三話 衣食住の大切さ 後編
七十九日目。
母親が目を覚ますと父親の姿がなかった。
昨夜まで二人で使っていた段ボールも、残していたペットボトルの水も消えている。
母親は河川敷を走り、橋脚の裏側で一人だけ毛布にくるまって菓子パンを食べている父親を見つけた。
「ねぇ、何をしてるの……?」
父親は咄嗟にパンを背中へ隠した。
「……これは俺が見つけたんだ」
「二人で分けるって言ったでしょう!」
「お前は昨日弁当を多く食べただろ」
「いつの話をしてるのよ!」
「うるせぇ! 俺が倒れたら誰がお前を守るんだ!」
母親は父親へ掴みかかった。
爪で頬を引っ掻き、毛布とパンを奪おうとする。
父親は母親の肩を押し退け、転んだ身体が砂利へぶつかっても助け起こさなかった。
『おや』
橋脚の影からElが現れる。
『ご家族を守るため、息子さんを連れ戻すと仰っていた方々とは思えませんね。ブレイ◯ングダウンに出るおつもりで?』
「黙れ!」
父親は残ったパンを口へ押し込み、飲み込んでから怒鳴った。
「これはお前が仕組んだことだ! 人間は食べなければこうなる!」
『その通りです』
Elは反論しなかった。
『息子さんも人間でした━━』
父親の口が止まる。
『お二人が追い出した夜までは』
「何を……言ってるの……?」
母親が、砂利の上から黒煙を見上げる。
『こちらの話です』
Elは祈と同じ言葉で会話を閉じた。
「待って! 祈は、あのあと何があったの!」
『お知りになりたいのですか』
「当たり前でしょう! 私は母親よ!」
『七十九日目にして、初めてのご質問ですね』
黒煙は母親へ近づき、その顔を覗き込む。
『もっとも、息子さんが有名にならなければ一生なさらなかった質問でしょうが』
「ち、違う……私はずっと……」
『では、彼が五か月間どこで寝て何を食べ、誰に助けを求めたのか一つでもご存じですか』
母親は答えられなかった。
『ご安心ください』
Elは穏やかに告げた。
『今夜、お二人はそれを身体で学んでおります。SNSにお気持ち表明する必要もございません』
黒煙が消えたあとも父親は母親へ毛布を返さなかった。
その醜い映像を全国が見ていた━━。
* * *
百二十一日目に突入した頃、二人の前に天羽家が現れた。
手入れされた庭や玄関先の防犯カメラ、父親が選んだ色の外壁。
以前と何も変わらない自宅を見た母親は泣きながら門へ駆け寄った。
「やった……家に帰れる……!」
鍵は持っていなかったが、呼び鈴を押せば中から足音が聞こえる。
玄関の扉が僅かに開き、そこには母親と同じシルエットをした人間が立っていた。
『どちら様ですか』
「私! 私よ! この家に住んでいるの!」
『知りません』
「顔を見れば分かるでしょう!」
『前と同じ顔でも、中身が違うかもしれませんので』
母親の表情が凍る。
電話越しに祈の声を聞いたときに自分が警察へ話した言葉だった。
『アレは、私の息子ではありません』
家の中の母親が以前、本物の母親が火村へ告げた声をそのまま繰り返す。
「違う……あれは怖くて……!」
『十六年暮らした相手なら、分かるのでしょう?』
扉が閉まり、鍵のかかる音がした。
痺れを切らした父親が母親を押し退けて今度は自分が呼び鈴を連打する。
「開けろ! ここは俺の家だ!」
扉の向こうから、父親と同じ声が答えた。
『家庭の事情に、他人が口を出さないでください』
「俺は他人じゃない!」
『家族でもない。名字を名乗るな』
父親が祈へ告げた言葉だった。
「やめろ……」
『お前が死のうが、もう俺には関係ない』
「やめろぉ!」
父親は扉へ体当たりした。
中から返事はなく、防犯カメラの赤いランプだけが二人を見下ろしている。
やがて窓のカーテンが閉じられると家の明かりまで消えた。
『お帰りなさいませ』
いつの間にか、門の外へElが立っている。
『ご自宅の住み心地はいかがでしょう』
「入れなかったんだぞ!」
『それは残念です。所有権だけではオートロックの玄関は開かないようですね』
「こんな家は偽物だ!」
『ええ』
Elはあっさり認めた。
『ですが本物の家でも息子さんには同じ働きをいたしました。あなた達が言う"家族"と同じですね』
父親は門へ手をかけたまま、動けなくなる。
『なお、お二人には扉を叩けば互いに音を聞いてくれる相手がいます』
黒煙が二人を順番に見る。
『繰り返しますが、彼は独りでした』
家も庭も霧のように消え、二人はまた河川敷へ立っていた━━。
* * *
百五十一日目。
父親と母親はもう祈に助けを求めなくなっていた。
だがそれは愛情が消えたのではなく、呼びかけても救われないと学習しただけだった。
父親は自分が会社へ戻れるのかを気にし、母親は放送が本当に全国へ流れているのかを何度も尋ねた。
五か月近い飢えや寒さを味わっても二人が最後まで恐れたのは息子へしたことではなく、自分たちが何をした人間として見られるかだった……。
残り一日を切った頃、二人の前へ温かいスープが一杯だけ現れた。
父親と母親は同時に手を伸ばす。
器を引き合い、熱い中身が互いの手へこぼれても離さない。
母親が父親の腕に噛みつき、父親が母親の髪を掴んだところで器は床へ落ちて割れた。
スープは一滴も残らず砂利へと染み込む。
二人はしばらく呆然と濡れた地面を見つめ、やがて同時に相手を責め始めた。
「最低……あなたが離さないからよ!」
「お前が噛んだからだろう!」
『実に心温まる食卓ですね』
Elが割れた器の横へ現れる。
「お前が最初から二つ用意すればよかったんだ!」
父親が怒鳴る。
『なぜでしょう』
「二人いるからだ!」
『ようやくお気づきになりましたか』
黒煙は砂利へ染み込んだスープを見下ろす。
『息子さんは独りでしたので、一杯あれば十分だったはずです。ですが、それすらもあなた方は用意なさらなかった』
それを聞いた父親はその場に力無くへたり込んだ。
「もう分かった……十分だ……!」
『何がでしょう』
「祈を追い出したのは間違いだった!」
『なぜ、間違いだったのですか』
「こんな目に遭うことになったからだ!」
父親は答えてから自分の失言に気づいた。
Elは何も言わない。
しかしその沈黙の方が、どんな皮肉よりも父親を追い詰めた。
「違う……そうじゃない。祈が苦しんだから……」
『先ほどの方が随分正直でしたね』
母親が黒煙の前へ膝をつく。
「祈へ謝らせてください。今度は本当に謝るから」
『謝罪とは、許しを引き出すための暗証番号ではございません』
「許してもらえなくていい! ただ会わせて……!」
『会って、何と仰るのでしょう』
「私が悪かった。あなたを信じなくて、家から追い出して……」
『そのあと、五か月以上捜さなかったことは?』
「それも……謝るわ」
『警察署で引き取りを拒否したことは?』
「謝ります……」
『テレビへ映った途端、幼少期の写真へ値段をつけたことは?』
母親の声が止まる。
『息子さんを取り戻したかったのではなく、息子さんの評判と価値を手に入れてたかったことは?』
「私は……」
『正直に』
河川敷の空へ、四十七台のカメラが赤いランプを灯す。
母親は全国から見られていることを思い出すがそれでも、もう取り繕う言葉を作る力すら残っていなかった。
「祈が褒められているのを見て……私の息子だって言いたくなった」
母親の声が震える。
「あの子が有名になれば、私も悪い母親じゃなかったと思ってもらえる気がして……。それに……和泉さんに取られたくなかったの……」
Elは父親へ顔を向ける。
『あなたは?』
父親は俯いたまま答えなかった。
『ご安心ください。録画は止まりません』
「会社で……息子のことを聞かれた」
父親の肩が落ちる。
「取引先の人間が祈を褒めた……家族で食事をしたいと言った。盗撮犯の父親ではなく、あの有名な少年の父親になれると思ったんだ……」
『それを家族愛と呼んだ』
「「……はい」」
『結構です』
Elは二人の前へ白い配送伝票を差し出した。
『返品理由が、ようやく正しく記載されました』
伝票には〈商品説明と実物が著しく異なるため〉と書かれている。
「これで……終わるの……?」
『間もなく』
母親が安堵しかけた瞬間、Elは穏やかに続けた。
『なお、お二人が味わった五か月には暴行も毒物も鉄パイプも、海の苦さすら含まれておりません』
父親の顔が上がる。
『天羽祈さんへお返しになったのは家を失った時間だけです。彼がその先で何をされたかはまた、別の方々の未払いとなっております━━』
「祈は……海で何を……」
『そちらは、どこかの特番でご覧になる可能性がございます』
Elは二人の問いへ答えなかった。
体感時計が最後の一秒を刻む。
〈百五十二日目 午後十一時五十九分五十九秒〉
〈返品完了〉
* * *
午前一時十三分。
河川敷の風景が消え、父親と母親はスタジオの床へ投げ出された。
現実の身体には凍傷も飢餓も残っていない。
衣服も番組開始時のままで髪や皮膚も五時間前から変化していなかったが、二人の精神だけは確かに過酷な五か月を過ごしていた。
父親は照明を冬の街灯だと思い込んで頭を抱え、母親はスタッフが差し出した毛布を奪うように掴んで誰にも取られないよう身体へ巻きつけた。
机へ水と軽食が置かれると二人はカメラも番組観覧者も忘れて飛びつき、互いの分が別々に用意されているにもかかわらず相手の皿を隠そうとする。
五時間前、感動番組の主役として座った煌びやかな夫婦の面影は全くなかった━━。
『返品の受領を確認いたしました』
スタジオ中央へ立つElの身体が崩れ始める。
『ご感想はいかがでしょう』
「二度と……二度と、こんな……」
母親が震えながら毛布の中から答える。
『息子さんも同じご意見かと』
「祈に……謝らせてくれ……」
父親の声から、これまでの威圧は消えていた。
『ご自由に』
「許してくれると思うか……?」
『それは天羽祈さんがお決めになることです』
黒煙は初めて、二人へ選択の余地を残した。
『もっとも、許しを期待している時点で異物が謝罪に混入しているようですが』
白い配送伝票が黒い炎に包まれる。
〈返送上限を超えてに追加された苦痛━━零〉
〈現実の身体に生じた損傷━━零〉
〈死亡━━零〉
〈購入及び判決━━該当なし〉
〈本執行への算入━━該当なし〉
『それでは、お大事に』
「待ってくれ! 祈は……海で死んだのか!」
父親の問いに、Elは答えなかった。
黒煙が完全に消えると透明な壁もなくなり、スタジオの扉が開いた。
待機していた警察官と救急隊員、児童相談所の職員が一斉に入ってくる。
生放送はそこで終了した━━。
* * *
《ミモザ》のテレビ画面が通常放送へ戻ったとき、祈は十一皿目の料理を食べ終えていた。
七緒が濡れた布巾でテーブルを拭きながら、祈の顔を覗き込む。
「終わったね……」
「そのようです」
「お父さんとお母さんに、会う?」
「ご両親から依頼があれば検討します」
「祈くんが会いたいかを聞いてるの」
祈は空の皿を見た。
「会いたいと思う理由がございません」
「そうだよね……」
七緒は無理に勧めなかった。
「じゃあ、帰ろうか」
「ここから二階へ移動するだけですが」
「それでも帰るの」
祈は一度だけテレビへ目を向け、立ち上がった。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
七緒の返事を聞いた瞬間、祈のポケットにある黒いスマートフォンが震えた。
━━保護者情報の更新を確認しました。
父親と母親の名前に重なっていた〈返品照合中〉の表示は消えている。
代わりに、二人の欄には新しい文字が表示されていた。
━━親権停止審判・保全処分申立て準備中。
━━返品は完了しましたが、次回の執行期限は更新されていません。
その結果は神よりも先に人間の制度が二人の名前を親権者の欄から外そうとしていた。
「珍しいですね」
祈は画面を閉じる。
「行政が、住所と家を正しく区別なさったようです」
その直後、店の外で車のブレーキ音がした。
火村のスマートフォンに鑑識課から緊急の連絡が入る。
『海底から回収した鉄パイプの血液、DNA型が出ました』
火村は祈を見た。
「誰と一致した」
『天羽祈です。警察が今朝採取した試料と完全に一致しました』
森川が息を呑む。
電話の向こうで鑑識員はさらに続けた。
『それと、ロープの結び目の内側から指紋が一つ残っています』
「照合できたのか」
『はい』
火村の表情が変わる。
『一ノ瀬学園三年、一ノ瀬真と一致しました』
店内の空気が止まった。
だが、祈だけが何も聞こえなかったように七緒へ尋ねる。
「帰宅祝いの夜食はございますか?」
あの夜の海がようやく一ノ瀬の名前を岸へ戻した━━。




