第四十二話 衣食住の大切さ 前編
体感時間の時計が〈一日目 午前零時零分〉を示した直後、父親と母親は同時にスタジオの床から消えた。
画面の隅には処刑配信では一度も使われたことのない白い伝票が表示されている。
〈手続区分――返品〉
〈出品、購入及び判決――該当なし〉
〈返送可能範囲――差出人が既に与えた損失のみ〉
〈死亡及び恒久的な身体損傷――禁止〉
祈が望んだから作られた苦痛ではない。
両親が息子を追い出してから七緒に保護されるまで続いた過酷な生活、そして保護者にすら信じてもらえる権利もない時間だけが差出人へ戻されていた。
全国に配信される映像の中では、二人は冬の河川敷へ立っている。
父親が番組のために新調した濃紺のスーツは薄汚れた作業着へ変わり、母親の上品なワンピースも毛玉の浮いた薄手の衣服となっていた。片方ずつ残された靴は左右が逆で、互いに交換しても大きさが合わない。
空には月も星もなく、川面を渡る風だけが皮膚の隙間へ入り込んだ。
「くそぉ……ここから出せ!」
父親は透明な壁の向こうにいる黒煙へ向かって叫んだ。
「これは監禁だ! 犯罪だぞ!」
『ご安心ください』
Elは街灯の下へ立ち、白い配送伝票へ視線を落とした。
『お二人は自由です。息子さんにも、そう説明なさったのでしょう?』
「祈は自分から出ていったんだ!」
『では、お二人もご自分の意思で帰宅なさればよろしいかと』
「出口がないと言っている!」
『奇遇ですね』
黒煙が僅かに首を傾げる。
『彼にもございませんでした』
父親は周囲を見回した。
河川敷の上には道路へ続く階段があり、その先には住宅街の明かりまで見えているため二人は互いに支え合いながら斜面を上った。
ところが、階段を登り切った瞬間に足元は再び同じ河川敷へ戻った。
反対方向へ歩いても川沿いを何キロ進んでも、十五分ほど経てば錆びた街灯と潰れた段ボール箱の前へ帰ってくる。
父親は最後には走り出したが空腹になるより先に息を切らし、膝へ両手をついた。
「祈! 聞こえているんだろうっ!」
母親は空へ向かって名前を呼んだ。
「お母さんよ! 助けて!」
『便利な呼称ですね』
Elの声が、川面と橋の下から同時に響く。
『閉め出す時には不要で、閉め出された途端に必要になる。非常口の看板より機能的です』
「私たちは反省したのよ!」
『一日目の午前零時十三分でございます』
配送伝票の端へ、黒い印が一つ押された。
『反省としてはかなり早熟ですね。息子さんを捜す決断は半年経っても熟さなかったようですが』
母親は言葉を失い、寒さから逃れるように父親の腕へ縋った。
そんな二人の前に空の段ボール箱と薄い新聞紙が落ちてくる。
『寝具をお届けしました』
「これだけ……?」
『お二人分でございます』
Elは丁寧に付け加えた。
『息子さんは一人でしたが、お二人には互いがいらっしゃいます。ご自慢の家族愛もございますので、保温性は日本が嫌いなはずのどこかの国家主席が持ってたタ◯ガーのタンブラーより上かと』
そう言い残した黒煙が消えると街灯まで消えた。
父親と母親は段ボールを奪い合い、結局一枚を地面へ敷いてもう一枚を二人の身体へ載せて背中を合わせた。
少しでも多く覆おうと互いに引っ張るたび反対側の肩や脚が露出し、夜が深くなる頃には温め合うより相手から熱を奪われているように感じ始めていた。
同じ寒さに同じ空腹、同じ閉ざされた帰路。
ただ一つ祈の五か月と違うのは、二人には最初から支え合うはずの互いが居ることだった。
それでも助け合わずに少ない段ボールを奪いあって相手の身体を風除けにすることを選んだ。
その醜さまでElが作ったわけではない。
透明な壁の外側ではその様子が一秒も途切れず全国へ配信されていた━━。
* * *
現実では、まだ二十分しか経過していなかった。
しかし《ミモザ》のテレビ画面に表示された体感時計は、既に〈十日目〉を示している。
七緒は祈の前から空になった皿を下げながら、代わりの料理を置く手を止めた。
番組が始まってから祈はミートソースを五皿、ハンバーグを三枚、白米を炊飯器の半分ほど食べている。
それでも顔色は僅かに白く、フォークを握る指先には普段見られない微かな震えがあった。
「祈くん、本当に大丈夫?」
「本日の厨房は少々、量が控えめですね」
「食事の話じゃないの」
「食事以外で僕に問題があるように見えますか」
七緒は画面と祈を見比べた。
河川敷では母親が自分の両腕を抱き、父親が枯れ草の中から食べられそうなものを探している。
二人の頬はかなり痩せこけ、唇には乾燥した亀裂が走っていた。
「止められないの?」
「僕にお尋ねですか」
「ほかに誰がいるの」
「画面の中に、神を名乗る方がいらっしゃいます」
「祈くん」
「僕は返品しか出来なかったので、死なせはしないそうです」
祈は七緒の目を見た。
「規約には反しておりません」
「そういうことを聞いてるんじゃないの。祈くんが怒っているからあの人たちを苦しませてるんじゃないかって聞いてるの」
祈はすぐには答えなかった。
テレビの中では母親が指先へ息を吹きかけ、父親が見つけた枯れ草を自分の服の内側へ隠している。
「当時の返品者の怒りで内容を決められるのでしたら、恐らく五か月では足りなかったでしょうね」
「祈くん……」
「ですが返品は判決ではありません。返されるのは既に差出人が他人へ渡したものだけです。僕にも画面のあの方にも、内容を増やす権利は多分ございません」
「それなら、祈くんが許したら止まるの?」
「許しには、起きたことを起きなかったことにする機能まではありません」
祈は自分の指先へ視線を落とした。
河川敷で眠った夜の冷たさを記憶している手は、暖房の効いた店内にいても僅かに震えている。
「僕が止めたところで五か月間帰る家がなかった事実は消えません。これは僕が選んだ復讐ではなく、あの方々が一度捨てた親権をもう一度使ったことで確定した返品です」
「……祈くんは、それを望んでる?」
七緒の問いだけが、因果律にも利用規約にも答えを用意されていなかった。
「望むことと正しいことが同じでしたら、人間は裁判所を必要としないのでしょうね」
七緒の表情が僅かに変わったが火村が先に祈の腕をつかんだ。
「なぁ、お前いつ返品手続きなんてしたんだ?」
「あの方々が七緒さんの病院を訪れた日です」
「ほう……今までのElは出品されたことによって人を殺していたが、返品という名目で殺さずに人を裁くことは一度もなかった。なぜお前にそれが出来たんだ━━?」
「Elは今までの犯行から亡くなった遺族が亡くなった人の遺品を差し出す事で成り立っています。僕はこの通り生きていますし、彼らに対する品物は血の繋がりしかないので出品は出来ませんでした」
「ほう……Elの規約の穴をお前だけ潜れたのか」
火村は祈の手首へ指を当てた。
脈拍は人間の範囲にあり、体温も異常はないがテレビの中で河川敷の風が強くなるたびに祈の脈だけが僅かに速くなっている。
「七緒さん」
祈は火村に手首をつかまれたまま追加の皿へ目を向けた。
「夕食をお願いできますか」
「今度は何が食べたいの」
「高カロリーで、短時間に摂取できるものでしたら何でも」
七緒は理由を聞かなかった。
厨房へ戻り、冷凍庫に残っていた肉とチーズを取り出す。
火村だけが、新しく出現した返品という制裁とその注文の意味を考えていた。
* * *
体感時間で十二日目、二人は初めて食べ物を見つけた。
橋の下へ置かれていた黒いごみ袋の中に、消費期限を三日過ぎた弁当が一つ入っている。
母親が袋を開けた瞬間、酸味の混じった臭いに顔を背けた。
「こんなもの……食べられないわ」
「ほかにないんだぞ」
「あなたが食べればいいでしょう」
「お前は俺だけに腹を壊せと言うのか」
二人は弁当を前に一時間近く言い争った。
空腹が勝って父親が箸を伸ばすと母親も容器を奪い、一口でも多く食べようと互いの手を押し退ける。
父親は大きな肉を自分の口へ入れ、母親は残った米を両手で掴んだ。
最後の一粒までなくなったところで、Elの拍手が聞こえた。
『お見事です』
「くそっ……俺たちを見世物にするんじゃねぇ!」
父親が空の容器を投げつけたが、黒煙の身体へ触れる前に床へ落ちた。
『家族会議は無事に終了したようですね。今夜の議題は"どちらが多く食べたか"でございましたか』
「お前が一つしか用意しなかったからだろ!」
『息子さんが最初に食事を得たのは、家を追い出されて何日後だったでしょう』
「知らないわよ!」
母親が叫ぶ。
「あの子を追い出してからなんて私たちが知るわけないでしょう! 興味もないわよ!」
言葉が全国へ流れたあと、母親は自分の口を押さえた。
『ご回答ありがとうございます』
Elは白い伝票へ新しい項目を書き込む。
『毎晩捜していたという番組冒頭の証言は、返品物へ加えておきましょう』
「違っ、今のは空腹で混乱して……!」
『空腹とは便利ですね。家族愛だけでなく記憶まで減らすとは』
「祈に会わせて!」
『なぜでしょう』
「あの子なら、こんなことを望まないわ!」
『半年以上の間、一度も話を聞かなかった方が息子さんの望みにだけは随分お詳しい』
黒煙の奥で、目に似た二つの暗がりが開く。
『親という肩書には、読心術までスターターデッキに含まれるのでしょうか』
母親は後退し、父親の背中へ隠れた。
『それと、一つ訂正しておきます』
Elの声は穏やかなままだった。
『あなた方は二人でしたが、彼はずっと独りでしたよ』
河川敷の風が止まる。
『お二人には互いを責める相手も、食べ物を奪い合う相手も助けを呼ぶ声を聞く相手もいる。ですが彼にはご自身の無実を信じる人間さえ、誰ひとりおりませんでした━━』
「だから何だ!」
父親は叫んだ。
「親だって人間だ! 間違うことはある!」
『ええ』
Elは素直に頷いた。
『ですから今夜、その間違いがどれほど長く続き、いかに反省していないのかを復習していただいております。冬の寒い夜に子供を放り出す程、教育熱心なご家庭には反復学習がお似合いかと』
黒煙が消え、二人の体感時計は十三日目へ進んだ。
* * *
三十七日目。
父親と母親は駅の待合室にいた。
河川敷を出られたわけではない。
風景の方が変わり、冷たい砂利と枯れ草の代わりに祈が何度も夜を明かそうとした駅前が二人を囲んでいる。
暖房のある待合室へ入ろうとすると扉の前に制服を着た駅員が立った。
『ここで寝ないでください』
「外は寒いんです。一晩だけでも……!」
『ほかのお客様の迷惑になります』
「私たちは犯罪者じゃない!」
『皆さん、そう仰います』
駅員の顔は無く、胸元の名札には〈社会〉とだけ書かれていた。
父親が財布を探してもポケットは空で、母親が自分たちの住所と名前を伝えても駅員は表情のない顔で同じ言葉を繰り返す。
『帰る場所があるなら、そこに帰ってください』
「帰れないから頼んでいるのよ!」
『それはご本人の問題です』
待合室の扉が閉じ、二人の顔がガラスへ映った。
母親は拳で扉を叩き続けたが中にいる人々は目を合わせようとしない。一人の若者だけがスマートフォンを向け、汚れた格好で騒ぐ夫婦の姿を撮影している。
「撮らないでよ!」
母親が顔を隠す。
「私たちはこんな人間じゃないの……!」
その声と同時に待合室の広告モニターへ生放送前の母親の映像が流れた。
『目元を、もう少し疲れて見えるようにできますか』
メイク担当へ注文する自分の声。
続けて祈の幼少期写真へ値段をつけて週刊誌の担当者へ送ったメールが表示される。
駅にいる人々は何も言わずにただ母親へスマートフォンを向けた。
「やめて……見ないで……!」
『有名な息子さんのご家族として、注目をお望みでしたね』
Elの声が構内放送から流れる。
『ご希望の商品をお届けしております』
「こんな注目を望んだんじゃない!」
『世間の関心は注文時に種類を選べません。息子さんも同じでした』
父親は撮影する人々へ怒鳴り、スマートフォンを奪おうとしたが触れるたび相手は煙となって消えてしまい、少し離れた場所へ新しい群衆が現れる。
「祈は盗撮事件を起こしたんだ! 私たちだって被害者だった!」
『現在、その証拠は捏造の疑いで捜査されております』
「あのときは本物だと思った!」
『息子さんの言葉より、知らない誰かが作った記録を信じたと……?』
「警察がそう言ったんだ!」
『責任の転居先だけは随分と早く見つけるのですね』
黒煙が改札の向こうへ現れる。
『彼が帰るべきご自宅への道だけは、五か月かけても一切探しませんでしたが』
やがて終電を告げる放送が流れ、待合室と群衆が消えると二人は再び冬の河川敷へ戻されていた━━。
* * *
現実時間の午後九時二分。
放送開始から二時間近く経過しても視聴者数は減るどころか増え続け、街頭の大型ビジョンや飲食店だけでなく病院の待合室まで同じ映像が流れていた。
祈の父親の勤務先には抗議の電話が殺到し、会社は緊急声明で事実関係を調査すると発表した。
母親が所属する地域の保護者会では、過去に彼女が祈の盗撮事件を近隣へ触れ回っていたことまで証言され始めている。
一ノ瀬学園は番組とElの配信について一切関知していないと発表したが、理事長が祈の両親へ顧問弁護士を紹介した記録も、あの久我から番組調査班へ届いた資料に含まれていた。
理事長室では一ノ瀬の父親が放送を消そうとしてリモコンを壁へ投げつけている。
「ちっ……久我の奴め……!」
「あの人が資料を送ったんですか」
一ノ瀬真が尋ねた。
「ほかに誰が持っている」
「祈なら、すべて知っているかもしれません」
「天羽祈は《ミモザ》にいる。火村が横へ立っている状態でElとして動けるはずがない」
「では、別人だと?」
理事長は答えなかった。
放送画面の隅には出品者も商品も購入者も存在せず、今夜は判決ではないと明記されている。
それでも天羽祈の両親だけが選ばれたのはElが無条件に人間を狙えるからではない。
一度放棄した親権を利益のために使い直したことで、それまで宛先の定まらなかった因果の返送先になったからだ。
「少なくとも今夜は、天羽祈が気に入らない人間を殺しているわけではない」
理事長が呟くと、真は画面へ目を細めた。
「なら、十三円で出品されていない人間は殺せない?」
「この放送だけを見ればな。だが返品ができる条件と、判決を下せる条件が同じとは限らん」
理事長は〈本執行には算入されません〉と表示された箇所を保存した。
その一文が何へ算入されないのかまでは分からない。
ただElにも手続きと区別があり、万能に見える力が無秩序ではないことだけは初めて確認できた。
祈がElでなければ今まで排除しようとした少年の背後には説明のつかない怪物がいる。
しかし祈がElであるなら、百キロ離れた場所へ同時に存在しながら平然と食事をしている。
どちらの答えを選んでも自分たちの手が届かないことだけは同じだった。
「両親は、もう使えない」
理事長が低い声で言う。
「今夜が終われば、親権を主張しても世間も行政も絶対に認めないだろう」
「次はどうします」
「結城家だ」
真の目が動いた。
「葵の家を巻き込むんですか」
「巻き込むのではない。娘を守るために自分から動いてもらう」
理事長は消えない画面へ視線を戻した。
「天羽祈がElである可能性を結城家が無視できない形で渡す。それは学校法人の作った記録ではなく、国の機関が調査せざるを得ない材料としてな」
真は黙って頷いた。
画面の中では祈の両親が互いを罵りながら一枚の毛布を奪い合っている。
家族という言葉が役に立たなくなった瞬間、二人がどれほど簡単に相手を捨てるのかその姿は一ノ瀬親子にとっても他人事ではなかった━━。




