第三十八話 弱点
前後編無し 第二十話 弱点
真壁誠司の首から上が配信映像の中で消失してから六時間が経った。
朝の情報番組は第四取調室に残された胴体ではなく、十一年間止められていた四十七分間の録音を繰り返し取り上げていた。
処刑場面には画面の半分を覆うほど強いぼかしがかけられていたが、銃弾を空中で止めた黒煙と次の瞬間には頭部を失っていた真壁の姿まで完全に隠すことはできず出演者たちは誰もが顔面真っ青にして映像を見つめている。
『県警は小宮山澪さんの死亡について捜査上の重大な問題があった可能性を認め、特別調査班を設置すると発表しました。そして警視総監より、この事件に関わった者は全て処分する発表を兼ねた謝罪会見が開かれました』
『また、真壁氏が過去に担当した百三十七件の取調べについても録音録画の欠落や自白内容の不自然な一致がなかったか確認する方針です』
『一方でElは真壁氏の犯罪を明らかにし、警察組織自体の信用を失墜させたあとも彼への処刑を続行しています。これは証拠の公開とは明確に異なる、私的制裁による殺人です』
画面の右上には、いつもの見出しが表示されていた。
〈現役警視を公開処刑 Elは司法の敵か〉
いつもの食卓で祈は焼き鮭の骨を綺麗に外しながらテレビを見ていた。
白米は既に七杯目へ入り卵焼き、鶏肉と里芋の煮物、納豆、豚汁が順番に胃へと消えているが向かいに座る七緒の箸は一度も動いていない。
「七緒さん」
「何?」
「本日の味噌汁は新婚生活のようですね」
「え゛っ、……そ、そうかな?」
「砂糖が入っております」
七緒は味噌汁を一口飲み、ようやく自分が砂糖と塩の容器を取り違えたことへ気づいた。毎日厨房に立つ七緒が間違えるはずのない場所で、祈は椀と彼女の顔を見比べる。
「ごめん……作り直すね」
「このままで構いません」
「でも、おいしくないでしょう」
「英国料理の予行演習だと思えば耐えられます」
「それはイギリスに謝りなさい」
「すみませんでした」
七緒は笑おうとしたが口元が僅かに動いただけだった。眠れなかったのか目の下には薄い影があり、スマートフォンを伏せたままテーブルの端へ置いて祈の視線が向くたび無意識に手で隠している。
「何かございましたか」
「何もないよ。真壁って人の映像を見ちゃって……ちょっと気分が悪いだけ」
「処刑をご覧になったのですか」
「途中で消した。あんなもの、誰かが見るために流していい映像じゃないでしょう」
「同感です。朝食の宣伝には向いておりません」
祈はそれ以上尋ねなかった。
七緒が嘘をついていることもその理由が自分に関係していることも分かっていたが、本人が隠そうとする言葉を力で引き出せば昨夜の真壁と変わらない。
七緒が味噌汁を作り直すため立ち上がった直後、テーブルへ伏せられたスマートフォンが短く震えた。
午前零時過ぎに届き、七緒が祈へ見せないよう画面を伏せていたのは暗い海底に二つの鉄製の重りが並ぶ画像だった。
今度は、その画像に続く文章が非通知の番号から届く。
〈警察へ話せば、次は画像では済まない〉
その脅しを見た瞬間、
祈の箸が指の間で音もなく砕けた。
そしてそれは木片というより細かな粉となって白米の上に落ちる━━。
「い、祈くん!? 今の……」
「新しいふりかけを試してました」
振り返った七緒が画面と祈を見て、顔から血の気を失った。
「……見たの?」
「通知の方から僕の視界へ入りました」
「……ただの迷惑メールよ」
「それにしては個人的な迷惑をご存じの業者ですね」
「警察にはあとで私から話すから」
「先ほど、何もないと仰いました」
「それは、祈くんに言ったらまた一人で危ないことをしそうだからでしょう!?」
七緒の声が強くなる。
祈は反論せずに砕けた箸と白米を見下ろしたあと、粉のかかっていない部分を別の箸で食べ始めた。
「何か言ってよ……」
「七緒さんのご判断は合理的です」
「そういう答えが一番怖いの」
「では、不合理です」
「言い換えればいいわけじゃない」
七緒は祈の向かいに戻ってスマートフォンを手に取った。削除しようとしていた画像も保存し直し、画像と文章が届いたそれぞれの時刻が分かる状態で画面を撮影する。
「火村さんへ連絡する。祈くんは学校へ行く」
「本日は欠席します」
「駄目」
「では、早退します」
「最初から帰ってくる予定を立てないで」
「今の七緒さんを一人にする方が不安です」
「私は大人だから、自分の身は自分で守れる」
「年齢が防弾性能へ影響するという論文は現時点で存在しません」
祈は普段と変わらない口調だったが七緒には分かった。
両親が店へ押しかけても海底から自分の血が見つかっても真壁から拳銃を向けられても全く揺れなかった少年が、今は新しい箸を僅かに強く握っている。
「祈くん」
「はい」
「私のために誰かを傷つけないで、お願い」
祈の手が止まった。
「……僕はElではありません」
「そういう話をしてるんじゃないの。祈くんは自分を大切にしないから危ないところへ行かないでって言ってるの」
「善処します」
「それ、する人の返事でしょう」
「日本語は難しいですね」
祈は八杯目の白米へ視線を戻したが、甘い味噌汁をもう一度口へ運ぶことはなかった。
* * *
戸田雅人が意識を取り戻したのは午前八時二十分だった。
頭蓋骨の骨折と脳挫傷、右手の指三本を含む全身十一か所の骨折があり医師から会話を止められていたものの、戸田は病室へ入った火村の姿を見ると酸素マスクをずらそうとした。
「そのままで結構です。今は何も話さなくていい」
「録音……は……」
「回収しました」
火村が透明な証拠袋に入ったICレコーダーを見せると戸田は目を閉じて長い息を吐いた。
十一年間持ち続け、何度も捨てようとした小さな機械が真壁の死後も人間の捜査へ残っている。
「小宮山さんの……お母様に……」
「必ず伝えます。ただし、あんた自身の口でも話してください」
「私は……報告書を……」
「書き直したことも、黙っていたことも調べる」
戸田の瞳が揺れる。
「でも、真壁から何をされたかも同じように調べます。あんたを無罪にするとも、全部あんたの責任にするとも今は約束できない」
「……はい」
「今度は、記録へ残る場所で話を聞きます」
戸田は酸素マスクの内側で僅かに頷いた。
病室を出ると廊下で待っていた森川が一枚の通話記録を差し出す。
坂口航平の再聴取を真壁へ担当させると決まる一時間前、刑事部長の個人番号へ学校法人の顧問弁護士から十三分間の通話があり、その弁護士事務所は一ノ瀬学園から毎年多額の顧問料を受け取っていた。
「これは偶然でしょうか」
「まぁ、偶然で済ませたい奴は多いだろうな」
「刑事部長へ聞きますか」
「証拠を固めてからだ。先に聞けば電話をしただけだと答えて終わる」
火村のスマートフォンが震え、画面へ和泉七緒の名前が表示された。
通話に出て内容を聞くうち、火村の表情から僅かに残っていた疲労が消えていく。
「画像を削除するな。今から店へ行く」
『祈くんには学校へ行かせました』
「一人か?」
『はい、でも大丈夫です。店にはスタッフも来ますから』
「だが外へ出るな。誰が来ても裏口を開けるなよ」
通話を切り、火村は森川へ車の鍵を投げた。
「《ミモザ》へ行くぞ」
「病院を出たばかりなのに今度はどうしたんですか?」
「海底の写真が店長に届いた」
森川の顔色が変わった。
「重りの画像は報道されてますよね」
「一個目だけだ。二つ並んだ状態の画像は捜査資料にもない」
「では、誰が撮ったんですか」
「二個とも沈めた夜、その場所にいた人間だろう━━」
* * *
祈が学校へ着いたとき、校門の周囲には複数の報道車両が停まっていた。
真壁の処刑直前に天羽祈の名前を口にしようとしたという憶測がネットで広がり、去年夏頃の盗撮事件や学校支給端末の通信記録まで再び掘り起こされている。
教師たちはカメラを向ける記者へ敷地から離れるよう求め、生徒には制服のまま取材へ応じないよう注意していた。
「天羽さん!」
校門へ祈が現れた瞬間、道路の向こうから記者の声が飛んだ。
「真壁警視と以前から面識があったんですか!」
「Elの正体を知っているというのは本当ですか!」
「昨夜はどこにいましたか!」
祈は一度だけ報道陣へ顔を向けた。
カメラを構えていた者たちが自分たちの方を見てもらえた興奮と、レンズ越しに目を合わせた説明できない恐怖と羨望によって同時に動きを止める。
「昨夜は、自宅でプリンの刑期満了を待っておりました」
「え、プリン……?」
「一週間のおやつ禁止でしたので」
「それは事件と関係が━━」
「事件より重要です。こちらは無実であることが既に証明されておりますから」
祈は校門を通り生活指導の教師が閉めた門の内側へ入った。
記者たちは意味を理解できず、それでも《謎の高校生、事件当夜はプリンを待っていたと証言》というへんてこな見出しだけが数分後にはネットへ流れ始めた。
昇降口では美玲と葵が生徒会室から運び出した紙の記録を抱えていた。
二人とも祈へ気づいたが葵は以前のように近づかず、美玲も手を挙げて呼び止めることはしない。
「九条先輩」
葵が小声で呼ぶ。
「あの通信記録、やっぱり作られたものみたいです」
「結城さんのお父様から連絡が?」
「父の知り合いに国のサイバー犯罪対策へ関わっている人がいるそうです。警察が押収する前のバックアップと照合したら、祈の端末から通信した記録だけ形式が違っていたって」
葵の父親が独自に調べさせた結果、四件の処刑十三分前に行われたとされた暗号通信はほかの履歴と元のデータが異なり、正式な管理サーバーを通していなかった。
つまり誰かが報告書を作る段階で存在しない通信を一つだけ加えた可能性が高い。
「それ、天羽くんへ伝える?」
美玲が尋ねた。
葵は廊下の向こうを歩く祈を見た。
大きな鞄を肩へかけ、足元へ集まった一年生の女子から焼き菓子を差し出されているがおやつ禁止が昨夜終わったことを説明し今度は迷わず受け取っている。
「まだ、伝えません」
「いいの?」
「通信記録が嘘だったとしてもほかのことまで分かったわけじゃないから。また途中で安心できる答えを選んで祈に許してもらおうとしたくないんです」
美玲は少し驚いたあと、静かに頷いた。
「では、誰が追加を指示したのか調べましょう。業者が来た時間と理事長室から出た連絡記録を照合できるか確認するわ」
「はい」
「俺も手伝います」
二人が振り返ると一ノ瀬が階段の下に立っていた。
昨夜ほとんど眠っていないような顔をしているが以前廊下で怒鳴ったときの苛立ちは隠し、距離を置いたまま葵へ頭を下げる。
「学校が作った資料で葵がまた祈を疑いかけたんだろ。生徒会役員としても、俺個人としても責任がある」
「先輩が作ったわけではありません」
「それでも父さんが理事長だから、確認できることはある」
葵はすぐに返事をしなかった。
一ノ瀬が自分の行動を止めず、祈を犯罪者と呼ばずに自分から調査へ協力すると言ったことに少しだけ安堵している。
「どうして通信記録が作られたと思いますか」
「管理業者が、学校へ新しいセキュリティ契約を結ばせるためじゃないかな。危険な通信が見つかったことにすれば、追加の調査費用を業者に請求できる」
もっともらしい理由だった。
実際業者は学校へ高額なセキュリティ更新を提案しており、契約書の写しも一ノ瀬が事前に用意している。
「ただ、決めつけるのはやめよう」
一ノ瀬は葵の目を見た。
「俺たちは一度、それで間違えたから」
葵の表情が僅かに和らぐ。
一ノ瀬は謝罪も抱擁も求めなかった。
今の葵へ必要なのは自分が変わったと信じさせる言葉ではなく、彼女自身がそう判断できる時間だと父親から教えられている。
その会話を、祈は廊下の端から聞いていた。
聞こうとしたわけではない、校内の音は望まなくても耳へ入る。
一ノ瀬が用意した業者の契約書も話している間だけ通常より五回多く瞬きをしたこともすべて分かっている。
それでも祈は何も言わずに一年生から受け取った焼き菓子の袋を開けた。
「天羽くん」
美玲が近づいてくる。
「今の話、聞こえていた?」
「途中から。セキュリティ業者の営業努力についてですね」
「あなたの通信記録が捏造された可能性が高いのよ」
「そうですか」
「もう少し驚かない?」
「以前にも申し上げましたが、本人より先に評判や証拠を作ることは人間の得意分野ですので」
祈は焼き菓子を一口で食べたが普段ならすぐ二つ目へ手を伸ばすはずの指が何故か止まった。
窓の外では校舎の屋上に数十羽の烏が並び、全羽が同じ方角へ頭を向けている。
それは《ミモザ》のある方角だった。
「どうかした?」
「いいえ」
祈は袋を閉じ、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。七緒からの連絡はない。
「食欲がないように見えるけれど」
「失礼な。大変深刻な風評被害です」
「では、どうして袋を閉じたの?」
「授業開始まで四分しかありません。残念ながら、人間の教育制度は食事に十分な時間を与えてくれませんね」
美玲へそう答えた直後、祈は七緒へ〈店を出る場合はご連絡ください〉と送信した。
そのメッセージの既読がつくまでに十七秒かかった。
『分かった。今日は店にいるから心配しないで』
祈は文章を二度読み、スマートフォンをポケットへ戻した。
* * *
午前十時、《ミモザ》の入口には火村と森川に加え、制服警察官二人が立っていた。
七緒のスマートフォンへ届いた画像を確認した火村はその場で端末の複製を取り、非通知の発信元照会を依頼する。
画像そのものには位置情報も撮影時刻も残っておらず、海底にある二つの重りは警察が発見した状態とは配置が異なっていた。
「去年十二月に撮影された可能性が高い」
火村が画面を拡大する。
「二個目へ絡んでいる鉄パイプがまだ錆びていない。天羽を沈めた直後に撮った画像なら説明がつく」
「坂口くんたちが送ったということですか」
「まだ決めるのは早い。写真が共有されて別の人間が持っている可能性もある」
「でも、私を脅して何になるんです」
「天羽と離れろ……という要求が来るかもしれん」
七緒は店内を見回した。
祈が毎日座る賄い用の椅子、追加の米を炊くために買い替えた大きな炊飯器、冷蔵庫へ貼られた学校の時間割。
二か月前には何もなかった場所に少年の生活が少しずつ増えている。
「離れません」
「まだ要求は来てないぞ」
「来ても同じです」
火村は七緒の顔を見たあと制服警察官へ店の表と裏口を確認するよう指示した。今日一日は可能な限り外出せず、買い出しが必要ならスタッフか警察へ頼むよう説明する。
「祈くんには、どこまで話したんですか」
森川が尋ねる。
「全部見られました」
「反応は?」
「箸を一瞬で粉にしました」
「それは……折ったとかではなく?」
「はい、文字通り……」
森川が火村を見る。
「普通の高校生は、木の箸を瞬きの間で粉末にできますか?」
「それはその……アイツも育ち盛りなんだろ」
「便利ですね、成長期」
火村は冗談で流したが七緒の話を記録へ書き加えた。
祈自身が狙われたときには見せなかった反応であり、Elと祈を結ぶ証拠にはならなくても犯人がどこを狙えば少年を動かせると考えたかを示している。
「和泉さん」
「はい」
「これは脅しで終わらない可能性がある。相手は警察が見つける前から重りの位置を知っていた」
「分かっています」
「怖くないのか」
「怖いですよ」
七緒は正直に答えた。
「でも、私が怖がって祈くんを追い出したらあの子はまた自分のせいで家を失ったと思うでしょう。それだけは絶対に嫌です」
血の繋がった両親が世間体を恐れて閉めた扉を、七緒は危険を承知で開け続けようとしてくれている。
「その、なんだ……店長は見かけによらず頑固だな」
「火村さんに言われたくありません」
「そりゃ違いない」
火村が僅かに笑った直後、店の電話が鳴った。
七緒が出ると相手は市の保健所だった。
《ミモザ》で食事をした家族三人が腹痛を訴え、医療機関から食中毒の疑いがあると連絡を受けたため本日中に立入検査を行うという。
通話を終える前に今度は七緒のスマートフォンへ消防署から連絡が入った。
匿名の通報により厨房の避難経路が塞がれ、消火設備の点検記録にも不備がある疑いが出たという。
さらに数分後、児童相談所からも電話がかかってきた。
『親権者の同意なく、未成年者を住居と店舗で就労させているとの相談がありまして……』
三件すべての説明を聞き終えた七緒は受話器を置いて火村を見た。
「偶然だと思います?」
「俺は偶然を信じない高校生を一人知ってる」
火村は店の外へいる警察官へ、立入検査へ来る全員の身分を確認するよう告げた。
「始まっちまったよ━━」
* * *
同じ時刻、一ノ瀬理事長の机には三通の送信完了通知が並んでいた。
保健所への通報に使ったのは実在する家族の診療記録だった。
ただし彼らが前日に食べたのは《ミモザ》ではなく別の飲食店であり、クレジットカードの利用明細だけを加工して店名を差し替えている。
消防署へ送った写真は改装前の《ミモザ》で撮影されたもの。
児童相談所には祈の両親から息子が和泉七緒に心理的に支配され帰宅を拒んでいるという相談書を提出させた。
「これだけで店を閉められるのですか」
理事長室のソファへ座る一ノ瀬真が尋ねる。
「一つでは無理だ。しかし複数の行政機関が同時に動けば、調査が終わるまで営業自粛を求められる可能性はある」
「祈は七緒の家から学校へ通っています。店が閉まるだけでは離れない」
「だから次がある」
理事長は机の上へ市内の交差点を撮影した写真を置いた。
横断歩道と午後に大型車両が増える搬入口、監視カメラの死角が赤い線で示されている。
「まさか事故に見せるんですか」
「絶対に死なせるな。骨折と入院で十分だ」
「入院中に店の営業許可と賃貸契約を止め、児童相談所へ祈を引き渡す」
真は父親の意図を迷わず理解した。
「祈の両親が引き取る意思を示せば七緒より優先される。アイツが拒否しても未成年者の保護という形で家へ戻せますね」
「そのあと結城家へ働きかける。葵さんが祈を怖がっているという証言が取れれば、接触制限も申請できる」
「今は葵を使わない方がいい」
父親が息子を見る。
「理由は」
「通信記録が偽物だと知ったばかりです。ここで祈を危険だと言わせれば誰かに誘導されていると勘づく」
「では、どうする」
「僕が一緒に記録を調べます。父さんへ近づく証拠だけを先に見つけ、僕の判断で隠す」
真は生徒会室の保管記録を思い浮かべた。
業者との連絡をすべて消せば改竄が発覚するため無関係な不正請求を示す資料だけを残し、通信記録の捏造も利益目的だったと葵自身に結論づけさせる。
「葵が僕を信じ直したあとで和泉七緒の家に祈がいるせいで危険へ巻き込まれたと伝えます。僕が言うのではなく、葵の父親から話してもらう」
「結城家の人脈をこちらへ向けるわけか」
「はい。葵は自分が祈を追い出したと思えば反発しますが、父親が家族を守るために判断した形なら迷います」
理事長の口元へ満足そうな笑みが浮かぶ。
「ようやく感情以外で人間を動かす方法を覚えたな」
「祈を海へ沈めたときも、必要だったからしただけです」
「必要だったかどうかを決めるのは勝った人間だけだ」
真は窓の外へ目を向けた。
校舎の上には不自然なほど多くの烏が集まっている。
「事故は、いつですか」
「明日では遅い。行政が店へ入って混乱している今日がいい」
理事長が暗号化された端末から久我へ短い指示を送った。
〈対象が店を出た時点で開始〉
数秒後、返信が届く。
〈監視を継続中〉
* * *
午後二時十二分、保健所の検査員は《ミモザ》の厨房から食中毒へ繋がる問題を見つけられなかった。
食材の保存温度、調理器具の消毒、従業員の健康記録にも不備はなく申告者が食べたとする料理は当日の販売記録に存在していない。
消防署も避難経路と消火設備が基準を満たしていることを確認したが、虚偽通報かどうかは別の調査が必要となった。
児童相談所の職員だけは祈の両親が提出した相談書を理由に、本人と七緒から改めて生活状況を聞き取る必要があると告げた。
「祈くんは学校です。今日は帰りが午後四時頃になります」
「では、改めて伺います」
職員を見送った七緒は朝から一度も店を開けられていない客席を見回した。
入口には臨時休業の札が下がり、予約客へ謝罪の電話を入れて仕込み済みの料理も一部は廃棄しなければならない。
「店長、玉ねぎが足りません」
厨房からスタッフが声をかける。
「明日の仕込み分もない?」
「業者が今日の配送を止めてます。営業状態を確認するまで納品できないって……」
食中毒の噂が既に仕入れ業者へ伝わっていた。
七緒は火村から外出を控えるよう言われたことを思い出したが、明日店を開けるには不足した食材を自分で買いに行く必要がある。
警護の警察官二人は近隣で刃物を持った男が目撃されたという無線を受けて十分前に一人が現場へ向かい、残った一人も表で本署からの電話に対応していた。
「私がスーパーに行ってくる。三十分くらいで戻るから」
「でも、警察の人に外へ出ないよう言われたんじゃ」
「店を開けない方が向こうの思いどおりでしょう」
七緒は帽子とコートを身につけて買い物用の車へ乗り、発進する前に祈へ連絡しようとスマートフォンを開く。
『店を出る場合はご連絡ください』
朝に届いた文章が画面に残っている。
七緒は〈足りない食材を買ってきます。三十分で戻ります〉と入力したが、送信ボタンへ指を置いたまま止まった。
もし知らせれば祈は授業を抜けて自分の所に来るかもしれない。
文章を消して代わりに別の内容を送った。
『今日は少し遅くなるから、学校で待ってて』
送信する。
既読はつかなかった。
七緒の車が《ミモザ》の駐車場を出ると、道路の向かいに停まっていた黒い車も三台間隔をあけて動き始めた━━。
* * *
七緒が尾行へ気づいたのは二つ目の交差点だった。
右へ曲がれば後ろの黒い車も曲がる。
速度を落とせば同じだけ間隔を広げ、コンビニの駐車場へ一度入って別の出口から出ても数十秒後にはバックミラーへ同じ車が戻った。
七緒は業務用スーパーへ向かわず、人通りの多い駅前へ進路を変えながら火村へ電話をかけた。
『どうした』
「黒い車につけられています」
『場所は』
「中央通りを駅へ向かっています。ナンバーは……車が邪魔で見えません」
『止まらずになるたけ人の多い場所へ向かえ。こちらから位置を確認する』
「分かりました」
通話を切らずにスマートフォンを助手席へ置く。
次の信号が青へ変わって七緒が交差点へ入る━━。
その瞬間、右手の搬入口から大型配送車が制限速度を大きく超えて飛び出してきた。
運転席の男は前を見ている。
七緒の車がそこにいると理解した上でアクセルを踏み込んでいた。
「くっ……!」
『和泉さん!』
助手席のスマートフォンから火村の声が響く。
七緒は咄嗟にハンドルを左へ切ったが歩道側には信号待ちの児童がいる。
巻き込まないため再び右へ戻し、配送車の正面へ自分の車を向けた。
黒い車の後部座席で久我が望遠カメラを構えている。
「接触まで三秒」
運転手へ繋がった通話へ告げた━━。
* * *
同じ時刻。
五時間目の現代社会で祈は、机の下に隠した栄養補助食品の袋を開けようとしていた。
佐伯が黒板に〈法の下の平等〉と書き、昨夜の真壁事件を例に警察官であっても罪を犯せば同じ手続きによって裁かれなければならないと説明している。
「天羽。授業中に食べるな」
「開封前です」
「食べようとしていただろう」
「未来の行為まで処罰なさるとは、先生も神へ近づきましたね」
「没収するぞ」
「法の下の平等は、カ◯リーメイトにも適用されるべきかと」
教室に笑いが起きた直後、窓の外から激しい羽音が聞こえた。
校舎の屋上に集まっていた烏が一斉に飛び立ち、数十羽が教室の窓へ向かってくる。
そのうち一羽がガラスへ衝突する寸前で止まり、羽ばたきながら嘴を《ミモザ》の方角へ向けた。
祈の笑みが消え、視界が一羽の烏と繋がった。
上空から見下ろす交差点。
七緒の小さな車。
横から迫る大型配送車。
そして黒い車の窓から望遠カメラを向ける久我━━。
祈の手の中で未開封の栄養補助食品が包装ごと消滅した。
「天羽?」
佐伯が呼ぶ。
祈は静かに席を立ち、鞄を持った。
「早退します」
「急にどうした。体調が悪いのか?」
「家族が事故に遭います」
教室が静まり返り、葵が目を見開いて顔を上げた。
「事故に遭った、ではなく?」
佐伯が聞き返す。
「はい」
祈の瞳の奥で、海よりも暗い何かが開く。
「これからです」
大型配送車と七緒の車との距離は、残り一メートル。
久我がそれを写すためのシャッターを切った瞬間、カメラのファインダーいっぱいに学校の教室にいるはずの祈の片目が映った━━。




