第二十七話 肉親の手のひら返し 前編
大槻宗一が安全靴だけを残して消えてから三日が経った。
東央重工業の株価は朝の取引開始と同時に、値幅制限いっぱいまで下落した。
事故隠蔽に関与した役員の辞任。
国内の全工場に対する一斉立入調査。
安全装置を無効化した状態で稼働していた設備は、森谷翔太が死亡した工場以外にも十一台も見つかった。
会社は記者会見で「現場の独断による運用」と説明した。
だが、Elが公開した資料には本社の役員会で生産遅延を問題視し、安全確認に要する停止時間を短縮するよう求めた議事録まで含まれていた。
どこからが現場の独断でどこまでが会社の命令だったのか。
責任者たちは会議室で決めたことを忘れ、作業員たちは機械の前で死んだ人間の名前を思い出した。
午前七時。
和泉家のテレビでは、大槻の処刑映像を背景に討論番組が続いていた。
『これでElによる公開処刑は四件目です』
『しかし、今回Elが公開した記録によって企業ぐるみの安全軽視が明らかになったことも事実です』
『だからといって、一人の役員をあのような方法で殺害する必要があったのでしょうか』
『森谷翔太さんは安全装置を切られた機械へ入れられて亡くなっています。会社は半年間、その責任を本人へ押しつけていました』
『罪を暴くことと、殺すことは別問題です』
画面の右上には、また同じ見出しが出ていた。
〈Elは神か、殺人者か〉
「毎朝同じことを話してるわね」
七緒はテレビの音量を下げた。
「神と殺人者は両立しないのでしょうか」
祈は山盛りの白米へ生卵を落としながら尋ねた。
「朝から難しいことを言わないで」
「神話では両立している例が多いものですから。聖書ではソドムとゴモラが神の怒りで焼き滅ぼされています」
「今は神話の話をしてるんじゃないの」
食卓には塩鮭、鶏肉の照り焼き、味噌汁、納豆、ほうれん草のおひたしが並んでいる。
祈は既に鮭を一尾と白米を四杯食べ終えていた。
七緒は冷蔵庫から小さなプリンを取り出し、自分の席へ置く。
祈の視線が、その容器を追った。
「これは私の分」
「……何も申し上げておりません」
「目が言ってるの」
「人間は視線だけで有罪になるのですね。まさにルッハラです」
「一週間おやつ禁止。今日で三日目」
「プリンは食後のデザートであって、おやつではありません」
「屁理屈です」
「独裁政権では、食品分類まで権力者の都合で変わるのですね」
「帰る時間を守らなかった人が悪いの」
「では、僕は圧政へ屈します」
祈は名残惜しそうにプリンから目を逸らし、六杯目の白米をよそった。
テレビでは東央重工業の本社前から記者が中継している。
『警察は、大槻氏が事故記録の改竄と証人への脅迫を指示した疑いがあるとみて捜査しています』
『一方、Elの関与が疑われる高校生についてインターネット上では複数の個人情報が拡散され━━』
画面が切り替わり、中央駅で黒瀬莉愛と言い争う祈の姿が映った。
顔にはぼかしがかけられているが、制服と髪型だけで同じ学校の生徒には十分だった。
「まだ祈くんのことを流してる」
七緒の顔が険しくなる。
「ぼかしが甘いんじゃない? これ、学校が分かるでしょう」
「既に分かっております」
「そういう問題じゃないの。勝手に撮って、勝手に有名にして……」
七緒は放送局の連絡先を調べようとスマートフォンを取った。
「七緒さん」
「何?」
「プリンが温くなります」
「まったく……誰の心配をしてると思ってるの」
「僕でしょうか」
「分かってるなら、もう少し危機感を持ちなさい」
七緒はそう言いながら、プリンを冷蔵庫へ戻した。
祈の目が僅かに細くなる。
「召し上がらないのですか」
「祈くんだけ禁止なのに、目の前で食べたら可哀想でしょう」
「では、僕の刑期が終わるまで保存を?」
「そのつもり」
「七緒さん」
「何よ」
「その……模範囚として、本日の帰宅は早めます」
「最初からそうしなさい」
七緒は呆れたように笑った。
祈は七杯目の白米へ手を伸ばした。
人間の法律にも、神の判決にも従うつもりはない。
だが、冷蔵庫で自分の刑期が終わるのを待つプリンには、多少の責任を感じた。
* * *
学校へ着くと、昇降口の掲示板を囲む人だかりができていた。
先週行われた学年末考査の成績順位が貼り出されている。
二年生の総合順位。
一位の欄には、天羽祈の名前があった。
七科目、合計:六百九十九点。
二位との差は四十八点。
「……六百九十九って何?」
「おいおい、ほぼ全部満点じゃん」
「天羽くん半年以上も学校休んでたよね?」
「アイツ、本当に人間か……?」
最後の言葉だけはほかの疑問より正解に近かった。
祈は生徒たちの後ろから掲示を見た。
自分の名前を確認しても、喜ぶ様子はない。
「天羽くん」
三年生の列から九条美玲が歩いてきた。
「一位おめでとう。想像を絶する点数ね」
「ありがとうございます」
「もっと嬉しそうにしたら?」
「これが順位で昼食が増える制度でしたら、校庭を三周ほど喜んで回ります」
「普通は褒められただけでも嬉しいものよ」
「でしたら、今から少し嬉しそうにしましょうか。へへへっ」
「作らなくていいわよ」
美玲は笑った。
近くにいた一年生の女子が祈へ小さな紙袋を差し出した。
「天羽先輩。これ、お祝いです」
中には個包装の焼き菓子が入っている。
祈は一瞬だけ袋を見たあと、静かに首を横へ振った。
「申し訳ありません。現在、保護観察中ですので」
「えっ……? 何かしたんですか?」
「門限を二時間ほど破りました」
「それだけ?」
「僕の保護司は、国家より厳格です」
「そうですか……じゃあ一週間後にまた持ってきますっ!」
「賞味期限だけお気をつけください」
少女は断られたにもかかわらず、嬉しそうに友人のところへ戻っていく。
美玲はその背中を見送った。
「人気者ね」
「非常食を頂けなかった点では、損失しかありません」
「和泉さんとの約束は守るのね」
「約束を破ると、夕食の量へ影響しますので」
「本当にそれだけ?」
「ほかに理由が必要でしょうか」
祈は美玲の返事を待たずに教室へ向かった。
美玲はその横顔を目で追った。
自分の申し出にもほかの女子の好意にも関心を示さない。
それにもかかわらず、和泉七緒との約束だけは律儀に守る。
美玲の中で祈への興味がまた一つ増えた。
だが、祈の中で美玲の順位は何一つ変わらなかった。
二階の廊下では葵が掲示板の人だかりを離れた場所から見ていた。
祈が以前から成績のよい生徒だったことは知っている。
だが一位を取ったことは一度もない。
それに半年以上も授業を受けていなかった人間が、ほぼ満点を取れるわけがない。
海から戻った祈は顔や声だけではない。
走っても息を切らさず、人間では持ち上げられそうにない重いものを軽々と運び、一度見たものをすべて記憶しているように話す。
以前と同じ姿をしながら、以前の祈にはできなかったことを何でもできてしまう。
「葵、見に行かないの?」
友人が尋ねた。
「……今は、いい」
「幼馴染なんでしょう。お祝いくらい言えば?」
葵は首を横へ振った。
「祈は、静かに食事できる方が嬉しいと思うから」
自分が近づけば、また祈へ返事を求めてしまう。
調べたことを伝えて少しでも反応してほしいと期待してしまう。
それが祈のためではなく、自分のためだと指摘されたばかりだった。
葵は掲示板の一位へもう一度目を向け、そのまま教室へ戻った。
* * *
返却された答案のうち、祈が満点を逃したのは現代社会だけだった。
「ほかの科目はすべて百点。現代社会だけ九十九点」
佐伯は答案用紙を祈の机へ裏返して置いた。
「教師に嫌われると成績へ響くという実践的な授業でしょうか」
「採点は公平だ」
「公平を名乗るものほど、偏向している傾向があります。テレビ局がそうであるように」
「余計な一文を書いたから一点引いたんだ」
答案の最後には記述問題があった。
〈近代国家が刑罰権を独占する理由を、百二十字以内で説明しなさい〉
祈は私的報復の連鎖を防ぎ、統一された手続きと証拠に基づく制裁によって社会秩序と個人の権利を守るためと記していた。
そこまでは模範解答とほとんど同じだった。
ただ問題は、その下に追加された一文だった。
〈ただし、国家が暴力を独占することとその暴力が常に正しいことは同義ではない〉
「百二十字を超えています」
「超過は十五字だ」
「先生の過激な思想が一点分で済むとは、良心的な採点ですね」
「私の思想ではない。設問に従わなかった分だ」
「規則から一歩出ると減点される。現代社会の理解には最適な形式です」
「天羽」
「何でしょう」
「お前、全科目で不正をしていないだろうな……?」
教室が静かになった。
佐伯は祈の答案だけでなく、監督を担当した教師全員から聞き取りをしていた。
祈はどの科目でも開始と同時に一定の速度で解答を書き始めた。
迷うことも、答えを消すこともない。
数学では途中式まで一度も止まらず、国語では長文を開いた数秒後に設問へ移った。
すべての試験を半分以下の時間で終え、残り時間には机の下で栄養補助食品を食べようとして"三度"も注意されている。
「不正を疑う根拠は点数でしょうか」
「半年以上休んでいた生徒が、急に全科目満点近く取れば確認は必要だ」
「なるほど。成績が悪ければ努力不足、良すぎれば不正、生徒の適正範囲は随分狭いのですね。教師としての視野も比例して狭そうですが━━」
「監視映像も確認した。カンニングをした様子はなかった」
「では、疑いは晴れましたか」
「方法が分からないだけかもしれん」
「先生はElの議論でも、随分便利な場所へ疑いを置かれますね。証拠がなくても不安があれば空席にはならない」
佐伯の眉間へ深い皺が寄った。
「お前のその性格は、百点満点で採点すれば何点だと思う」
「採点者の器によって、零点から百点まで変動します」
「私なら零点だ」
「でしょうね。先生の答案用紙は余白が狭すぎるので、そもそも採点自体出来なさそうですが」
教室から笑いが漏れる。
佐伯は祈を睨んだあと、次の生徒の答案を返し始めた。
祈は九十九点の答案を鞄へ入れる。
学年一位にも六百九十九点にも意味はなかった。
現在の祈にとって人間の試験は、問題文を読んだ順に記憶から答えを取り出す作業でしかない。
難しかったのは満点を取ることではなく、不自然になりすぎないよう途中式を残すことだった。
その努力は一点の減点によって、無事に人間らしく見える結果へ落ち着いた。
少なくとも、本人だけはそう考えていた。
* * *
同じ頃。
祈の父親は、会社の応接室で取引先の役員と向かい合っていた。
「いやあ、驚きましたよ。駅前で配信者を論破した高校生、天羽さんの息子さんだったんですね」
机の上には祈の切り抜き動画を表示したスマートフォンが置かれている。
「ええ、まあ……」
「随分と綺麗な息子さんだ。それに、学校でも成績が良いとか」
「ええ、昔から頭のいい子でした」
父親は自然に答えた。
半年前、盗撮犯の息子とは関係ないと会社で説明したことは忘れたようだった。
「正義感も強いんでしょうな。あんなに恐ろしい配信者を相手に、堂々としていた」
「少々、正義感が強すぎるところがありまして」
「若いうちはそれくらいでいい。今度ぜひ、ご家族で食事でも」
「喜んで」
父親は笑顔で頭を下げた。
取引先が帰ったあと、応接室の扉を閉める。
笑みはすぐに消えた。
祈の動画には、数え切れないほどのコメントがついている。
〈顔だけじゃなく頭もいい〉
〈さっき友達に聞いたけど、あの学校の学年で一位らしいぞ〉
〈家族は何者?〉
〈芸能事務所は早く声かけろよ〉
〈天羽きゅんに会いたい〉
父親の勤務先まで特定しようとする投稿も現れていた。
半年前なら、祈との関係が知られることは恐怖でしかなかった。
だが今は違う。
無実の男性を助けた高校生。
学年一位と噂される秀才。
世界中から注目される美しい息子。
それは会社員としての自分へ、これまで得られなかった価値を与える。
父親は祈の番号へ電話をかけた。
呼び出し音は鳴らない。
着信を拒否されているという表示が出る。
「いつまで意地を張るつもりだ……」
自分が息子を家から追い出したことではなく、息子が連絡を拒むことへ苛立った。
* * *
母親の下にもその日の午前だけで三件の連絡が届いていた。
近所の主婦。
以前通っていた英会話教室の知人。
そして、祈の動画を特集したいというネット番組の制作会社。
『ご両親だからこそ知る、祈さんの幼少期についてお話しいただけませんか』
母親は取材を断った。
ただし、電話を切ったあと鏡の前で髪を整えた。
もし正式に取材を受けるなら何を着るべきか、家のどこで撮影すれば品のよい家庭に見えるか。
考えてからそんな自分を恥じるように首を振る。
祈はまだ家へ戻っていない。
警察には、あれは息子ではないと言った。
だが画面に映る祈は誰が見ても自分が産んだ少年だった。
目元は幼い頃と同じ。
今ほどでは無いが、平均より整った顔も昔から近所で褒められていた。
少し反抗期が長引いて家族の間に誤解が生まれただけだ。
母親はそう考えることにした。
祈の番号へかけても繋がらない。
メッセージは既読にならなかった。
『元気にしていますか』
『お父さんもお母さんも心配しています』
『帰ってきても、もう怒りません』
送信した三行を読み返す。
その中には謝罪は一つもなかった。
母親は連絡先の一覧から結城葵の名前を探した。
幼い頃から祈と一緒にいた少女で、今も同じ学校へ通っている。
そして半年以上前、祈を盗撮犯だと訴えた被害者でもある。
母親は少し迷ったあと、通話ボタンを押した━━。
* * *
昼休みの終わり。
葵は人気のない階段の踊り場で、祈の母親からの電話を受けていた。
『葵ちゃん、久しぶりね』
「お久しぶりです」
『突然ごめんなさい。祈と最近、話してる?』
葵はすぐに答えられなかった。
「少しだけ……学校で」
『そう。あの子、元気? ちゃんと食べてるのかしら』
食事に関しては心配する必要がない。
だが、葵は笑えなかった。
「元気、だと思います」
『祈は今も、あの和泉という人の家にいるの?』
「恐らくそうです」
『あの人とは、今どういう関係なの?』
声の調子が変わった。
息子を助けた人への感謝ではない。
警察署で一度会った女が、自分たちより祈の近くにいることへの警戒が滲んでいた。
「《ミモザ》の店長さんです。祈が一番信頼している人だと思います」
『一番……?』
母親はその言葉へ傷ついたように黙った。
だが自分自身がその場所を空けたことには気づかない。
『あのときは、行く場所がないから一時的に預かるという話だったでしょう?』
「祈のお母さんたちが、引き取りを断ったからです」
『私たちにも事情があったのよ。それより、祈はあの人を何と呼んでいるの?』
「七緒さん、と」
『そう……随分親しそうなのね』
母親の声には安堵よりも不満が混じっていた。
祈が無事に暮らしていたことより、自分ではない女へ心を許していることが気に入らないらしい。
『祈は、私たちのことを何か言ってる?』
「何も」
『悪く言ってない?』
「私が聞いた範囲では」
母親から安堵の息が聞こえた。
祈が恨んでいないことを喜んだのではない、世間へ何も話していないことへ安心したのだと葵にも分かった。
『よかった。あの子、今少し有名になってるでしょう。変なことを話したら家族みんなが誤解されるから』
葵の指が、スマートフォンを強く握った。
『私たちも、そろそろ帰ってきていいと思ってるの』
「帰ってきて、いい……?」
『ええ。少し誤解があって離れて暮らしていたけどもう十分でしょう。葵ちゃんからも伝えてくれない? お父さんもお母さんも怒っていない、一緒に帰ろうって』
葵の胸へ、冷たいものが広がった。
この人は未だに自分を怒る側だと思っている、許す側だと思っている。
夏の夜に息子を締め出し、半年間捜さなかった人たちが。
「祈に話したいことがあるなら、ご自分で会ってください」
『でも、あの子は電話に出ないのよ』
「祈が会いたくないと言ったら、受け入れてください」
『葵ちゃん?』
「私が間に入ることではありません」
以前の葵なら大人へ逆らえなかった。
祈の母親から頼まれれば良いことをしているつもりで祈を説得したかもしれない。
だが今は、それが誰のための善意なのか考えなければならなかった。
『あなたまで、祈に何か吹き込まれたの?』
「違います」
『私たちは親なのよ。十六年育てたの』
葵は目を閉じた。
十六年の最後に、彼らは玄関の鍵を交換した。
「なら祈が家へ帰れなかった約半年間のことも、ご存じなんですよね」
『それは、あの子が勝手に━━』
「授業が始まるので失礼します」
葵は通話を切った。
心臓が速く鳴っている。
祈を庇えたとは思わなかった。
自分もまた祈の話を聞かなかった側だった。
ただ、これ以上誰かの都合を祈へ運ぶ役にはなりたくなかった。
階段を上がると、廊下の向こうを祈が歩いていた。
片手に三段の弁当箱。
そしてもう片方には、食堂で追加購入した大盛りの焼きそばパン。
声をかけようと思えば届く距離だった。
葵は呼ばなかった。
祈は葵の存在に気づいていたが視線を向けることもなく教室へ戻った。
でもそれでよかった……。
少なくとも今は、自分の罪悪感を軽くするために彼の昼休みを奪わずに済んだ━━。




