第二十九話 真実は一滴の嘘で濁る
「僕の家はここだけです。それ以外にありません」
祈がそう告げても父親は帰ろうとしなかった。
手にした封筒から書類を取り出し、七緒の前へ置く。
「本人が何と言おうと、祈は未成年です。親権者である私たちには、息子を保護する義務がある」
「去年の十二月にも、その義務はあったはずです」
七緒は書類へ目を落とさなかった。
「義務というのは、世間に褒められた日だけ営業するものなんですか?」
「家庭ごとに事情があると言っているでしょう」
「ええ。冬の夜に十六歳の子供を締め出さなければならない、大人二人分の立派な事情があったんでしょうね」
父親の眉が動く。
「君のような部外者に何が分かる」
「少なくとも、祈くんが空腹のときにどんな顔をするかは分かります」
七緒は祈の前に並んだ空皿を見た。
「辛い過去があっても大丈夫だと言うことも、帰りが遅くなると食事の心配より先に謝ることも、新しい服を渡せば値段を確認することも知っています」
母親の表情が僅かに歪んだ。
自分の知らない祈をこの女は知っている。
その事実だけがどんな非難よりも母親を刺激した。
「それは、この子があなたへ気を遣っているだけでしょう」
「そうですよ」
七緒は即答した。
「家族から捨てられた子が、次の家でも捨てられないように気を遣っているんですよ」
「捨てたわけでは━━」
「鍵を替えて荷物を外へ出して、携帯も口座も止めた。日本語ではそれを他に何と呼ぶんですか?」
母親は答えられなかった。
父親が書類を指で叩く。
「感情論で親権は変わらない。私たちは正式な手続きを取る。和泉さん、これ以上息子を引き留めるなら、あなたによる未成年者の囲い込みも問題にする」
七緒の顔から血の気が引いた。
祈を守るために家へ入れた。
だが、七緒は祈の親権者ではない。
児童相談所とのやり取りも、正式な里親委託ではなく、祈の生活が落ち着くまでの暫定的なものだった。
その弱い部分だけを、父親は正確に突いている。
「七緒さん」
祈が呼んだ。
「大丈夫です」
「でも……」
「親権は王冠に似ております。凡愚ほど被っているだけで高貴になったと錯覚できる」
祈は父親の書類を見た。
「もっとも、イギリスでは首と一緒に失った例もありますが」
「脅しているのか」
「歴史の授業です。僕は現代社会を一点落としましたので世界史で補おうかと」
祈の声は穏やかだった。
しかし父親は、工場の男たちが向けられたものと同じ底知れない感覚を一瞬だけ覚えた。
目の前にいるのは自分が怒鳴れば黙った息子ではない。
言葉の意味を確かめようと祈の瞳を見た途端、暗い海の底へ覗き返されたような錯覚が背筋を這い上がる。
父親は視線を逸らし、スマートフォンを取り出した。
「話にならない。警察を呼ぶ」
「どうぞ」
七緒が答えた。
「私も、去年あなたたちが祈くんを引き取らなかった記録を改めて確認してもらいます」
「勝手にしろ」
父親が通報した。
母親は祈の向かいへ座り、声だけを優しく戻す。
「祈。お母さんたちはあなたを心配しているのよ」
「それは重症ですね」
「何が?」
「半年も遅れて症状が現れるとは。心療内科の他に脳神経外科も受診なさった方がよろしいかと」
「どうして、どうしてそんなひどいことを言うの……」
「あの日『産まなければ良かった』と捨て台詞を吐いた人間がそれを言うと笑えますね。事実の発音がお気に召しませんでしたか」
祈は水を一口飲んだ。
「では、より上品に申し上げます。上辺だけの家族愛には賞味期限があるようですので、世間の関心が薄れる前にお持ち帰りください」
母親の目に涙が浮かんだ。
七緒は同情しなかった。
祈が警察署の椅子で両親の背中を見送った日、この人は一滴も泣かなかった。
自分が拒絶されたときだけ流れる涙を母性愛とは呼べなかった。
* * *
十五分後、《ミモザ》へ到着したのは近隣の交番勤務員二人と、通報者の名前を聞いて途中から合流した火村だった。
火村は両親の顔を見た瞬間、露骨に嫌そうな息を吐いた。
「何であんたたちが、またこの店にいるんだ」
「息子を迎えに来ただけです」
父親が封筒を差し出す。
「親権者の同意なく他人の家で生活させている。本人は、この女性から何らかの影響を受けて正常な判断ができていない可能性もあります」
七緒が反論しようとする。
火村は片手を上げ、先に祈へ尋ねた。
「天羽。両親の家へ戻る意思はあるか」
「まったく」
「和泉七緒に、そう言うよう強制されたか」
「食事量については日々強制を受けております」
「祈くん」
「冗談です」
祈は七緒を見た。
「これは僕自身の意思です」
火村は父親へ向き直った。
「聞いたとおりだ」
「こ、子供の意思だけで決められることではないっ!」
「だから今夜、警察があんたへ息子を引き渡すとも決められない」
「私たちは親権者だぞ」
「去年十二月に引き取りを拒否した記録が残っている。未成年者を住居も金もない状態で締め出した経緯も確認中だ」
火村の声が低くなる。
「保護する環境が適切で本人が安全に暮らせるか、児童相談所を交えて判断する。それまでは少なくとも今夜この場から無理に連れていくな」
「家庭へ警察が介入するのか」
「家庭から子供を外へ放り捨てたのは、あんたたちが先だろ」
父親は火村を睨んだ。
「あなたの所属と名前を教えてもらおう」
「火村だ。漢字は火事の火に村八分の村。目安箱に書くなら間違えるなよ」
「覚えておく」
「俺は忘れたいがな」
母親が祈の鞄へ手を伸ばす。
「せめて今夜だけでも帰りましょう。着替えも部屋も用意してあるから」
「僕の部屋は半年以上前に物置へ改装されたと伺いました」
母親の手が止まった。
「片づけたのよ。いつ帰ってきてもいいように」
「帰ってこないと思って処分したのでは?」
「それは……」
「ご安心ください。僕も同じ判断をしておりますので」
祈は母親の目を見る。
「他人の家には帰りません」
母親の顔から、最後の笑みが消えた。
父親は封筒を乱暴に鞄へ戻した。
「後悔するぞ」
「後悔とは、いつも手遅れになってから現れるそうですね」
祈は空皿へ視線を落とした。
「僕よりあなた達の方がお詳しいかと」
二人はそれ以上何も言わず、店を出ていった。
自動ドアが閉じる。
七緒は祈の肩へ触れようとして手を止めた。
慰めてよいのか分からなかった。
「祈くん」
「はい」
「ここにいていいからね」
「先ほども申し上げました」
祈は七緒を見上げる。
「僕は既に帰宅しております」
「……うん」
七緒は泣きそうな顔で笑った。
「じゃあ、おかえり」
「ただいま戻りました」
祈は僅かに頭を下げた。
「ところで、お祝いの続きをしてもよろしいでしょうか」
「まだ食べるの?」
「ああいった問題は消耗が激しいもので」
「その言い方、本当に疲れてる人はしないのよ」
「では、食欲で表現いたします」
「いつもどおりじゃない」
七緒は目元を拭い、厨房へ向かった。
火村はその背中を見送ったあと、祈の向かいへ座る。
「天羽、明日の朝なんだが時間を空けられるか」
「学校があります」
「登校前でいい」
「朝食の時間を侵害するほど重要なご用件ですか」
「……海から二つ目が見つかりそうだ」
祈の目が、ほんの僅かに細くなった。
「釣果が改善したようですね」
「まだ上げてない」
「では、逃げられないようお気をつけください」
「悪いが、重りに足はない」
「人間にも良心がない方はいらっしゃいます。世の中とは意外性に満ちていますので」
火村は祈の表情を観察した。
知っているのか、それとも何も知らないのか。
相変わらず、どちらとも判断できなかった━━。
* * *
翌朝、海は穏やかだった。
昨日までの強風が嘘のように止み、灰色の水面には捜索船の影が長く伸びている。
水中カメラが捉えた二つ目の重りは坂口航平が示した投棄地点から北へ二百八十メートル離れた斜面で見つかった。
潮の流れから考えれば明らかに不自然な位置だった。
だが火村は、重りが自分で移動したとは報告書に書けなかった。
午前六時二十三分。
潜水士が取り付けたワイヤーによって、鉄製の錘が甲板へ引き上げられる。
前回見つかったものと同じ規格、製造番号も盗まれた二個目と一致した。
重りには白く濁ったナイロンロープが二重に巻かれている。
その結び目に黒い布の切れ端が挟まっていた。
「学生服に見えますね」
森川が番号札を置く。
「見た目で決めるな」
「前にも言われました」
「オジサンってのはくどい生き物なんだよ」
重りの隣には錆びた鉄パイプが置かれた。
全長およそ六十センチ。
片側にはゴム製のグリップが残り、もう一方の接合部には海水が入り込みにくい僅かな隙間がある。
鑑識員が慎重に付着物を採取した。
「接合部の内側に、赤黒いものがあります」
「血液か?」
「可能性はあります。海へ入る前に付着し、内部へ入り込んだなら残っているかもしれません」
森川が息を吐く。
「坂口の供述どおりですね」
「まだだ」
「でも重りが二つ。ロープ、制服らしい繊維、それに凶器まで出てきた」
「誰の血か、誰が使ったか、何のために沈めたか。鑑定が出るまで鉄くずの集まりだ」
火村は言いながら、海面へ目を向けた。
坂口の供述は具体的だった。
河川敷で祈へ薬物を飲ませた。
動けなくなった身体を四人で殴った。
呼吸を確認し、動かないことを確かめた。
車で海岸まで運び、二つの重りをロープで身体へ結びつけた。
そして、防波堤から海へ落とした。
重りもロープも鉄パイプも見つかったが、供述の中で発見されていないものは天羽祈の死体だけだった。
「火村さん」
森川が海を見たまま言う。
「もし、天羽が被害者なら……今学校へ通っている彼は一体何なんでしょう」
「人間だ」
「即答するんですね」
「人間として戸籍があり、学校へ通い、ジャ◯プの主人公みたいに馬鹿みたいな量の飯を食ってる。今はそれで扱うしかない」
「Elかもしれなくても?」
「被害者であることと、殺人者であることは両立する」
火村は甲板の重りを見下ろした。
「片方を理由に、もう片方を見ないことはできん」
* * *
午前七時四十分。
祈は《ミモザ》の一番奥の席で火村から差し出された綿棒を見ていた。
「口の中を擦るだけだ」
「朝食前でなければ、食品サンプルも混入したでしょうに」
「混ぜるな。任意だから嫌なら断っていいんだぞ」
「構いません」
祈は綿棒を受け取り、自分の頬の内側を擦った。
森川が証拠用の容器へ封入する。
カウンターの向こうでは七緒が朝食の準備をしながら二人の会話を聞いていた。
「海から見つかった血と照合するんですか」
祈が尋ねる。
「まだ血液と決まったわけじゃない」
「一致したら?」
「お前が鉄パイプで殴られ、その重りと一緒に海へ沈められたという坂口の供述を裏づける証拠になる」
それを聞いた瞬間、七緒の手から滑った白い陶器が厨房の床で割れる。
「七緒さん」
祈が立ち上がろうとする。
「……大丈夫」
七緒は顔は青ざめていた。
「今、何て……?」
火村が黙る。
七緒はカウンターから出てきた。
「祈くんが鉄パイプで殴られて、海へ沈められたって言いました……?」
「捜査中だ。詳しくは━━」
「本人がここにいるのに……?」
七緒は祈を見る。
傷一つない顔。
いつもどおり静かな瞳。
「祈くん。まさか、知ってたの?」
「記憶にはあります」
「どうして……どうして話してくれなかったの?」
「お話ししても、食事が増えるわけではありませんので」
「今は、そういう冗談を聞いてるんじゃない!」
七緒の声が震えた。
祈は黙った。
「……痛かった?」
問いかけられ、祈の中で人間だった少年の記憶が開く。
鉄パイプが脚の骨へ当たる音。
動かない身体。
口の中に広がった血。
夜の海へ落ちる直前、一ノ瀬が葵の名前を口にしたこと。
そして冷たい水が肺へ入り、意識が暗闇へ沈むまでの時間━━。
「当時の僕は、そのように感じたでしょう」
「当時の僕って……」
「現在は問題ありません」
「問題あるよ……!」
七緒は祈の肩を両手でつかんだ。
「今ここにいるからって、されたことがなくなるわけじゃないでしょう?」
祈は、自分の肩に置かれた手を見た。
母親のように引っ張る手ではない。
自分がここにいることを確かめるための手だった。
「犯人は誰?」
「七緒さん……」
「もしかしてその子たち、学校にいるの?」
祈は答えなかった。
七緒の目に涙が浮かぶ。
「そんな人たちと同じ学校へ、毎日通ってたの……?」
「昼食もございますので」
「食事の話に逃げないで」
祈は数秒、七緒を見つめた。
火村も森川も口を挟まなかった。
「七緒さん」
「何?」
「申し訳ありません」
その一言で、七緒の涙が零れた。
「謝らないでよ……」
「では、何と申し上げれば」
「何も言わなくていい……っ……」
七緒は祈を抱き締めた。
祈の身体が僅かに固まるが、振りほどくことはなかった。
七緒の背中へ手を回すこともしなかったが、ただその場に立ち、彼女が泣き止むのを待った。
火村は目を逸らし、森川へ小声で言う。
「外へ出るぞ」
「でも、聴取が」
「朝飯を食ってからでいい」
「珍しく優しいですね」
「黙らないと、お前を海へ投げるぞ」
「警察官が殺害予告しないでください」
二人は店の外へ出た。
自動ドア越しに七緒が祈のために用意していた朝食が見える。
山盛りの白米。
焼き魚。
卵焼き。
それは祈が今日もここへ帰ってくると信じて用意された食事だった━━。
* * *
昼休み。
三年生は既に自由登校期間へ入っていたが、一ノ瀬は生徒会の引き継ぎを名目に毎日学校へ来ていた。
だが本当の目的は祈の動きを見張り、葵の心が自分からどこまで離れ始めているのか確かめることだった。
その日も一ノ瀬は校舎裏で葵を待っていた。
葵が現れると以前のように距離を詰めることも肩へ触れることもせず、静かに頭を下げた。
「昨日はごめん」
葵は驚いたように立ち止まった。
「何がですか」
「祈のことを調べるなって言ったこと。浮気みたいに責めたことも」
一ノ瀬は以前のように葵の肩へ触れなかった。
「俺が間違ってた。葵が納得するまで調べればいいと思う」
「……急に、どうしたんですか」
「父さんにも言われた。心配だからって葵の行動を縛ったら、守ってることにはならないって」
実際に父親が言ったのは正反対だった。
葵を自由にさせたように見せろ。
禁止すれば祈を信じることが反抗の証明になる。
自分から調べさせ、本人の手で疑いへ辿り着かせろ。
「一ノ瀬先輩……」
「ただ、無理だけはしないでほしい。何か怖いことがあったら俺に話して」
「はい……」
「それだけ」
一ノ瀬は微笑み、先に校舎へ戻った。
追いすがることも、祈を悪く言うこともなかった。
葵はその背中を見送った。
謝罪を疑う理由はないはずだった。
それでも胸の奥に、小さな違和感が残った━━。
* * *
午後五時。
結城家の運転手が珍しく校門前へ迎えに来ていた。
黒いセダンの後部座席へ乗ると葵のスマートフォンへ父親からメッセージが届く。
『学校法人から、天羽祈くんについて資料が届いた』
『お前の安全に関わる可能性がある』
『帰宅後、必ず確認しなさい』
父親が学校生活へ口を出すことは珍しかった。
仕事の多くを東京で行い、家へ戻るのは週に一度ほどで学校行事へもほとんど姿を見せない。
その父親が安全という言葉を使っている。
「何だろう……」
葵は添付されたファイルを開いた。
表紙には、学校法人の紋章と赤い文字がある。
〈取扱注意・関係者外秘〉
〈El関連事件における本校生徒の行動照合〉
その下に、祈の学生証の写真が表示されていた。
葵の指が止まる。
一ページ目には、作成目的が記されている。
『本資料は天羽祈本人をEl、またはその関係者と断定するものではない』
『ただし、複数の事件前後に確認された行動の一致から、生徒および関係者の安全確保を目的として情報を整理した』
断定はしていない。
疑えとも書いていない。
だからこそ、悪意ある文書には見えなかった。
次のページには、時系列が並んでいる。
鷺沢怜央の処刑当日。
祈は《ミモザ》で鷺沢へ普段は切らないはずのステーキを〈カットステーキ〉として提供した。
その数時間後Elは鷺沢の身体を刃物で切断し、同じ言葉を口にした。
処刑開始前、《ミモザ》裏口の防犯カメラは三秒間だけ映像が欠落している。
久世蓮司の事件。
祈は講演会の時点で公開されていなかった白石美月の名前を出し、久世へ過去を認めるよう求めた。
その夜、Elは同じ問いを久世へ繰り返した。
黒瀬莉愛の事件。
祈は予定されていた冤罪の瞬間へ偶然居合わせ、被害者役の女性が過去にも出演していた事実を事前に把握していた。
黒瀬の死後、祈の姿は地下駐車場のカメラから確認できなくなっている。
大槻宗一の事件。
祈は東央重工業の大槻と接触。
その夜、Elは大槻を処刑した。
公開された映像の一部には、《ミモザ》で使われているものと類似した弁当容器も確認される。
どれも葵が知っている事実だった。
テレビで見た。
学校で聞いた。
祈本人の反応も見ている。
だが大槻の所へ行ったことだけは知らなかった。
しかし資料には、黒い車から望遠で撮影された祈の写真が添えられていた。
画面中央だけが何故か焼けたように乱れている。
それでも制服と横顔は祈だと判別できた。
葵は次のページへ進んだ。
そこには、学校から生徒へ貸与された端末の管理記録が載っている。
〈使用者 天羽祈〉
〈端末番号 A2―03―117〉
それは祈が復学後、授業で使っているタブレットだった。
管理記録によればその端末は過去四件の処刑開始十三分前、毎回同じ接続先へ一秒未満の暗号化通信を行っている。
接続先の所有者は不明。
通常の検索や動画、メッセージアプリには使われない通信形式。
そしてElの配信サーバーが起動した時刻と、四回すべて一致していた。
「……嘘」
葵は小さく呟いた。
ページには通信記録を確認した外部専門業者の署名と照合した値が並んでいる。
意味までは分からない。
だが誰かが適当に作った噂には見えなかった。
何より、それ以外の記録がすべて事実だった。
鷺沢の前で祈が口にした言葉。
久世へ向けた質問。
黒瀬の被害者役を一目で見抜いたこと。
十三円という言葉に一瞬だけ反応したこと。
どんなに走っても全く息を切らさない身体。
半年以上休んだあと、全科目でほぼ満点を取った知識。
そして、以前とは違う瞳━━。
祈が戻ってからElは現れた。
偶然だと思っていたものが資料の中で一本の線へ変わっていく。
最後のページには、結論ではなく注意事項が記されていた。
『現時点で、天羽祈とElの関係を断定する証拠はない』
『しかし四件すべてを偶然として除外することも、同様に困難である』
『結城葵さんは過去の盗撮事案における当事者であり、天羽祈本人へ直接確認することは推奨しない』
『本人または関係者から接触があった場合、学校および保護者へ連絡すること』
その下に、手書きで取り込まれた一文があった。
〈半年前、あなたは証拠を見て彼を疑った〉
〈今度は彼を信じるために、証拠を見なかったことにしますか?〉
葵は画面を閉じたがすぐに、もう一度開いた。
祈を疑いたくない。
だが、疑いたくないという気持ちだけで記録から目を逸らせば半年前と同じではないのか。
あのときは、恐怖から祈を犯人だと決めた。
今度は罪悪感から祈は無関係だと決めるのか。
どちらも、自分が安心できる答えを選んでいるだけではないのか。
スマートフォンが震え、確認すると一ノ瀬からのメッセージだった。
『昨日は本当にごめん』
『もう祈を調べるなとは言わない』
『ただ、何か怖いことがあったら俺に話してほしい』
資料のことには一言も触れていない。
祈を疑えとも書かれていない。
葵は返信欄へ指を置いた。
『一ノ瀬先輩』
そこまで入力し、止まる。
何を尋ねればよいのか分からなかった。
車の窓には自分の顔が映っている。
それは半年前と同じ、祈を恐れる顔だった。
* * *
同時刻。
理事長室の大型モニターに小さな通知が表示された。
━━結城葵・資料閲覧完了。
真の父親は、グラスへウイスキーを注いだ。
「信じると思うか」
真は葵へ送ったメッセージの画面を伏せた。
「すぐには」
「では、意味がない」
「いいえ」
真は首を横へ振った。
「葵は一度、証拠を見て祈を疑ったことを後悔しています。だから次は、どれほど祈を信じたくても証拠を無視できない」
父親がモニターへ目を向ける。
資料に並んだ記録のうち、完全に捏造されたものは一つだけだった。
学校支給端末の通信履歴。
管理者権限を持つ学校法人なら管理サーバーから出力した記録へ存在しなかった通信を紛れ込ませられる。
専門業者の署名も理事長と長く取引のある会社が用意したものだった。
しかし、それ以外はすべて事実である。
「嘘は一つだけです」
真は静かに言った。
「周囲をすべて事実で囲めば、その一つだけを疑う方が不自然になります」
父親は息子を見た。
祈を河川敷へ呼び出し、感情のまま殴り殺した少年とは違う。
相手の罪悪感も正しさも、成長さえも利用し自分で選んだと思わせながら望む場所へ誘導する。
ようやく、一ノ瀬家の人間らしい方法を覚え始めていた。
「葵さんが、天羽から離れなかったら?」
「離れさせる必要はありません。祈を見るたび、Elかもしれないと思わせればいい。それだけで人間は以前と同じ目で相手を見られなくなります」
父親の口元に僅かな笑みが浮かんだ。
「ようやく、私の息子らしくなったな」
真も笑った。
その夜、葵は半年ぶりに祈を信じることが怖くなった━━。




