第三十四話 止まる録画と消えた証人 前編
小宮山澪の死亡記録は十一年間誰にも開かれなかったわけではない、遺族からの申し立てがあるたび県警内部で何度も確認されていた。
取調室の録画が停止した理由。
全身に残った複数の皮下出血。
真壁誠司の左頬についた三本の傷。
同席していた警察官が死亡直前の四十七分間だけ退室していた経緯、そのすべてについて書類上の答えは既に用意されていた。
録画の停止は機器の容量不足。
皮下出血は興奮した澪を安全に制止した際に生じたもの。
真壁の傷は澪が突然襲いかかった証拠。
もう一人の警察官は澪の勤務先へ電話確認をするため退室した。
取調べに重大な問題はなく適正な職務執行だったと、文章の最後には毎回同じ結論がそう記されている。
翌朝、火村は県警本部の資料室でその結論を三度読み直した。
「読むたびに正しい心になる文章ではありませんよ」
向かいで資料をめくる森川が言った。
「そりゃ分かってるさ」
「小宮山さんの死亡後、監察が二回、検察が一回確認しています。真壁警視は処分すら受けていません」
「処分されなかったことと何もしてないことは別だ」
「でも火村さんが真壁警視を嫌っていることと、犯人であることも別ですよね」
火村が顔を上げる。
「何が言いたい」
「火村さんが昨日自分で言ったことです。嫌いだから犯人にするわけにはいかないって」
森川は臆せず火村を見る。
「若造のくせに、嫌なところだけ覚えてるな」
「先輩の教育が良いもので」
「ほう、どんなふうに?」
「それはもちろん、反面教師です」
火村は舌打ちし、資料へ視線を戻した。
真壁の左頬にある傷を見ただけで小宮山澪へ何をしたかは証明できない。
祈が知るはずのない名前を真壁自身が口にしたことも殺人の自白にはならない。
必要なのは、録画されなかった四十七分間を知る人間の証言だった。
「同席していた警察官は?」
「戸田雅人。当時二十七歳、巡査部長でした。しかし三年前に依願退職しています」
「理由は」
「家庭の事情とだけ」
「現在の住所はわかるか」
「住民票は市内です。でも半年前から家賃を滞納し、管理会社も連絡が取れていません」
「家族は」
「離婚しています、元妻と娘は県外。戸田本人とは……十年近く会っていないそうです」
火村は、戸田が最初に提出した報告書を開いた。
事件当日の午後八時二十一分に作成されたもの。
『勤務先への確認を終えて戻ったところ、小宮山澪は床へ倒れていた』
『真壁警部補が胸骨圧迫を行っていた』
『被疑者が暴れる場面は見ていない』
ところが三日後、報告書は書き直されている。
『室内へ戻った際、小宮山澪が真壁警部補へ掴みかかるところを確認した』
『制止を振り切った被疑者が壁へ衝突した』
二つの文章は同じ人間が書いたとは思えないほど内容が変わっていた。
「最初の報告書が残っていたんですね」
「廃棄予定の紙資料へ紛れ込んでた。電子記録は三日後の方へ上書きされている」
「戸田が最初は本当のことを書いて、そのあと証言を変えた?」
「本人に聞くしかない」
火村は立ち上がった。
「戸田を捜すぞ」
資料室の扉を開けたところで廊下に真壁が立っていた。
「随分熱心だな、火村━━」
火村の足が止まる。
「真壁さん」
「十一年前に終わった事案を今さら掘り返して何が出る」
「本当に終わったかどうかを確認しているところです」
「……昨日の高校生に何を吹き込まれた」
「天羽の言葉だけで捜査を始めたわけではありません」
「なら、二件の出品か?」
火村の目が僅かに細くなる。
午前一時十三分に《エルカリ》へ出品された二件の商品は、投稿から三分後に警察の監視システムへ検知されていた。
娘の切れたネックレス。
九年間の無実ノート。
どちらの説明欄にも真壁誠司の名前がある。
「ご自分の名前が出品されてるのに、随分落ち着いていますね」
「根拠のない中傷だ。警察官を萎縮させるための小さな脅迫にすぎん」
「小宮山葉子さんには、十一年前から同じ主張をしていた記録があります」
「娘を失った母親は、誰かを恨まなければ生きていけない」
「山科浩平さんは再審無罪になっています」
「自白したのは本人だ。私は署名を強制していない」
真壁は迷いなく答えた。
「録画のない時間に、何をしたんですか」
「取調べだ」
「随分とカメラに嫌われる取調べですね」
「火村」
真壁の声が低くなる。
「私はお前の上司だ。憶測で名誉を傷つけるなら監察へ報告する」
「どうぞ」
火村は敬語を崩さなかった。
「その際は、小宮山澪の"最初"に作成された報告書も一緒に提出します」
真壁の視線が、火村の手にあるファイルへ落ちた。
「……何の話だ」
「戸田雅人が事件当日に書いた報告書です」
それは一瞬だけだった。
だがしかし、真壁の瞳に明確な焦りが浮かんだ。
「廃棄されたはずだ」
口にしてから真壁は黙ったが、火村は聞き逃さなかった。
「なぜ、廃棄されたはずだと知っているんですか」
「古い記録だ。保存期間を過ぎていると思っただけだ」
「ほう、そうですか」
火村はファイルを脇へ抱えた。
「戸田さんにも確認します」
「好きにしろ」
真壁は火村の横を通り過ぎた。
廊下の角を曲がるまで、歩く速度は変わらなかった。
だが自分の執務室へ入った瞬間、鍵をかけた。
* * *
真壁は机の引き出しから警察内部の照会端末を取り出した。
戸田雅人。
退職後の住所。
運転免許の更新記録。
健康保険の利用履歴。
現在の勤務先。
住民票の住所には住んでいない。
だが二か月前から湾岸地区にある物流倉庫で夜間警備員として働いている。
真壁は画面を見つめた。
十一年前、戸田には妻と生まれたばかりの娘がいた。
真壁が報告書を書き直させたとき、戸田は何度も拒んだ。
『私は、澪さんが暴れるところを見ていません』
『戻ったときにはもう倒れていました』
『あの怪我は、壁に一度ぶつかっただけでは説明できません』
真壁は戸田へ教えた。
最初の報告書を残せばお前も違法な取調べへ関与した共犯者になる。
警察を辞めるだけでは済まない。
妻の勤め先にも、娘の学校にも報道が押しかける。だが正しい報告へ書き直せば家族は守られる。
戸田は三日後、真壁が用意した文章を書き写した。
それから十一年間、一度も真壁へ連絡していない……だが今になって火村が戸田を捜している。
真壁は個人用のスマートフォンから登録されていない番号へ電話をかけた。
呼び出し音が五回続く。
『……はい』
「久しぶりだな、戸田」
通話の向こうから、息を呑む音がした。
『どうして……この番号を』
「警察を辞めても国民であることは変わらん」
『……何の用ですか』
「火村がお前を捜している」
沈黙。
「何を話した」
『まだ、何も』
「まだ?」
『……言葉の綾です』
真壁は椅子へ深く座った。
「今夜会おう」
『嫌です』
「十一年前と同じ失敗をするつもりか……?」
『失敗したのは私じゃない』
戸田の声が震えている。
『……あなたです』
真壁の表情から、感情が消えた。
「午後十時。勤務先の倉庫で待っていろ」
『来ないでください』
「火村へ話せば、お前が虚偽の報告書を提出した事実も明るみに出る。退職したから終わったと思うな」
『もう、終わらせたいんです……』
「なら、余計なことを話すな」
真壁は一方的に通話を切った。
机の上には二件の出品を印刷した資料がある。
販売価格、十三円。
真壁は紙を裏返した。
彼はElが本物の神だとは思っていない。
ただ高度な映像技術と薬物、そして共犯者を使う殺人犯。
正体さえ暴けばほかの容疑者と同じように口を割らせられる。
だが、祈の言葉が耳に残っていた。
『次に録画が止まったとき、救われるのがあなたとは限りません』
真壁は無意識に左頬の傷へ触れた━━。




