第二十四話 安全装置 後編
講演終了後、祈は会場の出口で二人の警備員に呼び止められた。
「大槻常務がお話ししたいそうです」
「そうですか、僕は特に話すことはありません」
「すぐ終わりますので」
「悪い勧誘は皆さん同じことを仰いますね。真◯苑も同じことを言ってました」
美玲が祈の隣へ立った。
「私も同席します」
「関係者以外はご遠慮ください」
「同じ学校の生徒です」
「九条先輩」
祈が美玲を見る。
「学校へお戻りください」
「でも━━」
「本日の活動記録をご提出なさるのでしょう」
「天羽くんを一人にできないわ」
「一人で全く問題ありません」
祈の声には美玲を安心させようとする温度さえなく、ただ審理に不要な人間を外しているだけだった。
「七緒さんが相手でも、同じことを言える?」
美玲は思わず尋ねた。
祈の返答は一瞬も遅れなかった。
「七緒さんにはここへ来ないようお願いいたします」
「……そう」
「あの方を危険に近づける理由がありませんので」
美玲は祈の横顔を見つめた。
自分へ向けられた言葉との違いを、嫌でも理解した。
「分かった。十五分経っても戻らなかったら、学校と警察へ連絡するわ」
「ご自由に」
祈は警備員についていった。
* * *
案内された応接室で、大槻はネクタイを緩めて待っていた。
扉が閉まると、舞台上の笑顔が完全に消える。
「座れ」
「立ったままで結構です」
「名前は」
「質問へ答えていただければお伝えします」
「何者だ、お前━━」
「先ほどは高校生を名乗るよう求められましたので、高校生では?」
「ふざけるな!」
大槻がテーブルを叩いた。
「あの資料をどこで手に入れた!」
「御社の安全管理と同じ場所ではないでしょうか」
「何?」
「穴だらけでしたので」
大槻は祈を睨みつけた。
目の前の少年には脅されている人間の反応がない。
華奢な身体も、白い肌も、企業の役員室へ呼び出される高校生として不自然ではない。
それでも祈の背後に、自分より遥かに巨大なナニカが立っているように感じた。
「遺族に頼まれたのか」
「なぜ、そう思うのです?」
「森谷の母親は、今も会社へ嫌がらせを続けている」
「息子の死について正式な説明を求めることを、嫌がらせと呼ぶのですね」
「会社は十分説明した。息子が規則を破った。それだけだ」
「安全センサーを切ったのは?」
「設備管理側の判断だ」
「見事な回答です。責任が上の階へ昇らないよう、御社の安全シャッターはよく機能している」
「榊原修司さんですか」
大槻の瞳が揺れた。
ほんの一瞬だった。
「その名前をどこで知った」
「退職した設備管理主任ですね」
「お前には関係ない」
「亡くなった方にも関係ないことにしたかったのでしょう」
「いい加減にしろ!」
大槻は祈へ近づいた。
成人男性の身体が華奢な高校生へ影を落とす。
「企業が本気になれば、お前一人の人生など簡単に潰せる」
「それは心強い。安全装置は動かなくても、脅迫の方は正常に作動するのですね」
「御社の品質管理も、すべてが壊れているわけではないと分かり安心しました」
「学校へ連絡する。家族にもだ」
「家族はいません」
「調べれば分かる。お前が働いている店も、女店主の名前も━━」
祈の瞳から僅かに光が消えた。
室内の温度が下がったように、大槻は息を止める。
「その方の名前を、脅しの道具として安易に出さないでください」
祈の声は静かだった。
「何だと?」
「七緒さんは、この件と無関係です」
「だったら、お前が黙ればいい。飲食店など、保健所の検査と悪評一つで終わる」
祈は大槻を見上げた。
「なるほど。人命は守れなくても、飲食店一軒なら潰せる」
「何?」
「役員に相応しい、実に大きなお仕事ですね」
穏やかに微笑む。
「七緒さんへ何かした場合、御社の安全標語を墓碑銘にして差し上げます。もっとも、棺の中では標語を守るのも容易でしょう。事故はもう起きませんから」
大槻は笑い飛ばそうとした。
十六歳の高校生が、上場企業の役員へ向かって吐いた虚勢にすぎない。
だが、そう判断している頭とは別に身体が一歩後ろへ退いた。
腰が応接用のテーブルへぶつかる。
祈の顔は先ほどまでと何一つ変わっていない。
ただ、その瞳の奥だけが人間の目に収まる距離ではないように見えた。
照明の消えた工場。
安全柵の向こうで口を開ける機械。
一歩踏み外せば二度と戻れない暗い空間を、少年の形へ押し込めたような目だった。
大槻の喉が鳴る。
声が出なかった。
祈の微笑みは脅迫する者の笑顔ではない。
葬儀屋が棺の寸法を確認するときのように礼儀正しく、既に結末を知っているような笑顔だった。
大槻の背中に冷たい汗が流れる。
脅しているのは自分のはずだった。
それなのに気づけば、自分の方が扉までの距離を測っている。
逃げるために━━。
その事実を認めた瞬間、さらに恐怖が増した。
スマートフォンが震え、大槻は肩を跳ねさせた。
ただの着信だと理解するまでに、数秒かかった。
それは久我からのメッセージだった。
『榊原を確保しました』
『午後十時、第四成型工場へ搬送します』
祈の位置から画面は見えないはずだった。
大槻はすぐに端末を伏せる。
「話は終わりだ。二度と私の前へ現れるな」
命令のつもりだったが声は掠れていた。
祈は大槻の顔ではなく、伏せられたスマートフォンへ一度だけ視線を落とした。
「初めて意見が合いましたね。承知しました」
祈はあっさり答え、応接室を出た。
その反応が大槻にはかえって不気味だった。
扉が閉じる。
大槻はすぐに近づいて内側から鍵をかける。
一度では足りず取っ手を二度引いて施錠を確かめた。
廊下を歩く祈の足音が遠ざかってからようやく肺に溜めていた息を吐いた。
膝から力が抜け、革張りの椅子へ腰を落とす。
掌は汗で濡れていた。
十六歳の子供だ。
事故についてどこかで断片的な情報を拾っただけの高校生。
画面を伏せる前に、久我のメッセージが見えたはずもない。
大槻は何度もそう言い聞かせた。
それでも、祈が最後にスマートフォンへ落とした視線を思い出すたびに腹の奥が冷えた。
胸につけていた〈安全第一〉のバッジを外す。
緑色の文字が、なぜか自分の葬儀へ供えられる札のように見えた。
「ば、馬鹿馬鹿しい……」
口に出しても声は震えていた。
今夜、榊原と録音を消せばすべて終わる。
あの少年も必要なら久我に処理させればいい。
大槻は祈に感じた得体の知れない恐怖を、処分可能な人間の問題へ無理やり押し込めた。
そうしなければ、もう一度扉を開けることすらできなかった━━。
* * *
午後四時二十分。
本社ビルを出た祈は、七緒へメッセージを送った。
『帰宅が遅くなります』
送信から十秒も経たず、電話がかかってきた。
「今どこ?」
「東央重工業の本社前です」
『講演会はもう終わってるでしょう』
「追加の質疑応答がありました」
『誰と?』
「大槻常務です」
電話の向こうで、七緒が黙る。
『祈くん。その人、ニュースに出てた工場の偉い人よね』
「はい」
『変なことに巻き込まれてない?』
「既に変なことの中心にいる方でした」
『そういう答えが一番心配なの!』
七緒の声が大きくなる。
「九時までには帰ります」
『絶対?』
「努力します」
『約束したでしょう』
祈は時刻を確認した。
第四成型工場までは、電車と徒歩で二時間近くかかる。
午後十時に榊原が運び込まれるなら、帰宅は九時を過ぎる。
「申し訳ありません」
『祈くん?』
「今夜は、約束を守れない可能性があります」
七緒はしばらく何も言わなかった。
『帰ってくるのよね』
「はい」
『それだけは守って』
「必ず」
祈は一切迷わず答えた。
世界が滅びても自分が傷つくことはない。
それでも七緒が待つ家へ帰ることだけは、祈にとって守る価値のある約束だった。
通話を終えたあと、祈は駅とは逆の方向へ歩き始めた。
道路の向こうには黒いセダンが停まっている。
祈との距離はおよそ百二十メートル。
車体は街路樹の影へ入り、運転席の窓には濃いフィルムが貼られている。
通行人から見れば、駐車された無人の車にしか見えない。
だがその中で、久我の部下が望遠レンズを祈へ向けていた。
男は十五年以上人間を尾行し、撮影し、本人すら知らない生活の癖を依頼人へ売ってきた。
撮影対象と目が合うような位置へ、レンズを置くことは決してない。
窓の反射。
車内の光量。
対象の視野と顔が動く角度。
それらを計算して助手席側の暗がりから無音のシャッターを切っている。
素人ならともかく、プロである自分のカメラへ気づけるはずがなかった。
祈の足が止まったが男はシャッターから指を離さない、止まったタイミングは偶然だと思った。
しかし次の瞬間、望遠レンズの中で祈が顔を上げた。
視線は車にではない。
フロントガラスでも男の顔でもなかった。
百二十メートル先から、レンズの中心を正確に見ていた。
男の指が凍りつき、祈の黒い瞳がファインダーいっぱいに映る。
美しい少年の顔だった。
それなのに、レンズを一枚挟むごとに見ているものが人間から遠ざかっていくように感じられた。
瞳の奥に光がないのではない。
光が届くより深い場所からナニカがこちらを見返している。
カメラが対象を捉えているのではなかった。
レンズという小さな穴を通して向こう側の得体の知れないモノに自分を見つけられた。
そう理解した瞬間、男の全身から汗が噴き出した。
呼吸が浅くなり、〈逃げろ〉と理性よりも古い部分が命じている。
男はカメラを下げようとした。
だが手が震えてレンズがダッシュボードへぶつかった。
鈍い音が車内へ響く。
もう一度ファインダーを覗いたとき、祈は既に歩き始めていた。
こちらへ向かってくる様子はない。
追う価値すらないと判断されたように駅とは逆の道へ去っていく。
男は通話ボタンを押した。
「久我さん」
『どうした』
「気づかれました」
『対象との距離は』
「百二十メートル。遮光フィルム越しです」
通話の向こうで短い沈黙があった。
『お前の顔を見たのか』
男は唾を飲み込んだ。
「違います」
まだ震えているレンズを見下ろす。
「俺じゃない。まるでカメラの中を……こっち側を見ていました」
『尾行を続けろ』
「……承知しました」
そう答えながらも男はエンジンをかけられなかった。
祈の瞳をもう一度見ることになる気がして、フロントガラスへ顔を向けることさえできなかった。
そして祈も追わなかった。
今夜確認すべき罪人は別にいる━━。
* * *
午後九時五十八分。
閉鎖された第四成型工場に黒いワゴン車が入った。
錆びたシャッターが上がり、車は巨大な機械の並ぶ暗い建屋へ消える。
後部座席からは両手を縛られた榊原修司が引きずり出された。
「離せ! 自分で歩ける!」
久我の部下が二人がかりで腕をつかみ、床へ跪かせる。
榊原は半年の逃亡生活で痩せて頬が落ち窪んでいた。
それでも胸元へ抱えた古い携帯音楽プレーヤーだけは、奪われまいと身体を丸めている。
「それを出せ」
久我が手を差し出した。
「これは、翔太の家族へ渡す」
「命と引き換えに?」
「最初から……そのつもりだった」
久我は部下へ目配せした瞬間、男が榊原の腹を蹴る。
身体が床へ転がり、プレーヤーが手から離れた。
久我が拾い上げて再生ボタンを押す。
ノイズのあと、工場内で交わされた会話が流れた。
『センサーがまた止まっています。この状態でラインを動かすのは危険です』
『今日止めたら納期に間に合わん』
大槻の声だった。
『手動で無効化しろ。点検は稼働中にやらせる』
『人が入るんですよ!』
『下請けを一人入れろ。何かあれば、手順違反で処理する』
録音はそこで途切れた。
工場の入口から、拍手が聞こえた。
大槻宗一が現れる。
「よく残していたな、榊原」
「大槻……!」
榊原が立ち上がろうとするが、部下に肩を踏まれる。
「翔太は……お前の命令で死んだ」
「証拠は今、こちらの手にある」
「この証拠は複製してある」
「どこに?」
「警察へ送った」
大槻の表情が変わる。
久我は首を横へ振った。
「今のところその形跡はありません」
「ふん、強がりか」
大槻は榊原の前へしゃがんだ。
「お前が黙っていれば森谷一人の事故で終わった。会社も、お前の家族も守られたんだ」
「守ったのはお前の出世だけだ」
「結果を出した者が上へ行く。当たり前だろう」
「人を殺して出した、血まみれの数字だ!」
「機械を止めれば何百人もの仕事が失われた」
大槻は立ち上がった。
「一人を犠牲にして何百人を守った。経営とはそういうものだ」
「翔太は犠牲になることを選んでない」
「下請けに選ぶ権利があると思うのか?」
その言葉が暗い工場へ響いた。
建屋の外。
割れた窓の向こうから祈が大槻を肉眼で見ていた。
大槻本人から反射した光が祈の網膜へ届く。
本人の命令。
安全装置の無効化。
森谷翔太を稼働中の機械へ入れた事実と事故後の証拠隠滅。
そして、榊原修司を殺そうとする現在の意思。
審理に必要な因果が一つの線として結ばれた。
祈のスマートフォンが短く震える。
画面の下にある購入ボタンが、灰色から黒へ変わった。
━━審理に必要な情報が確認されました。
祈はボタンへ指を置く。
工場内では大槻が久我へ告げていた。
「録音を消せ。榊原もだ」
「事故に見せますか」
「この工場なら簡単だ。機械へ巻き込まれたことにすればいい」
「半年前と同じように?」
「死人は文句を言わん」
祈の口元に、静かな微笑みが浮かぶ。
「ごもっともです。ですから経営会議には、生者より死者を並べるべきでしょう」
祈は購入ボタンへ指を重ねた。
「少なくとも、あなたより責任感があります」
購入ボタンを押した━━。
* * *
森谷瑞穂の自宅で、スマートフォンが震えた。
眠れずに息子の社員証を見つめていた瑞穂は、恐る恐る通知を開く。
━━Elが商品を購入しました。
同時刻。
第四成型工場の安全装置が一斉に作動した。
停止していた機械へ緑色のランプが灯り、すべての出入口が内側から施錠される。
大槻が振り返った。
「何だ……?」
工場の照明が一つずつ消えていく。
最後に残った非常灯の下で、黒い煙が人間の輪郭を作り始めた。
その右手には、七緒が持たせた四段重ねの弁当箱が提げられていた━━。




