第二十八話 肉親の手のひら返し 後編
放課後。
一ノ瀬真は父親から理事長室へ呼び出された。
窓のブラインドは閉じられ、机の上には海岸周辺の地図が広げられている。
赤い印が二つ。
一つは、警察が最初の重りを発見した海域。
もう一つは坂口航平が供述した二つ目の投棄地点だった。
「座れ」
父親の声にいつもの学校向けの穏やかさはなかった。
一ノ瀬は革張りの椅子へ腰を下ろす。
「坂口という生徒が、警察に何を話した」
「僕には分かりません」
「嘘をつくな」
机の上へ一枚の写真が投げられた。
海から引き上げられた鉄製の重り。
錆びた本体には、白く濁ったロープが残っている。
「これは、お前たちが使ったものか」
一ノ瀬は写真を見たまま答えなかった。
「真」
「……事故だったんです」
「何がだ」
「祈を河川敷へ呼び出して、少し揉めた。あいつが逃げて、海へ落ちた」
「事故で落ちた人間へ、どうして工事用の重りが二つ必要になる?」
一ノ瀬の呼吸が止まった。
父親は二つ目の存在まで知っている━━。
「坂口が、そう言ったんですか」
「質問しているのは私だ」
「僕は……葵を守りたかった」
「理由を聞いているのではない。何をしたのか聞いている」
一ノ瀬は唇を噛んだ。
「殴りました」
「誰が」
「全員で」
「そのあと」
「動かなくなったから……海へ」
理事長室から音が消えた。
一ノ瀬は父親の怒声を待った。
人殺しと呼ばれることも、殴られることも覚悟した。
だが父親が最初に口にしたのは、まったく別の言葉だった。
「なぜ、もっと早く私に相談しなかった」
一ノ瀬が顔を上げる。
「……え?」
「殺してすぐなら記録も人間関係も整理できた。今になって共犯者が勝手に出頭し、警察に証拠を拾われてから知らされて私に何をしろという」
「父さん……」
「お前が捕まれば学校も法人も終わる。私が築いたものをお前一人の浅はかな感情で潰すつもりか」
父親が守ろうとしているのは息子の良心でも未来でもなかった。
理事長の地位。
学校法人の評判。
一ノ瀬という名字。
一ノ瀬真という息子もまた、守るべき家名を構成する所有物の一つだった。
殺人を告白したのに父親が責めたのは人を殺したことではなく、相談が遅れたことだった。
真の胸には恐怖とは別の安堵が広がった。
父親は自分を見捨てる側ではない、自分と同じく邪魔な事実を消す側の人間だった。
「祈は生きています」
真は縋るように言った。
「だから殺人にはならない」
「問題はそこではない」
「では何が問題なんですか」
「なぜ、死んだはずの人間が生きている」
答えられない問いだった。
父親は机の引き出しから別の資料を出した。
祈が中央駅で映った写真。
《ミモザ》の駐車場。
東央重工業の工場へ入る祈の後ろ姿。
そして、画像の中央だけが黒く焼けたように潰れた一枚。
「あの"久我"が調査から手を引いた」
「どうして」
「天羽祈へ近づくな、とだけ言い残した」
真の背中が冷たくなる。
「なら、放っておけば……」
「放っておいて、お前の共犯者が次々に警察へ行くのを待つのか?」
父親は地図の二つ目の印を指で叩いた。
「今夜、こちらで重りを回収する」
「警察より先に?」
「二つ目が見つからなければ坂口の供述は一つ目以上へ進まない」
「でも、Elが……」
その名を口にした瞬間、父親の指が止まる。
「ほう、天羽がElだと言いたいのか」
「分かりません。でも、祈が戻ってから全部おかしくなった」
「神だろうと化け物だろうと、戸籍上はただの未成年だ」
父親は冷たく言った。
「親の同意が必要な場所へ戻せば、動きを制限できる」
「祈の両親を使うんですか」
「既に話はつけた。息子を悪い影響から守るため、一度家庭へ戻したいそうだ」
真は祈の母親の顔を思い出した。
盗撮事件の際、祈を見ようともせず犯罪者と呼んだ人間。
その両親が今になって祈を取り戻そうとしている。
「祈が戻ると思いますか」
「戻るんじゃない、戻らせるんだ」
父親は地図を折り畳んだ。
「警察より先に海を片づけ、天羽祈を《ミモザ》から引き離す。お前は余計なことをせず葵さんとの関係を修復しろ」
「葵を、もう一度こちら側へ戻すんですね」
「彼女は盗撮事件の被害者だ。発言一つで天羽を再び加害者へ戻せる」
真は僅かに目を細めた。
「葵が、祈は無実かもしれないと言い始めています」
「だから放っておくなと言っている」
父親は机の上で両手を組んだ。
「それに、結城家はただの被害者家族ではない。県内の教育委員会や警察で終わる家ではなく、必要なら中央まで話を通せる」
具体的な名前は口にしなかった。
それでも真には意味が分かった。
葵の父親が電話を一本かければ学校法人だけでは面会すらできない人間が動く。
その人脈を一ノ瀬家へ繋ぎ止めることも父親が二人の交際を歓迎した理由だった。
「いいか? 結城家との縁を切るな。今回の件を抑えるためにも、卒業後のお前の立場にも必要だ」
一ノ瀬学園は高校だけでなく、系列大学まで運営する学校法人である。
真は既に経営学部への内部進学が決まり、卒業後は大学へ通いながら法人運営を学ぶ予定になっている。
将来父親の地位を継ぐことも、本人の意思を確認されるより先に決められていた。
結城家との縁は恋愛や結婚だけの問題ではない。
中央へ届く人脈を次期理事長となる息子へ引き継がせるための経営資源でもあった。
「分かりました。葵を僕の側へ戻します」
真は迷わず答えた。
「できるのか」
「祈を信じかけているだけです。証拠をもう一つ見せれば、また疑います」
葵が最も恐れていたのは、自分の身体を撮影した人間が身近にいたことだった。
その恐怖を呼び戻せばいい。
祈を調べることが自分だけでなく家族まで危険に晒すと教えれば、葵は立ち止まる。
以前と同じように、真だけが安全な場所だと思わせればいい。
「盗撮事件の被害者である葵が祈を危険だと訴える。結城家が娘を守るために動けば、警察も学校も無視できません」
父親の口元に、初めて僅かな笑みが浮かんだ。
「ようやく話が通じたな」
真は頷いた。
葵を守りたいという言葉は嘘ではない。
ただし、真にとっての「守る」とは自分の隣から逃げられないように囲うことだった。
葵の意思も恐怖も家族の力も、そのために使えるなら利用すればいい。
祈を海へ沈めた夜と同じだった。
自分が葵を手に入れるためなら、誰が傷ついても理由はあとから作ればいい。
会話はそこで終わった。
真は理事長室を出た。
廊下の窓から、校門へ向かう祈の姿が見える。
大きな鞄を肩へかけて片手にはスーパーの広告を持っていた。
世界中が祈を追い、警察が過去を掘り、父親が裏から動き始めている。
だがその中心にいる少年だけが、夕食の特売品を確認しながら平然とした顔でぷらぷらと歩いていた━━。
* * *
午後八時三十一分。
港湾設備の点検業者を装った三人の男が小型作業船で沖へ出た。
依頼主の名前は知らされていない。
指定された海域で鉄製の重りを見つけ、付着しているロープごと回収する。
報酬は一人五十万円。
船長は海底調査を二十年以上続けてきた男だった。
事故船の捜索も、密輸品の引き揚げも経験している。
警察へ届け出られない荷物を夜の海から拾う仕事も初めてではなかった。
「水深十八。潮は少し速いが問題ない」
船上から水中カメラを降ろす。
画面にはライトで照らされた砂地と岩が映った。
海藻が揺れて魚が白い光を避けて逃げていく。
坂口の供述から割り出した座標に近づくと岩の間に直方体が見えた。
「あったぞ」
最初に見つかったものと同じ規格のおもり。
側面にはロープが絡み、その先に錆びた鉄パイプの一部が挟まっている。
「一緒に上げるぞ。証拠になりそうなものは全部だ」
船長がアームを操作した。
カメラが重りへ近づく。
だがその時、画面の奥に何かが立っていた。
人間のように見えた。
海底へ両足をつけ、黒い制服を着た細い少年。
酸素ボンベもマスクも無く、髪も衣服も潮に揺れずに陸上にいるのと同じ姿でカメラを見ている。
「な、何だ……?」
船長は無意識に画面へ顔を近づけた。
水中カメラから対象までは十五メートル以上ある。
レンズは黒い筐体の奥へ埋め込まれ、照明の真下に隠されている。
海中にいる人間が、あの距離からカメラの位置を正確に見抜けるはずがない。
それでも、少年の目は画面越しに船長の目と合っていた。
「おい、どうした」
隣の男が画面を覗き込む。
「ひ、人が……」
「どこに?」
画面には重りしか映っていなかった。
少年は消えている。
「疲れてるんじゃないか」
「違う。確かにいた、いたんだ……」
船長の手が震えていた。
沈没船の中で遺体を見つけたときにもここまで恐怖を感じたことはない。
あれは死者ではなかった……だが生きた人間でもない。
人間という形だけを借り、海底からこちら側を観察しているナニカだった。
「は、早く上げて帰ろう」
アームが重りの取っ手にかかる。
巻き上げ機が動き、鋼線が張った。
一メートル。
二メートル。
重りが砂地を離れた瞬間、画面の端から白い手が伸びた。
その指が重りへ軽く触れたその瞬間に鋼線が切れた。
耐荷重二トンのワイヤーが糸のように弾け飛ぶ。
巻き上げ機から外れた端が甲板を叩き、男たちが悲鳴を上げて身を伏せた。
水中カメラの映像へ激しいノイズが走る。
その最後に映ったのは海底へ沈み直す重りではなかった。
こちらへ顔を近づける少年。
暗い瞳の奥に海よりも深い何かが開いていた。
船長は操作盤から手を離した。
「戻るぞ」
「まだ回収してない!」
「報酬はいらんっ!」
エンジンを始動する。
「あれは……人が決して、触っていいものじゃない……!」
作業船は予定より一時間早く港へ引き返した。
後日、男たちは誰一人として海底で見た少年の話を警察へしなかった。
ただ、水中カメラの記録媒体だけがすべて黒く焼きついていた━━。
* * *
同じ時刻。
祈は《ミモザ》のバックヤードで賄いのハンバーグを食べていた。
スマートフォンの非公開画面には、海底の重りと逃げていく作業船の航跡が表示されている。
重りへ結ばれたロープ、制服の黒い繊維、そして岩に挟まった鉄パイプ。
海水に晒されていても、金属の接合部には乾燥した状態で付着した血液がごく僅かに残っていた。
現在の技術で鑑定すれば天羽祈のDNAと一致する可能性が高い。
理事長が雇った人間は、警察より先に証拠を消そうとした。
「海水は血を洗えても、事実まで洗い流してはくれません」
祈はハンバーグを一口食べた。
「塩分に期待なさったようですが、血圧しか上がりませんでしたね」
画面の中で重りが海底の斜面をゆっくりと滑り始める。
人間の手ではない力に押され、翌朝警察が捜索を再開する海域へ向かっていく。
祈は自分を殺した者たちを今すぐ出品することも処刑することもできる。
だが、まだ購入条件は成立していない。
一ノ瀬真たちを出品した被害者はいない。
人間だった天羽祈は死んでいる。
死者は《エルカリ》へ商品を出品できない。
そして現在の祈は彼らを憎んでさえいなかった。
だから、海底の証拠が誰の手へ届くのかを眺めているだけだった。
「祈くん」
七緒がバックヤードへ顔を出す。
「何を見てるの?」
「八景島シーパラダイスのイルカショー、海洋生物の映像です」
「そんなこと言って、また変な動画じゃないでしょうね」
「人間も分類上は動物ですので、判断が難しいところです」
「食べ終わったら客席を手伝って」
「承知しました」
祈は画面を閉じた。
海底では二つ目の重りが、夜の潮へ逆らって移動を続けていた。
* * *
午後九時十五分。
《ミモザ》の客が途切れた頃、七緒は厨房から大皿を二つ運んできた。
一皿にはオムライス。
もう一皿には唐揚げ、海老フライ、ハンバーグが山のように盛られている。
そのあとにもパスタとグラタンが続いた。
「七緒さん」
「何?」
「本日の廃棄予定でしょうか」
「お祝いよ」
「何の?」
「学年一位」
七緒は自分のことのように笑った。
「すごいじゃない、祈くん。六百九十九点なんて」
「学校から連絡が?」
「担任の先生から電話があったの。成績は素晴らしいけど答案へ余計なことを書いたり、試験中に食べたりしないよう注意してくださいって」
「賞賛と告げ口が同じ文章に同居しておりますね」
「それは祈くんが悪いでしょう」
七緒は大きなスプーンを祈へ渡した。
「今日は特別。好きなだけ食べていいから」
「一位になると食事量が増える制度でしょうか」
「今日はお祝いだから」
「では、毎回一位を確実に維持します」
「そういう目的でも勉強してくれるならいいよ。まぁ、勉強してるところなんか一回も見たことないけど━━」
祈はオムライスへスプーンを入れた。
七緒が喜ぶのであれば次回も一点くらい残して一位を取ればいい。
人間の試験に初めて意味が生まれた。
「プリンもありますか」
「おやつ禁止中です」
「本日はお祝いでは?」
「食事とおやつは別っ」
「宴席における恩赦は、文明国の慣例かと」
「このお家にはありません」
「独裁国家……プーさんかな」
祈が二皿目へ手を伸ばしたとき、自動ドアが開いた。
「申し訳ありません。本日のラストオーダーは━━」
七緒は入口を見て、言葉を止めた。
五十代の男女が並んで立っている。
祈の父親と母親だった。
「……あなたたち」
七緒は二人の顔を鮮明に覚えていた。
二か月程前、警察署で一度だけ会った男女。
行く場所のない祈を前にしながら、ゴミを見るような目で引き取りを拒否して帰った父親と母親だった。
母親は店内を見回し、窓際の席にいる祈を見つける。
その顔は安堵したように微笑んだ。
それはまるで、昨日までずっと息子を捜していた母親の顔だった。
「祈……」
名前を呼ばれても祈のスプーンは止まらなかった。
母親が近づいてくる。
「やっと会えた。電話にも出ないから、心配したのよ」
「着信を拒否しておりますので、正常な動作です」
「そ、そんな言い方……」
母親は傷ついた顔を作った。
父親が一歩前へ出る。
「いつまで意地を張っている。話をしに来たんだ」
七緒が祈と二人の間へ入った。
「閉店時間です。お話なら祈くんが望んでいるか確認してからにしてください」
「お久しぶりです、和泉さん」
母親の視線が七緒の顔からエプロン、祈の前に並ぶ料理へ移る。
「あのときは、祈を警察へ連れてきていただいてありがとうございました」
「覚えていらしたんですね。祈くんの顔も碌に見ずに帰られたので、私のことも忘れたのかと思いました」
母親の笑みが僅かに引きつる。
「その節は世話になった」
父親が会話を遮った。
「だが、もう十分でしょう。これ以上家庭の問題に他人が関わる必要はない」
父親が低い声で言った。
「半年以上この子を放っておいた人たちが、今になって家庭を持ち出すんですか━━?」
「祈は私たちの息子です」
「その息子を家に入れなかったのは、あなたたちでしょう」
「誤解があったんです」
母親が祈へ手を伸ばした。
「でも、もういいの。お父さんもお母さんも祈を許すことにしたから」
祈はようやく顔を上げた。
「何をでしょう」
「学校でのことも、家を出たあとのことも……全部よ。もう怒っていないから、一緒に帰りましょう」
「祈くんは、ここで暮らしています」
七緒が言う。
母親は、祈を庇うように立つ七緒を見た。
祈の前に並ぶ料理。
七緒へ向ける、ほかの人間とは僅かに異なる祈の目。
警察署で会ったときには気にも留めなかった女が今では自分の知らない息子の居場所になっている。
「随分、祈のことを分かったように話すのね」
「毎日一緒に暮らしていますから」
「まだ半年も経っていないでしょう。私はこの子を十六年育てたのよ」
「その十六年の最後に、祈くんを夏の路上へ放り出したのは誰ですか?」
七緒は祈の前から退かなかった。
「私が初めて会った朝、祈くんがどんな状態だったか知っていますか」
「その話は警察から━━」
「冬なのに薄い服しか着ていなくて、靴もまともに履けていなかった。食べ物を渡したら全部食べて、それでも足りないのにもう一つ欲しいとも言えなかったんです……!」
母親は口を閉ざした。
「警察署であなたたちが引き取りを断ったあとも祈くんは泣きませんでした、怒りもしなかった。自分が捨てられるのは当然だと思っているみたいに、何度も私へ謝ってきたんですよ」
七緒の声が僅かに震える。
あの日の祈は助けを求めることすら諦めていた。
食事を出せば、食べてよい量を確かめるように七緒を見る。
新しい服を渡せばいつ返せばよいのか尋ねる。
帰宅が少し遅れただけでも追い出さないでほしいとは言わず、迷惑をかけて申し訳ないと頭を下げた。
「祈君を引き取ってから二か月近く、私は毎日彼に食事を作りました。学校へ戻る朝は送り出して帰りが遅ければ心配して、帰ってきたらここにいていいと伝えてきた」
七緒は両親をまっすぐ見た。
「その間、あなたたちは祈くんのために何をしたんですか」
父親は一瞬だけ言葉に詰まった。
「必要ならば、これまでにかかった費用は支払う」
「清算が必要なのは食費ではありません」
七緒の声が低くなる。
「あなたたちが祈くんから奪った半年です。お金で買い戻せると思うなら、捨てる前に値段を計算しておけばよかった話ですよ」
母親の顔から、形だけの笑みが消えた。
「私の息子に、母親のような顔をしないで」
「そのつもりはありません。私は祈くんの母親の代わりではなく、和泉七緒です」
七緒は一歩も引かなかった。
「祈くんがそう呼んでくれる人間で、それで十分です」
「祈は私たちの子供よ!」
「なら、親という言葉を盾にする前に親として何をしたのか嘘発見器にでもかけて答えてください」
七緒は祈の隣へ立った。
「祈くんはあなたたちの代わりとして私を選んだんじゃありません。あなたが閉めた扉の代わりに私が開けた。そのあとで、祈くん自身がここを家だと決めたんです」
「未成年を他人の家へ置いたままにはできません」
父親は書類の入った封筒を取り出した。
「親権者は私たちです。学校にも、明日から自宅へ戻すと連絡しました」
「本人の意思は?」
「家族の問題です」
七緒の手が強く握られる。
祈は三皿目の料理を食べ終え、ナプキンで口元を拭いた。
「祈」
母親がもう一度、優しい声で呼ぶ。
「迎えに来たわ」
「今さら家族で争っても仕方ない」
父親が続ける。
「過去のことは水に流して、家族でやり直そう」
祈は二人の顔を見た。
知っている顔だった。
十六年間自分を育てた父親と母親。
盗撮犯と呼ばれた日に目を逸らし、夏の夜に扉を閉め、銀行口座と電話を止め、半年以上の間一度も捜さなかった人間。
そして現在、世間から価値を認められた瞬間息子を迎えに来た人間。
「実に心温まるお話です」
祈は静かに言った。
「息子をいとも簡単に路上へ捨てたご両親が、評判が上がった途端に家族愛を思い出して手のひらを返す。遺産分割の席で親族が故人の人柄を褒め始めるよりは僅かに上品でしょう。E判定です」
「祈……!」
母親の声が鋭くなる。
「それに、過去を水へ流すという方針にも説得力があります。都合の悪い家族をドブ川に流すことに関しては、既に十分な実績がおありですから」
祈は穏やかに微笑んだ。
「あの日の海はあなた方より律儀でした。去年捨てられたものを今になって一つずつ返そうとしている」
「家族愛より保管期限が長いとは、さすがは母なる大地と呼ばれている訳ですね」
父親の表情が僅かに固まる。
その変化を、七緒も母親も見逃した。
祈だけが観察していた。
「……何の話だ」
「こちらの話です」
祈は九十九点の答案を見たときよりも、僅かに楽しそうだった。
「それと、先ほど僕を許すと仰いましたね」
「そうよ。だから私たちは━━」
「許しとは便利なものです。謝罪を一度もせず、恥ずかしげもなくご自身だけ善人の席へ戻れる」
母親の顔が赤くなる。
「私たちは親なのよ!」
「ええ。血縁だけは努力をしなくても満点が取れる科目のようですね、取れたところで採用面接では何の役にも立ちませんが」
祈は空になった皿を重ねた。
「残念ながら、家族の単位は既に落としておられます」
「それと、僕は既に帰宅しております」
「何を言ってるの。ここは他人のお店でしょう……?」
母親の声に焦りが混じる。
「以前そちらへ戻った際、不法侵入で通報すると言われました。どちらが他人でしょう?」
祈は七緒を見た。
七緒は祈が次に何を言うのか分からず、それでも二人から守るように隣へ立っている。
祈は再び両親へ視線を戻した。
「僕の家はここだけです。それ以外にありません」
店内が静まり返る。
冷蔵庫の低い駆動音だけが聞こえた。
母親の顔から作られた笑みが消える。
父親の手の中で、親権者と印刷された書類が僅かに折れた。
七緒は何も言わなかった。
ただ祈の隣から絶対に離れなかった━━。




