第三十九話 仕組まれた事故
大型配送車と七緒の車との距離が一メートルを切った瞬間、交差点から音が消えた━━。
時間が止まったわけではなく配送車のタイヤは回転を続けてエンジンは唸り、運転席の男が踏み込んだアクセルに応じて速度計の針も上がっている。
それでも車体は七緒の車に一切届かず、両者の間に残された数十センチだけがどれほど前へ進んでも縮まらなかった。
行き場を失った運動だけが配送車の内部へ押し戻され、フロント部分が見えない壁へ衝突したように中央から潰れていく。
タイヤの下ではアスファルトが黒い波となって盛り上がり、荷台の金属板が内側から圧迫されて悲鳴を上げた。
「何だ……一体何が起きたっ……!」
運転手はハンドルへしがみつきながらブレーキを踏んだ。
つい数秒前まで止まるつもりなどなく、指定された交差点へ対象の車が入ったら運転席側に斜めから接触して車体を歩道の柵へ押しつける。
和泉七緒は死なせず、軽い骨折と入院が必要な程度に負傷させろと指示されていた。
配送車には本物の荷物を積んで勤務先の正規の運行記録にもこの道を通る予定を加えた。
事故後は信号を見落としたと認め、居眠り運転による業務上過失として処理されるはずだった。
だが、今は足の裏が痛むほどブレーキを踏み込んでも車体の変化が止まらない。
前へ進みながら同じ場所へ留まり続ける窓の向こうで、七緒の車だけが回避の勢いを残して道路脇のガードレールへ衝突した。エアバッグが開き、運転席の姿が膨らんだ白い布に隠れる。
その瞬間、配送車のフロントガラスへ一人の少年が映った。
黒い制服。
風に揺れない黒髪。
細い身体は車と七緒の間へ立っているように見えるのに、足元だけが地面に届いていない。
運転手は思わず何度も瞬きをした。
少年は消えるどころかフロントガラスへ映る姿だけが少しずつ近づき、いつの間にか自分の助手席へ座っていた。
肉眼で横を見れば空席なのに、ガラスの反射の中では少年が首を傾けてこちらを見ている。
「七緒さんが悲しみますので、死なない程度に止めてあげます」
声は助手席からではなく、運転手の胸郭の内側から聞こえた。
「ひっ……!」
少年の背後には交差点より大きな黒いモノが立ち上がる。
それは煙にも影にも見えたがその奥には暗い海よりさらに深い空間が広がり、そこへ沈んだ人間の声が無数に重なっていた。
運転手はその存在が自分を憎んでいるのではないと理解した━━。
憎悪すら向けられておらず、自分の命を残すことも奪うことも、スーパーの棚から二つの食品のどちらを選ぶかと同じ程度の問題として扱っている。
「あ、悪魔……」
ようやく口から出た言葉に、少年は薄く微笑んだ。
「悪魔は契約を守るそうですよ」
穏やかな声だった。
「あなたの依頼主より信用できるかと」
配送車の前輪が路面から浮く。
その瞬間、十トン以上もある車体が子供の玩具のように横へ傾いて歩道の児童と七緒の車を避けた空き車線へ静かに倒された。
荷台が地面へ触れた瞬間だけ激しい音が交差点へ戻り、窓ガラスが一斉に割れたものの運転席を守る空間だけは不自然なほど原形を保っていた。
運転手はシートベルトに吊られ、意識を失う直前までフロントガラスの中にいる少年から目を逸らせなかった━━。
* * *
黒い車の後部座席で、久我は一部始終を望遠カメラ越しに見ていた。
配送車が七緒へ衝突する三秒前、ファインダーいっぱいに祈の瞳が映ったあともシャッターから指を離さずカメラの故障を疑って予備機へ持ち替えている。
肉眼で見える交差点に祈はいない。
だがファインダーの中では、黒い制服の少年が配送車と七緒の間へ立っている。
久我は二十年以上人間を追跡して撮影し、ときには依頼主が望む場所から二度と戻れないよう手を貸してきた。
標的へ気づかれず近づくことも警察の監視から逃れることも仕事のうちであり、望遠レンズの向こうにいる相手と目が合った程度で手を止めるような人間ではない。
それでも祈が七緒ではなく自分へ顔を向けた瞬間、久我の指は動かなくなった。
『撮影は結構ですが、七緒さんを画角の中心へ置くのはおやめください』
接続されていないカメラのスピーカーから、祈の声が流れる。
「次も向けたら……どうする」
久我は自分でも意外なほど落ち着いた声で尋ねた。
『そのときは、カメラマンの方が新聞の一面に載ります』
「俺を殺すのか」
『"今日は"七緒さんから禁じられておりますので』
ファインダーの中で祈が一度だけ七緒へ目を向ける。
その視線は、配送車を止めたときより慎重だった。
膨らんだエアバッグの隙間から七緒の呼吸を確かめて額から流れた血の量を測り、ハンドルへ挟まれていない両腕と胸部へかかったシートベルトの位置を確認する。
続いて歩道の児童と横転した配送車の運転手、急停止した周囲の車両まで見渡して一人も死んでいないことを確かめてから久我へ視線を戻した。
『プロのあなたが命拾いした理由が、高校生の約束以下だったとはお気の毒ですね』
「あの女に救われたということか……」
『理解がお早い。依頼主選びにもその知性を活用なさるべきでした』
カメラのレンズに内側から一本の亀裂が走る。
割れ目は祈の瞳を中心に蜘蛛の巣のように広がり、保存媒体からそれまで撮影した画像が一枚ずつ消えていった。祈と配送車と七緒の車、交差点の位置関係を示す写真はすべて黒く塗り潰されて最後に残ったのはカメラを抱えた久我自身の姿だけだった。
だがそれは撮影した覚えのない画像である。
その中の久我は怯えた顔で後部座席へ座り、背後には祈が立っていた。
久我は反射的に振り返った。
車内には自分しかいない。
再び画面へ目を戻すと画像の下へ新しい文字が表示されていた。
〈次の依頼主は、もう少し慎重にお選びください〉
「久我さん……どうします」
運転席の男が尋ねる。
「配送車は失敗しました。警察も来ます」
「ここを離れろ」
「和泉七緒は?」
「今後、監視対象から外す」
久我は即答した。
祈が恐ろしいからだけではない。
人間を殺せる者なら久我は何人も知っている。
自分自身もその一人だったがあんなデカいトラックを止められる力を持ちながら怒りに任せて運転手を潰さず、歩道の子供も周囲の車も傷つけず、たった一人の女を守るために正体を晒す危険まで引き受けた人間をほかには知らなかった。
始末するだけなら狙いを定めて引き金を引けばさっさと終わる。
だが、守る仕事には対象以外の命まで視界へ入れる余裕が必要になる。
久我は祈を善人だとは思わなかったが、人間だとももう思えなかった。
それでも、自分と同じく人の生死を扱う仕事人として恐怖の底へ初めて別の感情が混じっている。
彼への申し訳なさ、そして敬意だった。
黒い車が交差点から離れる。
久我は割れたカメラの電源を切り、祈が残した一枚だけを別のメモリーに移した。
* * *
教室を出た祈が事故現場へ到着するまで三分もかからなかった。
学校から中央通りまでは最短の道でも徒歩で二十分以上かかる。
校門の教師は祈が走り去る姿を見ておらず、通学路の防犯カメラにも映っていないが、事故を目撃した人々が次に気づいたときには黒い制服の少年が七緒の車の前に立っていた。
「七緒さん」
運転席のドアはガードレールへ押しつけられ、助手席側から近づいた消防隊員が窓を割ろうとしている。
祈がドアノブへ指をかけると歪んだ車体が金属音を立てながら事故前の形へ戻り、ロックも解除されていない扉が抵抗なく開いた。
「君! 危ないから離れなさい!」
「家族です」
制止した消防隊員へ祈はそれだけ答え、膨らんだエアバッグの向こうから七緒を抱き上げた。
七緒の額には割れたガラスによる浅い僅かな傷があり、左手首を軽く捻っていたものの意識ははっきりしている。
祈の顔を見ると安心するより先に眉をつり上げた。
「遅れてすみません」
「祈くん……どうしてここにいるの」
「早退しました」
「学校で待っててって送ったでしょう」
「店にいるとも書かれていました」
「それは……」
「虚偽の連絡は、保護者として望ましくありません」
祈の声に怒りはなく七緒を抱える腕も震えていない。
それでも顔色は普段より白く、七緒の額から落ちたほんの一滴の血だけを見つめている。
「痛みますか」
「手首と胸の辺りだけだよ。でも息はできるし本当に大丈夫だから」
祈が横転した配送車へ顔を向ける。
運転手は割れた窓から救出され、路面へ寝かされていた。
命に別状はなかったが、祈の視線に気づいた途端酸素マスクを押さえながらへっぴり腰で情けなく後ろに逃げようとする。
「く、来るなぁ……!」
「祈くん」
七緒が少年の頬へ手を添え、自分の方へ向き直らせた。
「今朝の約束……覚えてる?」
「善処しております」
「それなら、あの人を見ない」
「ゴミが視界に入っただけです」
「目が怖いの」
祈は数秒黙り、七緒だけを見ることにした。
「僕は通常どおりですが」
「箸をきな粉にした人が言わないで」
「品質に問題があった可能性も否定できません」
「帰ったら同じ箸を渡すから、もう一回試してみる?」
「事故直後の患者へ家事を求めるほど僕はモラハラ男ではありません」
七緒が小さく笑う。
その笑顔を見て初めて祈の瞳から海の底のような暗さが薄れた。
遅れて到着した火村は救急車の横で七緒を抱えている祈を見ると腕時計を確認し、それから学校の方角へ目を向けた。
「天羽。お前、どうやってここまで来た」
「LO◯Pです」
「ほう、電車より速く走ったと?」
「あの乗り物で交通ルールを守ってる人なんて少数ですから、駅でいちいち停まる電車より早いですよ」
「質問に答えてくれ」
「火村さん」
七緒が弱い声で呼ぶ。
「お説教はあとにしてください」
「……悪い、店長は早く病院へ行くんだ。天羽、お前も付き添ってやってくれ」
「もちろん」
祈は珍しく一度も反論せず、七緒を担架へ乗せる救急隊員の手元を最後まで見つめていた。
* * *
配送車の運転手から話を聞けたのはその日の午後六時だった。
運転手には右肩の脱臼と肋骨二本の骨折はあったが横転した大型車両の運転席にいた人間としては不自然なほど軽傷であり、病院の処置室へ入った火村と森川を見た男は自分から警察の保護を求めた。
「すみません、あれは事故じゃありません」
男は震える両手を毛布の下へ隠した。
「ぶ、ぶつけろと言われました……。でも、殺すなって。女をしばらく入院させればいいと……」
「誰に依頼された」
「知らない。暗号化されたアプリで連絡が来て、前金は百万円。残りは事故のあとに振り込むって」
「連絡に使った端末は」
「配送車の中です」
森川が回収状況を確認するため病室の外へ出る。
火村は祈の写真を机へ置いた。
「この少年を見たか」
男は写真へ目を落とした瞬間、椅子の背へ身体をぶつけた。
点滴の管が引っ張られても気にせず距離を取り、子供のように首を横に何度も振る。
「こ、コイツだ……っ……!」
「天羽祈。事故当時は学校にいた」
「そんな……そんなの嘘だぁっ!」
男の声が裏返る。
「コイツは車の前にいた……! 俺の車と女の間に立って、そ、それから助手席に……でも俺が横を見ても誰もいなくて……! あああああっ……!」
「落ち着け。何をされた」
「なにも、何もされてない……」
「何も?」
「何もしてないんだよ! コイツが手をかざしただけで俺のトラックが前に進まなくなった……。潰そうと思えば俺ごとひねり潰せたのに、コイツはあの時……あえて運転席だけ残したんだよ……!」
男は両腕で頭を抱えた。
「悪魔だ……いや、悪魔なんて言葉じゃ足りない。悪魔なら人を殺すだろ!? アイツは……あいつは俺を殺さないことまで最初から決めてたんだ!」
「天羽は、何か言ったのか」
「女が悲しむから、死なない程度に止まれって……」
火村の表情が僅かに変わる。
「それから……あ、悪魔は契約を守るだとか、俺の依頼主より信用できる、今回は命拾いしたなって言った。俺が誰に雇われたのかも、まるで全部知ってるみたいによぉ……!」
「依頼主を見たことは」
「ないよ!」
「声、支払い口座、使ったアプリ、覚えているものをすべて話せ」
「話します。全部話すから、頼むよ刑事さん! 俺を守ってくれぇ……!」
男は火村のコートの袖へ縋りついた。
「な、なぁ……警察ならアレから守れるんだろ……?」
火村はすぐに答えられなかった。
「相手が人間でも神でも高校生でも、守る方法を探す。それが俺たちの仕事だ」
「は? ほ、方法を探す……?」
男の顔からさらに血の気が引く。
「そんな……今から探すのかよ……」
「正直に答えたな」
「ふざけないでくれ! 俺はどんな殺され方をするか想像もつかない奴に狙われるのはごめんだ……! 頼む! 頼むよ刑事さん!」
「俺もふざけてる余裕はない」
火村は写真を裏返した。
祈が直接事故現場へ現れた証拠はない。
交差点の監視カメラは数十羽の烏がレンズの前へ集まったことで衝突直前の映像だけが隠され、目撃者の誰も黒い制服の少年を見ていなかった。
それでも何十トンもの配送車は衝突せずに横転し、七緒を狙った男は祈を悪魔と呼び、殺されなかったことを最も恐れている。
火村は処置室を出ると森川へ事故車両と運転手の通信履歴を徹底的に調べるよう指示した。
「天羽を疑うんですか」
「事故を起こした疑いはない」
「では、止めた疑い?」
「疑いという言葉で簡単に扱えるならな」
火村は廊下の窓から、同じ病院の上階を見上げた。
「問題は、誰が和泉七緒を狙ったかだ━━」
* * *
久我から事故失敗の報告を受けた一ノ瀬理事長は怒鳴らなかった。
午後六時十九分、暗号化された通話の向こうで事故の状況を聞き終えると、机に置いた和泉七緒の写真へ赤い線を引く。
『対象には、やはり護衛がついています』
「おかしいな。警察官は一人しか残っていなかったはずだ」
『警察なら、まだ仕事になりましたよ』
「まさか……天羽祈が現れたのか」
久我は数秒黙った。
『アレを"少年"として数えるのでしたら』
「映像を送れ」
『残っていません』
「では、監視を続けろ。病院から戻ったあとを━━」
『お断りします』
理事長の指が止まる。
「契約を忘れたのか」
『契約は、依頼人より対象を恐れ始めた時点で破綻します。それに彼自身の調査は打ち切ると前回言いましたがあなたがどうしてもと言うので仕方なく今回━━』
「報酬を倍にする」
『金額の問題ではありません』
「では何だ」
久我は割れたカメラの中に残った祈の画像を見た。
『仕事の流儀です、彼と和泉七緒には今後二度と触れません。では』
通話が切れる。
一ノ瀬真は父親の向かいでその会話を聞いていたが、事故の失敗よりも久我が離反したことに不安を覚えた。
「久我を消しますか」
「今は放っておけ。こちらの名前を直接示す証拠は渡していない」
「運転手が捕まりました」
「複数の仲介人を挟んでいる。支払い口座も三日前に死んだ人間の名義だ」
理事長は七緒の写真と交差点の地図を封筒へ戻した。
「むしろ、事故が起きたことで都合がよくなった」
「失敗したのに?」
「和泉七緒は天羽祈を守れる保護者ではないと証明された。あの少年の周囲にいるだけで命を狙われる」
真は父親の意図を理解する。
「事故を理由に祈を一時保護させるんですね」
「両親には既に病院へ向かわせた。児童相談所には和泉七緒の住居が脅迫対象になり、本人まで故意の交通事故に遭った可能性があると追加報告させている」
「自分たちが起こした事故を七緒から祈を引き離す理由へ使う━━」
「そうだ。誰が起こしたかを証明できなければ残るのは危険な環境という事実だけだ」
真は僅かに笑った。
「葵には、何も言わない方がいいですね」
「なぜだ」
「事故の直前祈は学校にいました。なのに起きる前からそれを知っていた口ぶりだったらしいのです。なら今は僕が疑わせなくても葵自身がその意味を考えます」
さらに真が七緒を見舞い、祈を心配する姿を見せれば自分が通信記録の捏造へ関わっているという疑いも遠ざけられる。
「和泉さんが傷ついてよい理由にはならない。祈について何が分かっても事故を起こした人間は許せないと葵へ言います」
「本心か」
「どちらでも、同じ効果があります」
理事長の口元へ薄い笑みが浮かぶ。
「今夜、病院へ行け」
「はい」
真は席を立った。
人を海へ沈めたときは、自分の手で触れなければ祈を排除できないと思っていた。
今は違う。
法律、行政、親権、家族の心配、被害者への同情。善意の顔をしたものほど、誰かを追い出すときには便利な道具になる━━。
* * *
七緒の診断は左手首の軽い捻挫、そして額の裂傷だった。
念のため一晩入院することになったものの医師から命に関わる怪我はないと説明され、祈は病室の隅でようやくコンビニ袋を開いた。
カレーパン八個、サンドイッチ四袋、フライドチキン、焼きそば、牛乳の代わりに二リットルのスポーツドリンクが3本入っている。
「祈くん」
「はい」
「病室で宴会を始めないでくれる?」
「これは昼食が中断されましたので、補完しているだけです」
「私が事故に遭ったからでしょう」
「責任をお感じになる必要はありません。食欲は通常運転です」
七緒はベッドへ横になったまま、祈が一つ目のおにぎりを開ける姿を見つめた。
事故現場では白くなっていた顔も普段へ戻って食べる速度にも異常はない。
「祈くん」
「先ほども伺いました」
「来てくれて……ありがとう」
包装を剥がす指が止まる。
「虚偽の連絡に対する謝罪が先では?」
「ごめんなさい」
「素直ですね」
「祈くんと違ってね」
「何をおっしゃる、僕は大変素直な少年ですよ」
「じゃあ、どうして事故が起きる前に分かったの……?」
「烏から伺いました」
「はぁ、もう少しまともな嘘をつきなさい」
「真実を申し上げても叱られるとは、家庭内の司法制度に問題がありますね」
七緒は呆れたように息を吐いたが追及はしなかった。
祈が何者なのかは分からず、海へ沈められた記憶を持ちながら傷一つなく戻って人間には持てない力を隠していることも昨夜のElと繋がっている可能性も考えている。
それでも、事故の瞬間七緒が最初に望んだのは少年の正体を知ることではなく、祈が自分を守るために誰かを殺さないことだった。
そして祈も、説明を求められないことへ甘えていた。
「今夜の夕食は、どうしますか」
「やっぱりそれが心配なの?」
「七緒さんが今夜も帰宅するのか確認しております」
祈はおにぎりへ視線を落としたまま答えた。
「食事は二の次です」
七緒の表情が止まる。
祈が冗談で誤魔化さずに自分を本気で心配していると認めるのは初めてだった。
「今日は病院に泊まるけど、明日には帰るよ」
「承知しました」
「だから、そんな顔しないの」
「僕は通常どおりです」
「通常の人は、おにぎりを包装ごと握り潰さないから」
祈が手元を見る。
開封前のおにぎりは、海苔も米も具材も一つの塊になっていた。
「製造上の問題でしょうか。最近のおにぎり、特にセ◯ンは空気の量が多く含まれていますからね」
「祈くんの問題です。ふふっ……」
そう七緒が笑った直後病室の扉が叩かれた。
入ってきたのは火村ではなかった。
祈の父親と母親、その後ろには児童相談所の職員二人と一ノ瀬学園の顧問弁護士が立っている。
「祈」
母親が安堵した顔で名前を呼んだ。
「無事だったのね。事故があったと聞いて心配したのよ」
「倫理観と共に視力もご自宅に置いてきたようですね、どう見ても事故に遭ったのは七緒さんです。入院すべきはあなた達の方でした」
「あなたも巻き込まれるところだったでしょう」
「僕は学校におりました」
父親が職員へ視線を送り、一人が書類を開いた。
「天羽祈さん。現在の生活環境について緊急に安全確認を行う必要があります」
「午前中にもお話ししたはずです」
七緒が身体を起こそうとする。
「和泉さん、寝ていてください」
「祈くんのことです……寝ていられません」
「《ミモザ》と和泉さんの携帯電話へ脅迫があり、本日、故意の可能性がある交通事故まで発生しました。祈さんを狙う人物が同居する方へ危害を加えている可能性を否定できません」
「だから祈くんを、あの人たちへ渡すんですか」
七緒は両親を見た。
「何ヶ月も捜さず、警察署で引き取りを拒否した人たちに?」
「その件も含めて確認します。ただ、安全性の判断が終わるまで同じ住居へ戻すことは適切ではないという意見が出ています」
「私が事故に遭ったのは祈くんのせいではありません!」
「分かっています。しかし、和泉さん一人で今後の危険から未成年者を守れる状態ではありません」
左手首へ巻かれた包帯と額の傷が七緒の言葉を否定する証拠として利用されている。
母親が祈へ近づいた。
「去年の夏は、玄関の鍵で十分だったようですが━━」
「祈……今は皮肉を言ってる場合じゃないの」
「ご両親の家にいれば安全だったという仮説は、僕を殺した方々が同じ学校へ通っている時点で破綻してますね」
父親の顔が強張る。
「おい……一体何を言っている」
「こちらの話です」
祈は児童相談所の書類を見た。
「僕を一時保護するおつもりでしょうか」
「今夜は児童相談所が用意した施設で過ごしてもらい明日、ご両親と和泉さんの双方から改めて話を聞きます」
「拒否した場合は?」
「君自身と周囲の安全に関わるため、理解してほしい」
病室の外には制服警察官も二人待っている。
一ノ瀬親子は祈の力へ正面から挑まず、祈が壊せば七緒まで不利になる人間の制度を扉の前へ置いた。
祈ならこの場にいる全員を消すこともできるが七緒は誰かを殺さないでと言った。
そして七緒が五か月かけて開いた家の扉を祈自身が人間ではない力で壊せば、それは両親の主張を証明することになる。
「祈くん」
七緒がベッドから降りようとする。
「私も行く。施設の人と話すから」
「怪我人はお休みください」
「でも━━」
「七緒さん」
祈は彼女の肩へ毛布を掛け直した。
「明日の夕食には絶対に戻ります」
「約束できる?」
「努力目標として善処します」
「そういうときくらい、ちゃんと約束して」
祈は少しだけ考えた。
「では、約束します」
七緒は不安そうな顔のまま頷いた。
祈が児童相談所の職員へ従って病室を出ようとすると、母親が隣へ並び、久しぶりに家族として歩けることを喜ぶような笑みを浮かべる。
「今度は、きっと家族でやり直せるわ」
「行き先は児童相談所です。お宅ではありません」
「でも明日には帰れるようお話しするから」
「不要です」
祈は振り返り、病室の七緒を見た。
「僕は明日帰宅しますので、あの方の家に━━」
自動扉が閉まって七緒の姿が見えなくなる。
その瞬間、病院の屋上へ集まっていた数百羽の烏が一斉に空へ舞い上がった。
夜の街では犬が吠えるのをやめて猫たちが同じ方角へ頭を下げ、海底に沈む鉄製の重りから黒い泡が浮かび始める。
七緒との約束があるため祈は誰も殺さなかったが、神が従順になったわけではない。
人間の制度によって家から引き離された祈のスマートフォンには、一般利用者へ見えない新しい画面が開いていた。
━━放棄された保護者権限の再使用を検出しました。
━━未返却因果の差出人を照合しています。
現在登録されている親権者の欄には祈の父親と母親の名前がある。
その下に、十三円の商品の時に表示されるはずの項目が並んでいた。
出品者━━該当なし。
商品━━該当なし。
購入者━━該当なし。
判決対象━━該当なし。
代わりに〈返品照合〉と記された欄だけが、黒く点滅している。
Elが新しい"罰"を与えるには"祈り"が必要だった。
被害者の記憶が染みついた品を十三円で出品し、その向こうにある罪を確認してElが購入する。
だからどれほど祈が憎んでもどれほど罪が明らかでも、その手続きを経ずに人間の命を判決へ載せることは現在の祈にはできない。
しかし、既に他人へ与えたものを差出人へ戻す行為は新しい罰ではない。
一度は息子ではないと捨てて祈が死ぬ一因を作った両親が祈の評判と利用価値を知った途端、親権を使って再び自分たちの所有物へ戻そうとした。
その瞬間、五か月前に差出人不明のまま残されていた"因果律"が二人の名前を送り主として認識した。
画面の下部へ返送条件が一つずつ表示される。
━━返送可能範囲は差出人が対象者へ直接与えた損失を上限とします。
━━新規の苦痛、死亡及び恒久的な"身体損傷"は許可されません。
━━対象者の感情による内容の追加変更及び延長はできません。
━━返品は判決ではなく、本執行には算入されません。
そこには祈の同意を求める購入ボタンも、両親の名前を消す削除ボタンもなかった。
祈が復讐を選んだから始まるのではない。
両親が自分たちで捨てた関係を利益のために拾い直そうとしたことで返送先を確定させた。
最後に表示されたのは確認を求める文章ではなく、既に決定された配送予定だった。
━━返品条件の最終確認は、明日午後八時に行われます。
祈は何も押さず画面を閉じた。
「では、あの方々に相応しい舞台で返品手続きを進めてあげましょう」
夜の空では行き先を知っているように烏たちが一斉に向きを変えた━━。




