第三十六話 神の録画は止まらない 前編
真壁誠司が金属製の懐中電灯を振り下ろすより先に、警備室の扉が蹴り開けられた。
「動くな!」
午後十時十四分、火村は拳銃を両手で構えて真壁の背中へ照準を合わせ、その横を駆け抜けた森川が床へ倒れた戸田雅人のもとへ膝をついた。
「戸田さん! 聞こえますか!」
戸田は返事をせず、頭部から流れた血が警備室の白い床へ広がっていたが首元へ指を当てた森川はすぐに顔を上げた。
「脈があります! 呼吸も……弱いですがまだあります!」
「早く救急を呼べ!」
火村は真壁から目を離さなかった。
「それを床へ置いてください、真壁さん」
「違う」
真壁の右手には血に濡れた懐中電灯が握られていたが、その声は異様なほど落ち着いていた。
「私が来たときコイツは既に錯乱していた。昔の事件を持ち出して私へ襲いかかったため、制止しただけだ」
「随分と懐かしい説明ですね」
火村の視線が踏み荒らされた警備室をなぞり、切断された通用口の鎖、反応しない非常通報装置、戸田の折れた指、そして床へ転がった小型のICレコーダーを順番に捉えた。
「十一年前も、小宮山澪さんが勝手に暴れたことになっていた」
「事実だ」
「今夜も同じですか」
「戸田本人へ聞けばいい」
「あんたが殺しきれなかったらな、真壁」
敬語が消え、真壁の目が細くなる。
「火村。お前、自分が誰へ銃を向けているのか分かっているのか」
「もちろん。取調べ指導官、真壁誠司警視」
火村は引き金へ指を添えたまま答えた。
「でも今は俺の上司ではありません。殺人未遂の現行犯です」
「証拠は」
「俺と森川が見た」
「ほう、お前は十一年前から私を疑っていた。先入観による誤認だと主張できる」
「本当に便利な言葉だ」
火村の声が低くなる。
「容疑者が言えば言い逃れ。あんたが言えば正当な主張か」
真壁は返事をせず、ゆっくり懐中電灯を床へ置いた。
「さっさと両手を上げろ」
「命令口調は感心しないな」
「動くな、真壁」
「動くさ」
真壁の右手が上着の内側へ入った時、火村が引き金を絞りかけたが真壁から取り出されたのは拳銃だった。
そしてその銃口は火村ではなく床の戸田へ向けられていた。
その銃は県警の管理簿で十一年前に故障による廃棄済みと記録されたもので、真壁は足首内側のホルスターへ隠していた。
「銃を捨てろ真壁」
「お前が先だ」
「真壁……!」
「床へ置け。でなければ、この男が次にどう動くか私にも分からんそ」
気を失っている戸田を最後まで人間として扱わない言葉に火村は奥歯を噛み締めた。
真壁を撃つだけなら難しくないがその指が一度動けば真壁と距離の近い戸田の頭部へ弾丸が入るため、ゆっくり膝を曲げて拳銃を床へ置いた。
「火村さん!」
「森川、戸田さんから離れるな」
真壁は火村の銃を蹴り飛ばし、戸田へ向けた銃口を動かさないまま警備室の出口へ下がっていく。
「賢明だ。お前は昔から、罪人にも価値があると思いすぎる」
「人間の価値を決めるのはあんたの仕事じゃない」
「では、誰の仕事だ」
真壁は薄く笑った。
「裁判官か……それともElか?」
火村の表情が動いた一瞬を見て、真壁は警備室から出ると外側から防火扉を閉めて鎖を通した。
「待て!」
火村が扉へ体当たりしたときには外でエンジン音が遠ざかり、森川は戸田の上着を脱がせて出血箇所へ押し当てていた。
「火村さん追いますか!?」
火村は閉ざされた扉と床の戸田を見比べたが、選択に必要な時間は一秒もなかった。
「戸田さんが先だ。救急へ現在地を送れ」
「でも……真壁警視が逃げます」
「逃げた先で捕まえる」
火村は床へ落ちていたICレコーダーを拾った。
「だが死んだ人間からは二度と話を聞けん」
それは真壁誠司が一度も選ばなかった順番だった。
* * *
真壁は行き先も決めず、車を百キロ近い速度で走らせていた。
まず県境を越えて警察内部の協力者へ連絡するつもりだったが戸田は生きており、火村と森川にも現場を見られている。
それでもまだ終わってはいない。
戸田が先に襲い、火村は私怨から適正な職務を妨害して拳銃は戸田が隠し持っていたものをやむを得ず取り上げた。
そう一つずつ記録へ落とせば真実は最初に文章にした人間の所有物となる。
真壁は何十年もの間その卑劣な方法で事件を終わらせてきた。
カーナビが次の交差点を右折するよう告げたため、真壁は反対の左へ曲がった。
ところが十分後、道路の正面には先ほどと同じ赤い看板のコンビニ、駐車場の白い軽自動車、入口脇で煙草を吸う灰色の作業着の男が再び現れた。
「何だ……?」
真壁は次の交差点で進路を変えて今度は川を渡って国道へ出たが八分後にはまた同じコンビニの前へ戻ってしまい、作業着の男が吐き出す煙の形まで先ほどと変わらないがそこでスマートフォンが震えた。
表示された日時は本日二十三時十三分、場所は旧県警研修所・第四取調室、予定は〈録画を再開する〉と表示された。
現在時刻は、午後十時四十一分。
「ふざけるな……!」
通知を削除しても数秒後には同じ文章が戻り、電源を切った黒い画面にまで〈取調べの出席を確認してください〉という白い文字が浮かんだ。
真壁はスマートフォンを助手席へ投げたが県警本部へ電話をかけようとしても繋がらず、無線から聞こえるのも激しい雑音だけだった。
やがて、その雑音に十一年前の声が混じり始める。
『私、本当に何もしてません━━』
真壁の手が、ハンドルの上で固まる。
『今日はパン屋にいました。店長に聞いてください……!』
「黙れ」
『お母さんに電話だけさせてください!』
「黙れ!」
真壁が無線機を殴っても音声は止まらず、道路の先には錆びた案内板が現れた。
〈旧県警察学校研修所 この先二キロ〉
真壁がブレーキを踏むと車体はスピンして道路の中央で止まり、バックへ入れて振り返った後方にも同じ案内板が立っていた。
前へ進んでも後ろへ戻っても道は旧県警研修所へ続いている。
午前零時までに廃墟を包囲して現れた人間を逮捕すればいい。
Elは神ではなく仕掛けの場所が分かれば罠を用意した者も必ず近くにいる……真壁は自分へそう言い聞かせて震える右足には気づかないふりをした━━。
* * *
真壁が辿り着いた、七年前に閉鎖された旧県警研修所は山中に建つ三階建てのコンクリートが黒ずんで窓の半分も板で塞がれていたが、真壁の車が近づくと正門だけが誰の操作もなく左右へ開いた。
午後十一時七分、玄関の照明が一つずつ奥へ向かって点灯し真壁は拳銃を握って建物へ入った。
「……誰かいるのか!」
返事はなく、廊下の壁には若い真壁が教壇に立って警察官たちへ講義するかつての取調べ研修の写真が残されていた。
〈否認被疑者の心を開く技術〉
〈自白獲得における信頼関係の形成〉
〈被疑者のための取調べ〉
写真の前を通るたび写っている全員の顔が黒く塗り潰されていく。
三階では第四取調室の扉だけが開き、室内には古い机と二脚の椅子、天井の隅には十一年前に撤去されたはずの録画カメラがあり、机へ置かれた二つの陶器のカップの片方から上がった湯気と共に紅茶の香りが漂っていた。
壁の時計が午後十一時十三分を指すと真壁の背後で扉が勢いよく閉まって録画機器の赤いランプが点灯する。
同時に日本中のスマートフォンとテレビに〈Elによる緊急配信が開始されました〉という通知が届いた。
題名は《取調べ指導官・真壁誠司の最終講義》の一行だけで真壁の向かい側へ集まった黒い煙は顔も性別も分からない人の形を取って椅子へ座り、その指先だけが白い陶器のカップを持ち上げた。
『お待ちしておりました、真壁警視』
「El……」
『どうぞお掛けください。長い取調べになる可能性がありますので』
「まさか、あm……」
真壁は確信を込めて、その名を呼ぼうとした。
「天m━━小宮山澪の取調べ録画を止めたのは、私だ」
言葉の後半が勝手に別の文章へ変わり、真壁の表情が止まる。
『ありがとうございます。とっても素直な被疑者ですね』
「違う! 今のは私の言葉じゃない! あモ……は━━山科浩平の自白へ、犯人しか知り得ない情報を私が入れた!」
真壁は両手で口を塞いだが、それでも指の隙間から声が漏れる。
「天━━戸田雅人へ虚偽の報告書を書かせた。妻と娘を失わせると脅した!」
口を閉ざしても喉が一人で震えた。
「あmを━━五か月前、話を聞く前から盗撮犯だと決めていた。否認を反省不足と書き換えた!」
真壁は椅子を蹴り倒して立ち上がった。
「お前ぇぇっ! 私へ何をした!」
『何も』
Elはカップを机へ戻す。
『あなたが大勢に求めたものを、ご自身にもお願いしているだけです』
「ふざけるな!! 私の口を操っている!」
『口を割らせると、昨日仰いましたね。手間が省けて何よりです』
配信の視聴者数は一分を待たず一千万人を超え、画面の横へは小宮山澪の最初の報告書と三日後に書き直された報告書、山科浩平へ捜査情報を教えた記録、坂口航平の取調べ録画が停止した時刻、天羽祈の事情聴取記録が並び真壁が今口にした内容を一つずつ裏づけていく。
真壁は黒煙を睨んだ。
「映像を止めろっ!」
『十一年間止まっていた録画を今夜、ようやく再開したのです』
Elの背後で赤いランプが二つ、三つと増え、やがて壁と天井を埋め尽くすように四十七台のカメラが不気味に出現した。
『ご安心ください。今夜のカメラはあなたほど都合よく失神いたしません』
「ちっ……こうなったら、死ねぇっ!」
真壁は上着の内側から倉庫より持ち出した回転式拳銃を抜き、Elへ銃口を向けて迷わず引き金を引くと、銃声が狭い取調室を揺らした。
一発目の弾丸は黒煙の顔へ届く十センチ前で回転したまま静止し、真壁が続けて撃った二発目から五発目も同じ場所で止められた。
黒煙は椅子から動かず、上げた片手だけで五発すべてを受け止めていた。
「何だ……」
真壁の唇が震える。
「何なんだ、なんなんだよお前は……!」
『警察官の発砲には、もう少し慎重な判断が必要では? 許されるのはこ◯亀くらいで本来なら始末書モノですよ』
「化け物が!」
『五発、すべて確認しました。証拠管理は重要ですので』
Elの指先がゆっくり真壁へ向くと、空中の弾丸が一斉に反転した。
「ま、待て……」
真壁は拳銃を投げ捨てて両腕で頭を庇ったが、それとほぼ同時に放たれた一発目は右耳から一ミリ離れた空間を抜け、二発目は左のこめかみを掠めず背後の壁へ入り、三発目は両脚の間を通って床へ穴を開けた。
四発目は上着の右袖だけを貫いて壁へ縫い留め、五発目は胸元の警察章を弾き飛ばしたものの一発も真壁の身体には当たっていない。
しかし狙えば確実に殺せたのだと理解した真壁は腰を抜かして床へ座り込んだ。
『ご安心ください』
Elは穏やかに告げる。
『すべて外しました。故意に』
床へ落ちた拳銃が見えない力で持ち上がり、銃身を中央からゆっくり折り曲げられ、まるで握り潰された空き缶のように固まった。
『あなたにはその区別が少々難しいようですが』
そこで真壁は初めて目の前にいるのが映像技術や薬物、複数の共犯者を利用した殺人犯ではなく自分が何十年も脅し、殴り、言葉を奪ってきた人間とは根本から異なる"ナニカ"だと理解した。
「た、助けてくれぇ……」
『誰にお願いしているのでしょう』
「私は警察官だ。私が死ねば、社会は……」
『墓地では百パーセントの方が黙秘しております。ちっぽけなあなたがお一人が加わっても治安への影響は皆無かと』
Elが指を鳴らすと取調室の照明が消えて暗闇の中で古いICレコーダーの再生音だけが鳴った。
『私、本当に知らないんです』
小宮山澪の声だった。
『事件の時間は働いていました。店長に聞いてください』
『認めれば、今日中に帰れる』
若い真壁の声が続く。
『否認を続けるなら、母親も共犯として調べる』
『そんな……お母さんは関係ありません』
『なら、正直になれ』
午後七時三十一分、戸田が退室して扉が閉じたあと、真壁の椅子が動く音が続いた。
『二人だけの方が話しやすいだろう……?』
『近づかないでください』
『罪を認めれば、優しくしてやる……ほら……なぁ? さっさと下着に……』
衣服が擦れて椅子が倒れ、澪の悲鳴が録音機器の限界まで音を割った。
『やめて! 帰してください!』
真壁の左頬へ三本の爪が入った音までは録音されていないが、その直後には怒りに満ちた声が響いた。
『くっ……お前ぇっ! 誰に向かって抵抗している!』
鈍い打撃に続いて頭が壁にぶつかって身体が床へ倒れたがそれでも腹部を何度も蹴られる音が残り、澪の声は録音の中で少しずつ弱くなっていく。
真壁は耐えきれずに両耳を塞いだ。
「止めろ……」
だがその音声は、頭蓋骨の内側からも聞こえていた。
「止めてくれ……!」
『当時も、同じ言葉が聞こえていたはずです』
四十七分間の録音は一秒も省略されず小宮山葉子は娘の部屋で切れたネックレスを握り、山科浩平は九年間の無実ノートを膝へ置き、火村は旧県警研修所へ向かう車内で聞いた。
そして真壁自身も、十一年間消したつもりでいた時間を最後まで聞かされた。
午前零時五分に録音が終わって照明が戻ると机の上には一通の自白調書が置かれていた。
小宮山澪へ性的暴行を加えようとし、抵抗された怒りで殺害したこと。
戸田雅人を脅して報告書を書き直させたこと、山科浩平へ虚偽の自白を強要したこと、坂口航平の供述を撤回させようとしたこと、さらに戸田を殺して録音を奪おうとしたことまですべてが真壁自身の言葉として記されている。
『署名を』
「き、拒否する」
『黙秘権を行使なさいますか』
「強要された自白に証拠能力はない」
『ほう、驚きました』
Elは調書を一枚めくった。
『ご自分に矛を向けられると随分と近代的な人権意識をお持ちになるのですね。視聴者のみなさん、これが俗にいうダブルスタンダードです』
「こんなものは自白ではない!」
『あなたが書かせたものと、どこが違うのでしょう』
黒煙が僅かに首を傾げる。
『あっ、今回は内容が全て事実である点ですね。大変失礼しました』
真壁の足元で揺れた影が照明とは逆の方向へ伸び、床からゆっくり起き上がる。
それは真壁と同じ背格好で警察官の制帽と制服を身につけ、胸元へ白い警察章を浮かべながら顔だけが存在しない警察官の姿となって背後へ立った。
「なんなんだよコレ……こ、コッチに来るな……!」
真壁が後退すると影は腰から、光を一切反射しない黒い警棒を抜いた。
『その情けないお顔はなんですか……。制服は権威を与えてくれますが、どうやら品性までは支給されなかったようですね』
「何を、するつもりだ……」
『警察官の矜持を身体へ叩き込む、という表現があります』
Elは椅子へ深く腰かけた。
『今夜は入口が少々異なりますが━━』
影の手が真壁の首をつかみ、その身体を机へ叩きつける。
「やめろ! 私は━━」
制服と下着が見えない刃で引き裂かれ、警棒の先端が真壁の肛門へ押し当てられる。
「待て……待ってくれ……!」
『小宮山澪さんも、そのようにお願いしていました』
「私は、犯していない!」
『未遂なら無かったことになると?』
「やめろぉっ! く゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛━━っ !」
『おや……口よりも肛門の方がよく滑りますね』
警棒が肛門から真壁の体内へ突き立てられ、直腸と腹腔を貫いて胸部へ向かい、異常な長さに伸びるにつれて背中が弓なりに反ったが、悲鳴は声にならなかった。
黒い先端は肺の間を通って食道に沿い、喉の奥までせり上がると開いた口の舌の根元よりさらに奥に姿を現した。肛門から喉まで一本の警棒によって串刺しにされ、口から溢れた血さえ床へ落ちる直前に空中で止められる。
『まるで串焼きを焼く前のようで、ワクワクします』
裂けた臓器も潰れかけた心臓も神の力で無理やり動かされ、意識だけは一瞬も失うことを許されなかった。
「こ゛っ……ぁ……」
『ご安心ください』
Elは壁の時計を見上げた。
『これは刑罰であって、死因ではありません』
警棒が喉の内側で僅かに動くたび真壁の全身が痙攣し、それでも口からは別の言葉が押し出される。
「天……ムラついた俺は可愛い顔したあの小宮山澪を、犯そうとした……!」
真壁の目から涙が溢れた。
「あ……抵抗されたから、髪をつかんで壁へ……!」
「やめろ……言わせるな……ぁ……!」
自分の意思で吐く言葉と、身体から強制的に引き出される真実が混ざっていく。
『素晴らしい』
Elの声には、賞賛も怒りもなかった。
『今夜は自白率百パーセントですね。〈落としのEl〉とでも名乗っておきましょうか』
黒い警棒は通過した場所を逆に辿って雑に引き抜かれ、最後に肛門から抜けると真壁の身体が床へ崩れ落ちた。
しかし貫通した傷は黒煙に覆われると同時に塞がり、血も裂傷も消えて痛みの記憶だけが残る。
真壁が今夜死ぬ理由は別に用意されており、影の警察官はその右手にペンを握らせた。
「嫌だ……」
調書の署名欄へ手を運ぶ。
「私は、認めない……!」
影が人差し指を逆方向へ折り、乾いた音が鳴る。
「ぎゃぁっ!」
『認めれば、早く帰れるのでしたね』
中指が折れる。
『散々ご自分で仰っていたではありませんか』
薬指、小指、最後に親指まで折ると影は指先を調書の紙縁へ押しつけ、皮膚が裂けるまで横へ引いて滲んだ血を動かない指へ塗り広げた。
五本の指がまとめて署名欄へ押しつけられ、真壁誠司という名前の上へ赤い指紋が残ると、〈自白調書への署名を確認しました。最終執行へ移行します〉という文字が表示された━━。




