第三十二話 二人の祈りは、同じ男を指す 前編
火村たちが情報管理会社へ踏み込んだとき、管理サーバーは停止処理の途中だった。
午後六時三十八分。
社員の大半が帰宅した社内でサーバー室にだけ四人の人間が残っている。
床には交換用の機器が並び、作業台の上には取り外された機器と工具が置かれていた。
「全員そこから離れてください」
森川が令状を示す。
作業員の一人が停止ボタンへ伸ばしかけた手を引いた。
責任者の男は顔を青ざめさせながら、それでも作り笑いを浮かべる。
「これは定期的な保守作業ですよ。警察から保存要請を受けた記録には触れていません」
「定期保守の予定表を見せてもらおうか」
火村が尋ねる。
「予定表は……今、確認します」
「おい、緊急のセキュリティ更新だったんじゃないのか」
男の笑みが止まる。
「学校から全校生徒にはそう通知が出ている。定期なのか緊急なのか、どっちだ?」
「その……脆弱性が見つかったため、定期保守を前倒しにして━━」
「それなら運の悪い脆弱性だな。警察が原本を確認すると言った日に見つかるとは」
火村はサーバー室を見回した。
「稼働中の機器、交換予定の機器、記憶媒体、作業端末を差し押さえる。今からデータへ触るな」
「学校の業務が止まります!」
「生徒のタブレットが一日使えないなら俺たちの時代と同じく"紙"を代わりに使えば良いんだよ。人が死ぬわけでもあるまい」
火村は男を見る。
「まぁその記録を消す理由があるなら……別だがな」
男は答えなかった。
作業員たちの中で最も若い男だけが視線を床へ落としている。
森川はその反応を見逃さず、名前を確認した。
そして火村達による差し押さえが終わったのは午後八時を過ぎてからだった。
帰りの車内で森川が息を吐く。
「ぎりぎりでしたね」
「まだ分からん。既に手を加えられている可能性もある」
「責任者は定期保守だと言っていましたけど」
「嘘をつく奴は聞かれてもいない説明から始める。今日の責任者のようにな」
「天羽みたいですね」
「あいつは聞かれてもまともに答えず、飯の話へすぐ逃げる」
「もっと悪いじゃないですか」
「っ……」
火村は返事をせず前方の赤信号を睨んだ。
学校法人が何のために天羽祈の通信記録を作ったのか、Elとの関係を本気で疑っただけなのか。
それとも、祈を学校と《ミモザ》から追い出すためなのか。
まだ答えはない。
ただ、原本を見せる前にサーバーを交換しようとした事実だけは残った。
「火村さん」
「何だ」
「本部から連絡です。坂口航平の供述について、再聴取の担当が決まったそうです」
「誰だ」
森川は画面に表示された名前を見て、言いにくそうに答えた。
「その、真壁誠司警視です」
火村の指がハンドルの上で止まった。
「……誰が決めた?」
「刑事部長です。供述の信用性へ学校側から異議が出たため、取調べ指導官による再確認が必要だと」
「よりによって、あの人か」
「知ってるんですか」
「知らない刑事の方が少ない」
火村は信号が青へ変わっても、すぐに車を動かさなかった。
「自白強要させた人数を、解決した事件の数だと思ってる人だ」
* * *
真壁誠司は、県警内部で〈落としの真壁〉と呼ばれていた。
五十六歳。
県警本部刑事部の取調べ指導官。
容疑者の心理を読み、否認を崩し、自ら罪を認めさせる技術に優れた刑事として多くの捜査員へ取調べの講義を行っている。
表彰歴は七回。
真壁が担当した重大事件の自白率は、九十七パーセント。
新聞は彼を、〈被疑者の心を開く刑事〉と書いた。
だが火村は、その扉が内側から開いたところを一度も見たことがなかった。
真壁の取調べでは録画機器がよく故障した。
容疑者が机へ身体をぶつけた。
突然暴れたためやむを得ず制止した。
家族の話をしただけなのに本人が勝手に脅されたと誤解した。
問題が起きるたびに記録のない時間と真壁へ逆らえない若い捜査員の証言が残った。
苦情は何度も出た。
だが、真壁が自白させた相手の多くは既に世間から凶悪犯と呼ばれていた。
犯罪者の言い訳と実績ある刑事の説明。
組織がどちらを信じるかは最初から決まっていた。
翌朝、火村が会議室へ入ると真壁は坂口航平の供述調書を読んでいた。
白髪の混じった短い髪。
銀縁眼鏡。
背は高くないが、椅子へ座っているだけで周囲の若い捜査員が声を潜める威圧感。
「遅いぞ、火村」
「申し訳ありません真壁さん。昨夜の差し押さえ資料を鑑識へ回していました」
「学校の端末記録か」
「ご存じでしたか」
「私が再聴取を任された理由の一つだ。天羽祈とElの関係が少しでも疑われている以上、坂口の供述が影響を受けていないか確認する必要がある」
真壁は資料に添付された祈の写真を見た。
目が僅かに細くなる。
「この少年か」
「知っているんですか」
「去年七月、盗撮事件で私が話を聞いた」
森川が火村を見る。
祈の事情聴取記録には、担当者として複数の名前が並んでいた。
その最終確認者が真壁誠司だった。
「コイツは……最後まで認めなかったな」
真壁は懐かしむように言った。
「購入履歴も動画も指紋もあった。それでも自分ではないと繰り返した」
「現在、その証拠自体が作られた可能性を調べています」
「可能性は、無実とは違う」
「有罪とも違います」
火村は敬語を崩さなかった。
真壁は十一歳年上で、階級も上だった。
何より、正面から感情をぶつければ真壁はそれさえ相手の未熟さを証明する材料へ変える。
「火村。お前は被疑者の言葉を信じすぎる」
「真壁さんが疑わなすぎるんです。自分の作った答えを」
会議室の空気が硬くなる。
真壁は怒らなかった。
「相変わらずだな」
「恐縮です」
「褒めていない」
「存じています」
真壁は供述調書を閉じた。
「坂口航平の再聴取は私が行う。お前は記録係として同席しろ」
「録音録画は、最初から最後まで行ってくださいね」
「この私へ取調べの方法を教えるつもりか」
「確認です」
真壁は薄く笑った。
「好きにしろ」
* * *
坂口航平は前回よりも小さく見えた。
取調室の椅子へ座り、両手を膝の間に挟んでいる。
彼の目の下には濃い隈があった。
真壁が正面へ座り、火村は斜め後ろに位置した。
壁の録画ランプが赤く点灯する。
「坂口くん。体調はどうだ」
「……眠れません」
「無理もない。人を殺したと思い込んでいるんだから」
坂口が顔を上げた。
「思い込んでるんじゃない。俺たちは祈を……」
「天羽祈は、生きている」
真壁は穏やかに遮った。
「毎日学校へ通っている。君も見ているだろう」
「でも、あの夜は死んでた」
「医師でもない君がどうやって判断した」
「息をしてなかった。脈も……」
「恐怖の中で確認したんだろう。人間の記憶というのは簡単に変わる」
真壁は坂口の供述調書を指先で叩いた。
「特にElの処刑を何度も見たあとなら、現実と映像が混ざっても不思議ではない」
「重りが見つかっただろ!」
「海へ捨てた重りが見つかった。それだけだ」
「血もついてた!」
「天羽の血がついた鉄パイプが海から出た。それも事実だ。だが、君が殴った証拠ではない」
真壁の言葉は、一つずつ見れば間違っていなかった。
事実と事実の隙間を広げ、その間へ別の筋書きを流し込んでいく。
「君は最初、警察へ自分から来たそうだな」
「はい……」
「Elに殺されると思ったからか?」
「……はい」
「なら、君の供述は罪を告白するためではなくElから助かるために作った話かもしれない」
「違う」
「自分が被害者になれば、Elは殺さない。桐谷颯斗の映像を見て、そう考えたんじゃないか」
「違う!」
坂口の呼吸が速くなる。
だが真壁は声を荒らげない。
優しい大人の顔を保ったまま、相手が自分自身を疑う言葉だけを選んでいた。
「一度休憩しよう」
真壁が立ち上がる。
「火村、母親へ連絡してやれ。本人が不安定だと伝えてこい」
「連絡なら森川に頼みます。私はここに残ります」
「記録係は休憩だ」
「録画は続けます」
「坂口くんはカメラを意識して話せないようだ。五分だけ外せ」
「できません」
真壁の目から笑みが消える。
「命令だ」
火村は数秒、真壁を見た。
「っ……分かりました」
立ち上がる。
扉の前で振り返った。
「録画は切らないでくださいよ」
「聞こえている」
火村が取調室を出た。
三十秒後、壁の録画ランプが消えた。
隣室のモニターが暗転する。
「真壁さん!」
火村が戻ろうとするが、内側から鍵がかかっていた。
取調室の中で、真壁は坂口の前へ立つ。
「これで話しやすくなったな」
「どうして、カメラを……」
「君のためだ」
真壁は机へ両手をついた。
「供述を撤回しろ」
先ほどまでの柔らかな声ではなかった。
「……え?」
「天羽祈を殺したという話はElの映像を見て混乱した自分が作った。警察から誘導された。そう言えばいい」
「い、……嫌だ」
「なら、この事件で捕まるのは君一人だ」
坂口の顔から血の気が引く。
「ほかの三人は否認している。証拠から直接名前が出ているのも、警察へ重りの場所を教えたのも君だけだ」
「真が、全部決めたんだ……!」
「証拠は?」
「メッセージが……」
「削除されたメッセージを誰が送ったか、君に証明できるのか」
真壁は坂口の肩へ手を置いた。
「撤回すれば記憶が混乱した少年で終わる。続ければ、天羽を殴り海へ捨てた主犯だ」
坂口の肩へ、指が食い込む。
「母親に、殺人犯の親として生きてもらいたいか?」
「やめて……ください」
「家も仕事も、全部なくなる。君のせいでな」
「やめろ……」
「だが君が正直になれば、家族を守れる」
扉の外から激しい音がした。
火村が非常解錠用の鍵を使い、扉を開ける。
「何をしているんですか真壁さん」
真壁は坂口から手を離した。
「本人が落ち着けるよう話していただけだ」
「録画を切りましたね」
「機器の不具合だろう」
火村の目が鋭くなる。
「なるほど、都合のいい不具合ですね。カメラ相手に買収でもしたんですか?」
「言葉に気をつけろ、火村」
「真壁さんこそ、坂口へ何を言ったんです」
「聞きたければ本人へ聞けばいい」
火村は坂口を見る。
坂口は俯き、震えていた。
「俺が……間違ってたかもしれません」
真壁の口元へ僅かな笑みが浮かんだ。
「何だと?」
「祈を殺したっていうのは、Elの動画を見て……混乱して……」
「坂口」
「俺一人が、勝手に作った話かもしれない」
火村の拳が握られる。
「何を言われた」
「何も……」
「坂口、こっちを見ろ」
「火村」
真壁が割って入る。
「本人が供述を訂正している。捜査員が望む答えを強要するな」
その言葉で、火村の敬語が切れた。
「どの口で言ってる、真壁」
取調室が静まり返り、真壁の目が細くなる。
「今、何と言った」
「録画を切って怯えた少年と二人きりになった。戻ったら供述がまるっきり変わってる」
火村は真壁へ一歩近づいた。
「そのやり方をやめろと言ったんだ」
「階級を忘れたか」
「取調室の中で人間の階級を見せびらかすのが、アンタの仕事か?」
二人の間へ森川が入る。
「火村さん、落ち着いてください」
「真壁警視。これ以上の聴取は一旦中止します。録画停止の原因を確認します」
真壁は火村を見たままゆっくり眼鏡を直した。
「好きにしろ」
取調室を出る。
廊下にいた若い警察官たちは、一斉に道を空けた。
* * *
その日の深夜、日付が変わった午前一時十三分。
二人の人間が互いの存在を知らないまま同時に出品ボタンを押した。
一人は、十九歳の娘の部屋を十一年間残し続けた母親だった。
小宮山葉子、五十八歳。
机の上には、細い銀色のネックレスが置かれている。
その鎖は途中で切れて留め具が歪んでいた。
それは娘の小宮山澪が、死亡した夜につけていたものだった。
商品名━━娘の切れたネックレス。
商品の状態━━傷や汚れあり。
販売価格━━十三円。
説明欄へ、葉子は十一年間誰にも信じてもらえなかった文章を入力した。
『娘は十九歳でした』
『専門学校へ通いながら、駅前のパン屋で働いていました』
『十一年前、詐欺グループの受け子と間違われて警察へ連れていかれました』
『防犯カメラに映っていた女と、着ていたコートの色が似ていたそうです』
『娘は何も受け取っていません』
『被害者の家へ行ったこともありません』
『それでも真壁誠司という刑事は、娘が嘘をついていると決めました』
澪が連行されたのは、午後四時十二分。
最初の取調べには真壁のほかに若い男性警察官が同席していた。
澪は何度も人違いだと訴えた。
勤務先の記録を確認してほしい。
事件の時間はパン屋にいた。
店長も同僚も知っている。
だが真壁は、確認する前に自白を求めた。
『認めれば、今日中に帰れる』
『否認を続ければ、母親も詐欺の金を受け取った共犯として調べる』
『十九歳なら刑務所へ入っても人生をやり直せる』
午後七時三十一分。
同席していた警察官は勤務先への確認を命じられて退室した。
取調室には真壁と澪だけが残った。
その三分後、録画機器が停止した━━。
警察の説明では保存容量の不足による自動停止だった。
記録のない室内で真壁は澪の背後へ回り、肩へと触れた。
抵抗すれば母親も逮捕すると囁き、逃げようとした澪の腕をつかんだ。
そして机へ押さえつけ、衣服の下にある柔らかいモノに向けて手をかけた。
澪は真壁の顔を引っ掻き、椅子を倒して扉へ走ったが真壁は自分へ逆らったことに怒って髪をつかみ、澪の頭を壁へ打ちつけた。
床へ倒れたあとも、腹部と背中を何度も蹴った。
澪は二度と立ち上がらなかった。
真壁が人を呼んだのは録画が止まってから四十七分後だった。
だが公式記録には別の出来事が書かれた。
『被疑者が突然興奮し、取調官へ襲いかかった』
『制止を振り切って逃走しようとし、自ら壁へ頭部を衝突させた』
『救命措置を行ったが、搬送先で死亡した』
澪が受け子ではなかったことは死亡した翌日に判明した。
本物の受け子が別の駅で逮捕されたのだ。
勤務先の防犯カメラにも事件発生時刻にパンを並べる澪の姿が残っていた。
県警は、人違いによる任意同行だったことを認めた。
しかし死亡については適正な制止行為だったと発表した。
真壁の左頬には翌日から三本の傷があった。
県警は澪が暴れた際につけたものだと説明したが、葉子はその傷こそ娘が最後まで逃げようとした証拠だと思っていた。
説明欄の最後へ文字を打つ。
『娘は容疑者ではありませんでした』
『それでも警察は、最終的に娘が悪かったと言いました』
『録画されなかった四十七分間に、真壁誠司が何をしたのか明らかにしてください』
『娘が死ぬ直前まで帰ろうとしていたことを証明し、嘘つきには娘と同じ苦しみを与えてください』
葉子は出品ボタンを押した。
同じ瞬間━━。
古い集合住宅の一室で山科浩平も一冊のノートを出品した。
商品名━━九年間の無実ノート。
商品の状態━━全体的に状態が悪い。
販売価格━━十三円。
山科は十四年前、放火殺人事件の犯人として逮捕された。
物的証拠はなかった。
現場近くを歩いていたことと被害者と同じ会社に勤めていたこと、ただそれだけで逮捕された。
取調べを担当したのは当時所轄署の刑事だった真壁誠司。
山科は二十一日間、否認を続けた。
夜まで繰り返される質問。
机を蹴る音。
胸倉をつかまれ、壁へ押しつけられた時間。
妻も共犯として逮捕すると告げられた。
六歳の娘は殺人犯の子供として一生を過ごすことになると言われた。
『罪を認めれば、家族へ迷惑をかけずに済むぞ』
真壁が作った文章へ署名したとき、山科は眠らずに三十時間以上取調べを受けていた。
後日行われた裁判では、自白が犯人しか知り得ない内容を含んでいると判断された。
だがその内容を山科に教えたのが真壁だったことは認められなかった。
懲役十五年。
服役九年目、保管されていた証拠品から別人のDNAが検出された。
真犯人は別件で逮捕され、放火を認めた。
再審で、山科は無罪となった。
だがその時、妻は既に離婚していた。
娘は名字を変え、父親との面会を拒否した。
会社も、家も、家族と過ごすはずだった九年間も二度と戻らなかった。
刑務所で毎日書いたノートだけが残った。
全ページの最初に、同じ言葉がある。
『私は殺していない』
山科は説明欄の最後へ入力した。
『私は真壁誠司が作った自白へ署名しました』
『あれは、私の言葉ではありません』
『なのに真壁は今も、正しい取調べを教える立場にいます』
『私の名前を犯人ではない人間へ戻してください。そして奴を壇上から引き摺り落としてください』
出品する。
二つの商品が、午前一時十三分零秒に同時に公開された━━。




