第四十話 偽りの家族会議 前編
祈が一時保護施設へ到着したのは午後九時を少し過ぎた頃だった。
児童相談所が市内で運営する二階建ての施設には家庭へ戻れない子供たちが十人ほど暮らしている。
職員は祈を犯罪者のように扱わず、着替えと洗面用具を渡して夕食を食べていないと聞けば厨房に残っていたカレーを温めてくれた。
ただし、祈にとってその一人前は試食に近かった。
「おかわりはありますか」
「まだ鍋に残ってるよ」
「それは幸いです」
三分後、職員は空になった業務用の鍋と祈の顔を見比べていた。
「全部……食べたの?」
「はい。大変おいしゅうございました」
「五人分くらいあったんだけど」
「では、残り四名の方へ感謝をお伝えください」
「その……残り四人って祈くんの中にいるの?」
「少なくとも胃にはおります」
職員は冗談だと思って笑ったが、祈が非常食の保管庫へ視線を向けた途端に念のため鍵がかかっていることを確認した。
食堂の端では小学校低学年ほどの少年がプリンを持ったまま祈を見ていた。
目が合うと慌てて俯いたが、しばらくしてから椅子を引きずり、祈の隣へ座る。
「お兄ちゃんも、お父さんとお母さんに怒られたの?」
「怒られる行為と、怒る資格は別の問題かと」
「帰りたい?」
「既に帰宅先はございます」
「でも、ここにいるよ?」
「行政というのは、時折家と住所を取り違えますので」
少年は意味が分からないまま、それでも少しだけ笑った。
「僕は……帰りたくない」
「それはどうして?」
「お父さん、帰ると叩くから。でも先生はお父さんも反省してるって言ってた」
祈は少年の手にあるプリンを見た。
自分なら会話より先に食べ終えているはずだが、少年は蓋を開けることもせず指へ力を入れている。
「反省とは、被害者が安心できる状態を指します」
「ごめんなさいって手紙を書くことじゃないの?」
「それだけで済むのでしたら、刑務所は郵便局になっております」
祈はテーブルに置かれていたプラスチックのスプーンを少年へ渡した。
「大人の反省より、プリンの賞味期限を信用なさる方がよろしいかと」
「お兄ちゃんは食べないの?」
「食べたいですが、所有権は尊重します」
「えっと……じゃあ半分あげる」
「将来有望ですね」
「ちょっと祈くん!?」
祈は遠慮なく半分を受け取り、職員から子供の分を食べないよう注意された。
午後十一時、割り当てられた個室へ入ると預けたはずの黒いスマートフォンが枕の上に置かれていた。
一般利用者には見えない画面には二つの表示が上下へ並んでいる。
━━次回の執行期限まで百四十五時間十三分。
━━未返却因果の差出人を二名確認しました。
父親と母親の名前の上には〈返品照合中〉と表示され、 出品者、商品、購入者、判決対象の欄はすべて空白になっている。
ただ画面に記されているのは二人が既に祈へ与えたものの記録だけだった。
停止された電話と銀行口座。
交換された玄関の鍵。
警察からの引き取りを拒んだ記録。
暖房のない場所で眠り、空腹のまま誰にも信じられずに過ごした時間。
新しく作ることはできないが、因果の差出人へ同じ範囲で返すことだけは購入とは別の処理として認められていた。
ただし返せるのは、二人が直接与えた損失まで。
一ノ瀬たちが祈へ毒を飲ませて鉄パイプで骨を砕き、海へ沈めた罪などは一つも含められない。
祈が両親を憎んだとしてもされた以上の苦痛を増やすことはできず、返送によって命や身体の一部を奪うことも因果律として許されなかった。
そしてなにより誰も死なない以上、処刑までの残り時間は一秒も戻らない━━。
「僕に棲む神の規約は無駄に細かいですね。聖書が分厚くなる訳です」
利用規約を読まない人間よりも内に存在するElというのは因果律の方が慎重らしい。
祈が画面へ触れる前にすべての項目が閉じた。
購入ボタンも、承認ボタンも最初から存在しない。
これは祈が望んだことで始まる復讐ではなく、一度捨てた息子の親権を再び利用しようとした二人が自分たちの行為によって返送先を確定させた処理だった。
最後に、短い予告だけが残る。
━━返品条件の最終確認まで、二十一時間。
祈は何も押さず画面を閉じた。
「もっとも、明日はテレビへ出演なさるそうですので」
暗くなった端末に僅かに笑いかける。
「名誉に関してはそちらの方が致死率は高いでしょう━━」
* * *
翌朝の話し合いで、祈の両親は前日とは別人のように穏やかだった。
児童相談所の会議室には両親と担当職員、学校法人の顧問弁護士が並び、退院したばかりの七緒も左手首へ包帯を巻いたまま祈の隣へ座っている。
火村は事故捜査に関する説明者として壁際に立ち、森川が記録を取っていた。
「まず、祈へ謝りたいと思います」
父親が深く頭を下げる。
「五か月前、私たちは冷静さを失っていた。学校と警察から盗撮の証拠があると説明され、息子の言葉より社会的な立場を優先してしまいました」
母親も目元へハンカチを当てた。
「毎日後悔していたのよ。祈が帰ってきたら今度こそ家族で話し合おうって」
「その割に五か月間、連絡は一切ございませんでしたが」
「あなたが携帯電話を持っていなかったからでしょう」
「なるほど。契約を一時停止した方から通信環境を責められるとは……楽◯モバイルも気の毒ですね」
母親の涙が一瞬止まる。
父親は机の下で妻の膝へ触れ、用意してきた表情へ戻るよう促した。
「過去をなかったことにしたいわけではない。ただ、家族としてやり直す機会が欲しいんだ」
「やり直すと仰る方はリスポーン地点を自由にお選びになれて羨ましいです。僕としては玄関の鍵を交換される辺りからリスポーンしたいのですが」
「天羽くん」
担当職員が柔らかく制止する。
「今日はお互いの気持ちを確認するための話し合いです」
「承知しております。今日のドラマ撮影ではご両親は反省し、僕は感動するというシーンなのでしょう」
「撮影内容を決めているわけではありません」
「それは失礼しました。あまりにチープな台本どおりのお話でしたので」
父親のこめかみが僅かに動いた。
七緒が祈の腕へ触れる。
「祈くん。今日は少しだけ任せて」
「七緒さんが仰るのでしたら」
祈は素直に黙った。
その態度の違いを見た母親の指がハンカチを強く握る。
七緒は警察署で両親が引き取りを拒否した記録、最初に児童相談所へ相談した日時や祈の通院と復学の手続き、五か月間の生活費と食事量を記したノートを机へ置いた。
「私は祈くんの母親になるつもりはありません。でも、祈くんが帰る場所としてここを選んでいる間は絶対に扉を閉めません」
「その結果、あなたは事故に遭ったでしょう」
父親が言った。
「祈の周囲には危険な人間がいる。あなた一人では息子を守れないことが証明された」
「事故を起こした人間の目的は、私と祈くんを引き離すことです」
七緒は父親から目を逸らさなかった。
「ここで私が怖がって手放したら犯人の望みどおりになります」
「これは感情ではなく、安全の話をしているんです」
「最愛の息子の捜索願も出さなかった方が安全を語るのですか?」
「今は反省していると言ったでしょう!」
「声を大きくしても、過去は小さくなりませんよ」
会議室が静まる。
火村は口を挟まずに両親の反応を見ていた。
父親は苛立ちを押し込み、封筒からテレビ番組の企画書を取り出した。
それは今夜七時から放送される報道特別番組で、祈の失踪と家族の再生について話す予定だという。
「世間へ広がった誤解を解く必要があります。私たちが祈を捨てたという報道が出れば息子自身も傷つく」
「では出演料の方は?」
祈が尋ねた。
「今は金の話ではない」
「無償なのですか」
「番組から規定の謝礼は出る。それは当然だろう」
「薄っぺらい家族愛にも出演料が分厚く支払われるとは、テレビ局というのは神社より気前がよろしいですね」
母親が祈を睨みかけ、職員の視線に気づいて悲しそうな表情へ戻った。
「祈も、リモートで出演してくれるでしょう?」
「既に了承しております」
「……え?」
「番組から直接依頼を受けました」
祈は七緒を見た。
「但し、《ミモザ》からの出演と七緒さんの同席を条件に」
両親は互いの顔を見た。
祈が最後には家族への感謝を口にすると番組側へ説明していたため、拒否されなかったことを自分たちに有利な兆候だと考える。
「よかった。今夜、きちんと話し合いましょう」
「生放送で家族会議とは。遺産相続より穏やかに終わればよいですね━━」




