第三十話 嘘は証拠の服を着る 前編
翌朝の昇降口。
靴を履き替えた祈が振り返り、葵と目が合った。
ただそれだけだった。
祈は名前を呼んでいない、近づいてもいない。
それなのに葵の足は身体を守ろうとするように半歩だけ後ろへ動いた。
床へ上履きの底が擦れる。
小さな音だった。
だが、祈には聞こえていた。
「おはようございます、結城さん」
「お……おはよう」
葵は平静を装った。
しかし、その声は僅かに掠れている。
祈の視線が葵の手へ向く。
鞄の持ち手を強く握り、指先から血の気が失われていた。
「ご安心ください」
「え……?」
「朝食前に人の彼女を襲うほど、僕は礼儀作法や常識を失っておりませんので」
葵の顔が強張り、昨夜読んだ資料が頭の中で開いた。
四件の処刑。
十三分前の通信記録。
黒瀬莉愛を見つめる祈。
大槻宗一と接触している姿。
資料の内容を知られているのか。
それとも、自分の態度を見ただけなのか。
「祈、私……」
「何でしょう」
尋ねたいことはあった。
駅で黒瀬の仕込みを見抜いたのはなぜなのか。
久世蓮司の事件をどこまで知っていたのか。
東央重工業へ何をしに行ったのか。
学校のタブレットからどこへ通信したのか。
そして━━祈はElなのか。
だが最後の問いを口にした瞬間、祈が引き取る前と同じ場所へ戻ってしまう気がした。
証拠を並べ、祈の話を聞く前から犯人だと決めつけたあの日に……。
「……何でもない」
「そうですか」
祈は理由を聞かなかった。
悲しむことも葵の怯えを否定することもない。
興味を失ったように上履きの踵を直し、階段へ向かった。
その手には登校途中で買った大きな紙袋がある。
「祈」
葵が思わず呼び止める。
祈は振り返った。
「それ……朝ご飯?」
「二度目です」
「そう……」
「ご用件は以上でしょうか」
「うん」
「では失礼します。恐怖は健康に悪いそうですので、結城さんも何か召し上がった方がよろしいかと」
優しさではなかった。
ただ、人間の身体について知っている事実を伝えただけの声だった。
祈は階段を上がっていくその背中を葵は見つめた。
昨夜までは祈を信じることが怖かった。
だが今は、自分がまた祈を疑い始めていることの方が怖かった。
* * *
二階の廊下から一ノ瀬真は二人を見ていた。
葵が祈から退いた。
祈を呼び止めても追いかけない、資料は期待どおりの役割を果たしている。
以前の真ならすぐに葵のもとへ向かった。
怖かっただろう。
自分がそばにいる。
あんな男へ近づかなくていい。
そう言って肩を抱き、自分の側へ引き寄せていた。
だが今日は動かなかった。
葵に気づかれないよう廊下の角へ下がり、スマートフォンも開かない。
助けを押しつければ今の葵は疑う。
だから自分から助けを求めたと思わせなければならない。
父親から教えられた方法だった。
『人間は、閉じ込められれば扉を疑う』
『なら、扉を開けておけ。外へ出た本人が寒さに耐えられず戻ってくるようにすればいい』
真は階下にいる葵を見下ろした。
葵を所有物のように扱うなと、父親は以前自分へ言った。
今なら、その意味が分かる。
所有物だと気づかせなければいい。
自由に選ばせたように見せたうえで、選択肢を一つだけ残せばいいのだ。
始業を告げる予鈴が鳴る。
一ノ瀬は葵へ声をかけず、三年生の教室へ戻った。
* * *
一時間目が始まって十五分後、祈は校内放送で呼び出された。
『二年三組、天羽祈くん。至急、第一会議室へ来てください』
数学教師が教科書を閉じる。
「天羽。何をしたんだ」
「呼び出した方へ伺わなければ僕にも分かりません」
「最近のお前なら何をしていても驚かん」
「教師からの信頼が厚いのは良いことですね。僕が盗撮を疑われた時もそうであって欲しかったですが━━」
祈は机の横へ置いた鞄を持った。
「鞄まで持っていく必要はないだろう」
「長引いた場合に備えまして」
「教科書か?」
「携帯食です」
「置いていけ」
「では、三十分以内に返却してください。過ぎた場合、空腹による八つ当たりを請求いたします」
「早く行け!」
教室から笑いが起きる。
葵だけは笑わなかった。
それは祈が呼び出された理由を、自分は知っているような気がしたからだった。
昨夜、父親から届いた資料。
学校法人が作成したElと祈の行動照合。
自分が閲覧したことも学校側へ伝わっているのだろうか。
祈は葵を見ず、教室を出ていった━━。
* * *
第一会議室には、授業中の生徒一人を迎えるには多すぎる大人が集まっていた。
校長。
教頭。
担任。
現代社会担当の佐伯。
学校法人の顧問弁護士。
理事長である一ノ瀬父。
そして、祈の両親。
長机の端には児童相談所の職員も座っている。
「オフ会にしては随分と盛大ですね」
祈は空いている椅子へ腰を下ろした。
「皆さんが推す、僕の誕生日はまだ先なんですが」
「天羽くん。今は冗談を言っている場合ではありません」
校長が机の上の資料へ両手を置く。
「本日は、君と本校生徒の安全に関する重要な確認を行います」
「ほう、僕の安全を僕を除いた皆様で相談なさっていたのですね」
「事前に大人が情報を整理する必要があった」
「なるほど。本人へ知らせず本人のためと称して勝手に決める、植民地経営とよく似た親切ですね」
顧問弁護士が口を開く。
「言葉を慎みなさい。君を非難するための場ではない」
「そうですか、では何のために? 僕の過払金相談ですか? それならア◯ィーレ法律事務所に行きますけど」
祈の母親が顔をしかめる。
「祈、ふざけないで。あなたの将来に関わる話なのよ」
「僕の過去に無関心だった方々が、将来には随分熱心なんですね」
「天羽」
佐伯が低い声で制止した。
「まず、資料を読め」
祈の前に、昨日葵が読んだものと同じ書類が置かれる。
〈取扱注意・関係者外秘〉
〈El関連事件における本校生徒の行動照合〉
祈は一枚目から順番に目を通した。
鷺沢怜央。
久世蓮司。
黒瀬莉愛。
大槻宗一。
自分が現場の近くにいた事実と、口にした言葉。
記録映像から姿が消えた時間。
そして、学校支給端末の通信記録。
祈の指が最後の一枚で止まった。
「どう、思いますか」
理事長が尋ねる。
「文章の構成は次第点です」
「内容を聞いている」
「事実は全員招待されているのに、嘘だけが主賓席に座っている」
祈は資料を閉じた。
「政治資金パーティでも、ここまで露骨な席順は珍しいかと」
会議室の空気が変わった。
理事長の目が細くなる。
「どこが、嘘だと言うんだ」
「僕は席順を褒めただけです」
「通信記録を否定するのか」
「おや?」
祈は僅かに微笑んだ。
「僕は、通信記録とは申し上げておりませんが」
理事長の表情は動かなかった。
だが、机の下で組んだ指に力が入った。
顧問弁護士が資料を引き寄せる。
「この記録は、本校が契約する専門業者の解析に基づいている。根拠なく捏造と決めつけることは━━」
「待ってください」
佐伯が遮った。
「私はこの資料を、今朝初めて見ましたよ」
校長が困ったように視線を向ける。
「佐伯先生には教育的観点から同席をお願いしておりまして」
「意見を求めるなら言わせていただきます。この資料だけで天羽祈を危険人物と判断することには反対です」
祈が佐伯を見る。
「先生が僕を擁護なさるとは。今朝は西から日が昇りましたか」
「……擁護しているんじゃない」
佐伯は祈を睨んだ。
「私はElによる私刑に反対している。だからこそ、確認されていない資料で一人の生徒を裁くことにも反対だと言っている」
「手続きへの忠誠心が、初めて有益に働きましたね」
「褒めていないだろう……お前」
「最大限の敬意です」
佐伯は祈を無視し、理事長へ向き直った。
「端末の通信記録は原本を第三者が確認したのですか」
「契約業者が確認している」
「学校法人と利害関係のない第三者です」
「必要があれば、今後確認する」
「ならば、確認する前に生徒を授業から呼び出したのですか」
理事長の声が僅かに低くなる。
「生徒の安全に関わる問題だ。疑いがある以上、先に対応するのは当然でしょう」
「対応とは、具体的に何を指します?」
顧問弁護士が書類を一枚出した。
「調査が終わるまで、天羽祈くんには自宅学習を求めます。同時に保護者宅へ戻り、医療機関で心身の状態を確認していただく」
祈の父親が頷く。
「既に部屋は用意してあります」
「物置を人間の部屋へ戻す工事が、無事に終わったのですね」
「祈」
「建築基準法を心配しただけです」
児童相談所の職員が資料から顔を上げる。
「本人の居住先については学校だけで決定できません。天羽さんご夫妻が以前、引き取りを拒否した経緯もあります。まず家庭訪問と祈さん本人への聞き取りが必要です」
「危険人物かもしれない子供を他人の女性の家へ置いておくのですか」
母親が言った。
「和泉という人は、祈がElと関係している可能性を知りながら一緒に暮らしている。正常な判断ができているとは思えません」
「七緒さんに対する侮辱はお控えください」
祈の声から、軽い調子が消えた。
母親が息を止める。
自分が何を言われても笑っていた少年が、七緒の名前を出した瞬間だけ明確な拒絶を示した。
「あの方は、あなた方が簡単に放棄した責任を昨年の十二月から引き受けています」
祈は母親を見る。
「その判断を異常と呼ぶなら、正常な人間とは醜い生き物ですね。子供を捨てても書類の上では親でいられる」
「私たちはあなたを守ろうとしているのよ!」
「昨夜から急に?」
「そ、それは━━」
会議室の扉が三度叩かれた。
返事を待たず、火村と森川が入ってくる。
「授業中に悪いな」
「昨日は朝食、今日は授業。刑事とは他人の予定を破壊する職業なのでしょうか」
「壊されたくなければ事件に近づくなよ」
「向こうから来るもので」
火村は祈の皮肉を流し、校長へ警察手帳を見せた。
「天羽祈に関する捜査で、学校へ確認したいことがある」
理事長が立ち上がる。
「今は重要な校内協議中です。事前の連絡もなく━━」
「そっちの重要より人命の方を優先する」
火村は森川から封筒を受け取り、机へ置いた。
「海底から回収した鉄パイプの内部に残っていた付着物は、人血だった」
祈の母親が口元へ手を当てる。
「そのDNA型は、天羽祈から任意提出を受けた資料と一致した」
会議室が静まり返った。
火村は続ける。
「重りへ絡んでいた布片もこの学校が当時採用していた男子制服と素材、織り方、染料が一致している。ロープの結び方も坂口航平の供述どおりだ」
「それは……つまり」
校長の声が掠れる。
「去年十二月、天羽祈は鉄パイプで殴られたあと、二つの重りを身体へ結ばれたうえで海へ落とされた可能性が極めて高い━━」
担任が祈を見る。
授業中に菓子を食べ、教師へ皮肉を言い、何を考えているか分からない生徒。
その身体が一度、同じ学校の生徒たちによって海へ捨てられていた。
祈の父親が最初に発したのは、息子の怪我を気遣う言葉ではなかった。
「犯人は、誰なんです……?」
火村は父親を見た。
「捜査中だ」
「息子が狙われているなら、なおさら家庭へ戻す必要がある」
「ご立派ですね」
扉の外から七緒の声がした。
会議室へ入ってくる。
祈が学校へ呼び出されたと児童相談所から連絡を受け、店の開店準備を従業員へ任せて駆けつけたのだった。
「被害者だと証明されるまでは家へ入れなかったのに、証拠が出た途端に守る必要があるんですか」
父親の表情が険しくなる。
「あなたに発言する資格はない」
「祈くんが"頼れる"大人として、同席を希望しました」
児童相談所の職員が説明する。
「本人も、和泉さんの同席を望んでいます」
全員の視線が祈へ向く。
「七緒さんでしたら問題ありません」
祈はそれだけ答え、母親の表情が歪む。
七緒は祈の隣へ座った。
「火村さん。その鉄パイプは祈くんを殺そうとした証拠になるんですよね」
「これだけで殺意まで確定はできない。だが、坂口の供述と合わせれば事件性は十分にある」
七緒は両手を膝の上で握った。
「祈くんを学校へ通わせるのが危険なら、一時的に休ませることは私も反対しません。でも、ご両親の家へ戻すこととは別です。あの家に戻す方が祈くんには危険です」
「君に私たちの何が分かる!」
「祈くんを海へ沈めた人たちは、殺そうとしたことを隠すために重りをつけた」
七緒は父親を見た。
「あなたたちは自分が捨てたことを隠すために親権を持ち出している。やっていることは違っても、祈くんの意思を邪魔な証拠として沈めようとしている点では同じです」
「一緒にするな!」
「なら、祈くん本人の言葉を聞いてください」
七緒は一歩も引かなかった。
「帰りたくないと言っています。それでも連れていくならそれは守るためではなく、従わせるためでしょう」
祈は七緒の横顔を見た。
昨日、自分の過去を知って泣いた人間。
それでも今日は泣かずに自分の前へ立っている。
顧問弁護士が咳払いをする。
「家庭の問題は児童相談所で継続して協議していただきます。本校としては、Elとの関連が否定されるまで━━」
「その資料を見せろ」
火村が遮った。
「これは校内の機密資料です」
「殺人事件に関連する可能性がある」
理事長の顔が僅かに強張る。
「天羽とElの関係を疑う資料なら、こっちにも無関係じゃない」
火村は校長の前から一部を取り上げ、時系列を読む。
やがて、通信記録のページで手が止まった。
「処刑開始の十三分前……四回とも同じ通信先?」
「専門業者の解析です」
理事長が答える。
「元の記録は」
「学校法人の端末管理サーバーにあります」
「この資料だけ妙に綺麗だな」
「どういう意味です」
「ほかは目撃証言、切り抜き動画、時刻の不明な写真だ。なのにこれだけ、四件すべて同じ端末、同じ接続先、同じ十三分前」
火村は紙を机へ置いた。
「証拠というより、誰かへ見せるために作られた答えみたいだな」
「刑事の印象で、正式な調査を否定するのですか」
「だから原本を確認する」
火村は森川へ目配せした。
森川が新しい書面を取り出す。
「端末管理サーバー、監査記録、バックアップ、解析に使ったデータ一式について、保存を要請します。破棄、上書き、更新は行わないでください」
顧問弁護士が書面を受け取った。
「任意の要請ですね」
「今はな」
火村は理事長を見る。
「消えたら、消した理由を調べる」
理事長は何も答えなかった。
祈だけが、その顔を見て僅かに微笑んでいた━━。




