第三十七話 神の録画は止まらない 後編
火村が旧県警研修所へ到着したのは午前零時十一分で、開いた玄関から入ると三階へ続く廊下に点々と残った真壁の泥に汚れた靴跡を追って第四取調室の前まで走った。
中は見えているのに扉は存在せず透明な壁の向こうでは真壁が床へ倒れ、その背後に顔のない警察官が立っていた。
「El!」
火村は透明な壁を拳で叩いた。
「もう十分だろ! 真壁を殺すな!」
黒煙がゆっくり火村へ顔を向ける。
『真壁誠司を随分と嫌っていたのでは?』
「大嫌いだ!」
火村は迷わず答えた。
「十一年前から今夜までずっとな!」
『では、なぜ助けるのでしょう』
「嫌いな人間を助けなくなったら、俺もあいつと同じになる!」
火村は拳から血が出ても壁を叩き続けた。
「誰が人間で誰に価値があるかを俺が勝手に決めることになる!」
Elは数秒、火村を見つめた。
『いえ、あなたは真壁誠司とは違います』
「だったら止めろ!」
『違うからこそあなたには任せられません』
「何……?」
『あなたは"本当の罪人"まで助けてしまいますので』
「でもそれが俺の仕事だ!」
『ええ』
Elはどこか感心したように頷いた。
『正義とは、八方美人なのですね』
真壁が床を這い、透明な壁へ手を伸ばす。
「火村ぁ……助けろ……ぉ……」
「真壁! 動くなよ! 今そこを開ける!」
「私は……警察官だ……」
『まだ肩書をお忘れではありませんでしたか』
真壁の影が、背後から髪をつかんだ。
「やめろ!」
火村の怒声と同時に真壁の頭部が透明な壁へ叩きつけられた。
一度目で鼻骨が砕けて血が壁へ散り、二度目で前歯が折れて床へ転がり、三度目には側頭部から鈍い亀裂音が響いた。
身体が床へ落ちても影は止まらず、澪へ残っていた皮下出血と同じ腹部、背中、脇腹を警棒と革靴で順番に打ち、肋骨と腎臓を潰して左頬へ三本の黒い傷を刻んだ。
「制止を……し、しただけだ……」
真壁の口から、十一年前と同じ説明が漏れる。
『では、こちらも適正な制止行為ということにしておきましょう』
「こ、んなものが……適正なわけ……」
『おや、ご自身で結論を出せるではありませんか』
影が、真壁の髪をもう一度つかむ。
『事件には、終わりが必要なのでしょう━━?』
真壁の瞳が恐怖に見開かれた。
「待て……」
『承知しました』
「ま、待ってくれ……! 頼む……!」
『あなたの事件……いえ、あなたの人生をここで終わらせます』
「いやだ……しにたぐな……き゛ゃ゛っ━━!」
影は真壁の髪をつかみ、澪が受けたものと同じ角度、同じ強さで側頭部を壁へ叩きつけた。
頭蓋骨の内側で血管が切れて急速に広がった血腫が脳を圧迫する。
真壁の瞳から光が消え、身体から力が抜けた。
〈死亡を確認しました〉
〈死因━━急性硬膜下血腫〉
〈小宮山澪死亡時の所見と一致〉
それでも影の警察官は真壁の髪を離さなかった。
「何を……」
火村が透明な壁の外で息を呑む。
『真壁誠司は、人間の顔を見ずに犯人の顔を作り続けました』
影の腕が音速を超える。
『ですから最後は、顔のない被疑者として記録いたします』
ク゛シ ャ゛ッ━━!
ミサイルが爆発したような衝撃とともに真壁の頭部が時速千三百キロで壁へ叩きつけられた。
その衝撃波は透明な取調室の内側へ完全に封じ込められ、壁へ触れた頭部だけが赤黒い霧となって破裂する。
首から上が消失し、残された胴体が床へ崩れ落ちた。
『ご安心ください。身元確認には指紋とDNAがあります』
Elは火村へ顔を向けた。
『たまには科学捜査を信頼しましょう』
透明な壁に、白い文字が表示された。
〈執行対象 真壁誠司〉
〈死因━━急性硬膜下血腫〉
〈全身に複数の皮下出血および骨折〉
〈小宮山澪死亡時の所見と一致〉
「El……!」
火村の声が震えた。
「お前は、これで何を正したつもりだ!」
『何も』
黒煙は即答した。
『死者は戻りません。山科浩平さんの九年間も、戸田雅人さんの十一年間も━━』
「なら、どうして殺す!」
『人間の法へ戻るための扉を、今夜もご本人が閉めたからです。己の保身のために━━』
真壁が戸田へ振り下ろそうとした懐中電灯、切断した鎖、止めた通報装置、拳銃を向けて逃走した映像のすべてが壁へ表示される。
『あなたは間に合いました。戸田雅人さんは生きています』
火村の拳が止まる。
『今夜一人を救ったのは、神ではありません』
黒煙の身体が、少しずつ崩れ始めた。
『それは少し誇ってもよろしいかと』
「待て」
透明な壁が消えると火村は取調室へ駆け込んだが、真壁のグロテスクな死体を残したまま黒煙は既に消えていた。
机には真壁の自白調書と十一年前の報告書だけが置かれている。
壁の四十七台のカメラは今も赤いランプを点灯させている。
「El!」
火村は誰もいない取調室へ叫んだ。
「次は、お前を法廷へ立たせる!」
天井のスピーカーから、微かな声が返った。
『その台詞は真壁誠司も仰っていました』
一拍置く。
『あなたの方が、僅かに期待できそうですね』
通信が切れても第四取調室の録画ランプは真壁誠司が死亡したあとまで消えなかった。今度こそ、誰にも記録を止めさせないために━━。
* * *
午前零時十三分、小宮山葉子のスマートフォンへ〈取引が完了しました〉という一行の通知が届いた葉子は、処刑映像を最後まで見ていなかった。
娘の悲鳴が録音から流れた時点で画面を伏せ、切れたネックレスを胸へ抱いていた。
「澪……」
真壁が死んでも娘は帰らないが、十一年間も娘が暴れたから死んだと書かれていた記録だけは今夜初めて書き換えられる。
葉子は泣きながら誰もいない部屋へ告げた。
「あなたはただ……帰ろうとしてたのね」
同じ通知を見ていた山科浩平の机には、無実ノートの一ページ目が開かれていた。
『私は殺していない』
刑務所で九年間も毎日書き続けた言葉を見つめた山科は新しいページを開いてしばらく鉛筆を持ったまま動かなかったが、やがて一行だけ記した。
『私は、犯人ではなかった』
* * *
午前零時二十六分、一ノ瀬学園の理事長室にはまだ明かりがついており一ノ瀬理事長は真壁の処刑映像を途中で閉じた。
机の上にある報告書によれば警察は情報管理会社へ踏み込み、通信記録の捏造へ関与した若い作業員も既に証言を始めている。
坂口航平の供述を崩すために送り込んだ真壁は死に、海底から二つ目の重りと鉄パイプまで見つかった以上鑑定結果が出るのも時間の問題だった。
正面から天羽祈を犯罪者へ戻す計画が失敗しつつあることを認め、理事長は暗号化された通話アプリを開くと二度の呼び出し音のあとで相手が応じた。
『久我です』
「真壁が死んだ」
『配信で見ました』
「警察の中から止める方法はもう使えない」
『以前にも申し上げました。天羽祈本人へ近づくべきではありませんと』
望遠カメラのレンズ越しに祈と目が合った日から一度も少年を直接撮影していない久我の声には、今も恐怖が残っていた。
「本人へ触れる必要はない」
理事長は答えた。
「あの少年が戻る場所をなくせばいい」
『……両親の家へ戻すおつもりですか』
「そのためには、《ミモザ》が邪魔だ」
数秒の沈黙。
『店を潰すだけですか』
「いや、和泉七緒が祈を手放さない」
理事長が机の引き出しから取り出した一枚の写真には、《ミモザ》の閉店後、祈が買い物へ出ているわずかな時間に裏口で一人ごみ袋を運ぶ七緒が写っていた。
「死なせる必要はない。しばらく店へ戻れない状態になれば十分だ」
『……承知しました』
通話が切れると黒い車の後部座席にいる久我は望遠カメラの記録を開き、和泉七緒の出勤時刻、買い出しへ出る曜日、閉店後に一人となる時間を確認した。
画像を保存するフォルダには新しい名前がつけられていた。
〈天羽祈・周辺人物〉
その一番上にある七緒の写真へ赤い枠が表示された同じ頃、和泉家では一週間のおやつ禁止が日付の変更とともに終わったため祈が冷蔵庫の前に立っていた。
七緒が取っておいたプリンを取り出す。
「ようやく刑期満了ですね」
誰にも聞こえない声で呟いて蓋へ指をかけた背後で七緒のスマートフォンが一度だけ震え、非通知の番号から暗い海に浮かぶ二つの鉄製の重りの画像が届いた。
本文はなく、七緒はまだ眠っており、祈もその通知へ気づかないまま画面の下では新しい文章が一文字ずつ入力され始めていた。
〈次に沈むのは━━〉
そこで入力は止まり、送信者は残りの言葉をまだ送らずにいた。
祈は何も知らないまま七緒が自分のために残したプリンを口へ運ぶ。
真壁誠司の取調べは終わったが、海へ沈められた夜を知る人間たちによる次の取調べは、既に祈の家へ届いていた━━。




