第二十三話 安全装置 前編
大槻宗一は、安全装置というものを信用していなかった━━。
安全装置は機械を止める。
機械が止まれば生産が止まり、生産が止まれば納期が遅れる。
人間一人の命に値段をつけることは難しいが一時間の操業停止によって失われる金額なら、会計ソフトが一秒で計算してくれる。
だから大槻は人間を守るより数字を守る方が合理的だと考えていた。
もちろん、壇上では逆のことを話す。
「企業にとって最も大切な財産は、人です」
東央重工業本社ホールの控室で、大槻は鏡へ向かって講演原稿を読み上げた。
年齢は五十二歳。
太い首と仕立ての良い濃紺のスーツ。
白髪を混ぜた髪は短く整えられ、胸には緑色の安全第一バッジが輝いている。
工場長から常務取締役へ昇進して約一か月。
現場の叩き上げらしい力強さと経営者らしい清潔感を両立させた姿は、広報部が求める「安全を語れる責任者」に相応しかった。
「事故は、たった一つの確認不足から起こります」
大槻は鏡の中の自分へ微笑む。
「だからこそ、現場で働く一人一人が手順を守ることが重要なのです」
その言葉を口にしたところで、机の上のスマートフォンが震えた。
表示された名前は、久我征士郎。
大槻は控室の扉を施錠してから通話へ出た。
「見つかったか」
『昨夜、港町の簡易宿泊所へ入ったところを確認しました』
落ち着いた男の声だった。
「榊原は一人か」
『現在は。ただ、森谷家へ連絡した形跡があります』
大槻の笑顔が消えた。
「何を話した」
『通話時間は二分十八秒。内容までは』
「役立たずが」
『盗聴は契約に含まれておりませんので』
久我の声は罵倒されても一切変わらない。
「榊原は事故当日の録音を持っているかもしれない」
『安全センサーを切るよう、あなたが指示した音声ですか』
「電話で余計なことを言うな」
『そちらから説明された内容です』
大槻は舌打ちした。
「今日中に回収しろ。本人も工場へ連れてこい」
『どちらの工場でしょう』
「閉鎖中の第四成型工場だ。夜なら誰もいない」
『回収後、本人は?』
「二度と警察や遺族へ連絡できないようにしろ」
数秒の沈黙があった。
『契約内容が変わります』
「金なら払う」
『皆様、最初は同じことを仰います』
「講演が終わるまでに用意しておけ」
大槻は通話を切った。
再び鏡へ向き直る。
乱れていたネクタイを直し、口角を上げる。
「企業にとって最も大切な財産は、人です」
今度は、先ほどより自然に言えた。
* * *
同日の朝。
祈は和泉家のダイニングで、七緒が作った弁当を鞄へ詰めていた。
一段目は唐揚げと焼き鮭、卵焼き。
二段目は生姜焼きと野菜炒め。
三段目と四段目には白米。
別の紙袋にはサンドイッチと菓子パン、そして栄養補助食品が入っている。
「本当にこれで足りる?」
七緒が不安そうに尋ねる。
「講演会は二時間ですので、辛うじて」
「講演会を聞くだけで、どうして四段弁当が必要なのよ」
「思考はカロリーを消費します。あのボディビルダー横川◯隆も三時間に一回プロテインを飲んでいます」
「はぁ……祈くんの場合、何も考えてなくても消費してるでしょう」
「神秘的ですね」
「他人事みたいに言わないの」
七緒は弁当箱の蓋を押さえ、風呂敷を結んだ。
「その東央重工業って、郊外に大きな工場がある会社よね」
「はい」
「どうして急に安全管理の講演なんて聞くの?」
「将来の進路について、見識を広げようかと」
祈は一切表情を変えずに答えた。
七緒は黙って彼の目を見る。
「祈くん」
「はい」
「嘘をつくときだけ、すごーく優等生みたいなことを言うわよね」
「信用がないようで残念です」
「普段の言動を振り返ってから残念がって」
七緒は小さく息を吐いた。
「昨日も変な工場へ行くようなこと言ってたでしょう。危ないことには首を突っ込まないでね」
「努力します」
「善処より悪くなってない?」
「善処した結果、努力へ落ち着きました」
「行かないって言いなさい」
「七緒さん」
祈は弁当を鞄へ入れた。
「帰宅が遅くなる場合は、必ず連絡いたします」
「そこじゃないのよ……」
「約束します」
七緒は困ったように眉を寄せた。
祈が自分へ嘘をついていることは分かる。
それでも、無理に止めれば何も告げず出ていく気もした。
「九時までには帰ってきて」
「承知しました」
「あと、知らない人についていかない」
「小学生の注意事項ですね」
「祈くん、見た目だけなら知らない女の人に簡単に連れていかれそうだもの」
「ですが、今朝の弁当より魅力的な条件を提示できる方はいないでしょう」
七緒は一瞬言葉を失い、顔を逸らした。
「……早く学校へ行きなさい」
「はい。いってきます」
祈が玄関を出たあと、七緒は結び損ねたエプロンの紐をやり直した。
* * *
午前十一時。
都内の高層ビル、その地下駐車場に黒いセダンが停まっていた。
運転席に座る久我征士郎は二つの封筒を助手席へ並べている。
一つは榊原修司の写真。
東央重工業で設備管理主任を務めていた四十八歳の男だった。
もう一つは制服姿の天羽祈。
中央駅で黒瀬莉愛のカメラを遮る瞬間が鮮明に印刷されている。
その裏には依頼者から渡された情報が記されていた。
十六歳。
高校二年生。
昨年七月の盗撮事件後、三学期まで学校へ姿を見せず。
現在はファミリーレストラン《ミモザ》の店主宅で生活。
鷺沢怜央、久世蓮司、黒瀬莉愛。
三件すべてにおいて、Elの出現前に接触している可能性あり。
久我は祈の写真を指で弾いた。
「高校生一人を消すために、この金額ですか」
後部座席に座る男が尋ねた。
耳に無線機をつけ、首元まで黒い服で覆っている。
「まだ消せとは言われていない」
「調査だけ?」
「依頼者は表向き学校法人の理事長だ。自分の学校の生徒を心配しているらしい」
「信じてるんですか」
「依頼人の良心を信じるほど、教育を受けていない」
久我は祈の写真を封筒へ戻した。
「尾行しろ。ただし、接触はするな」
「子供一人に慎重すぎません?」
「この少年がいた場所では、人間が三人、物理法則ごと殺されている」
「……Elだと?」
「だから調べる」
久我はもう一つの封筒を手に取った。
「先に榊原修司を確保する。そちらは今夜中に終わらせる」
「生かして?」
「依頼人が決める」
「結局、大槻常務のところへ連れていくんでしょう。答えは決まってますよ」
「決まった答えを、自分の口で言わせるのが契約だ」
久我は車のエンジンをかけた。
助手席の二つの封筒が発進の振動で僅かに重なる。
一ノ瀬家が消したい少年と、大槻が消したい証人。
二人の人生は、同じ男の車へ積み込まれていた━━。
* * *
午後一時。
東央重工業本社ホールには企業関係者、報道陣、学生合わせて三百人ほどが集まっていた。
舞台の上には緑と白で統一された看板が掲げられている。
〈安全管理シンポジウム━━人を守る現場づくり〉
祈は会場後方の席へ座り、七緒が用意したサンドイッチを食べていた。
周囲の参加者たちは舞台よりも祈を見ている。
企業研修で訪れた女性社員。
受付を担当する若い女性。
取材に来た記者。
年齢も立場も異なる女性たちの視線が無意識に祈へ引き寄せられていた。
「やっぱり、天羽くん」
隣の通路から声がした。
九条美玲だった。
制服の上に生徒会の腕章をつけ、学校代表として参加している。
「どうしてここに?」
「進路について見識を広げに参りました」
「その言い方をするとき、嘘をついているでしょう」
祈の手が一瞬だけ止まった。
「本日二人目ですね」
「一人目は?」
「七緒さんです」
「店長さん、やっぱり天羽くんのことをよく分かっているのね」
「拾った生き物の習性は、飼い主が最も詳しくなります」
「自分を生き物扱いするの?」
「食費だけなら大型動物に近いかと」
美玲は祈の隣の空席を見た。
「ここ、座ってもいい?」
「自由席ですので」
歓迎も拒絶もしない答えだった。
美玲が座ると、前列にいた男子生徒たちが何度も振り返った。
校内のマドンナと呼ばれる美玲が祈に自分から近づいている。
しかし祈は美玲を見ず、サンドイッチの残りへ集中していた。
「結城さんは来ていないの?」
美玲が尋ねる。
「存じません」
「昨日、一ノ瀬くんとあんなことがあったから心配で」
「ご本人へ確認なさってください」
「天羽くんは心配じゃない?」
「僕が心配すると何か改善しますか」
「……しないかもしれないけど」
「では不要です」
祈は包装を小さく折り畳んだ。
美玲はその横顔を見た。
冷たいというより、葵へ向ける感情の置き場所そのものが存在しないようだった。
会場の照明が落ちる。
司会者が大槻宗一の経歴を紹介し、客席から大きな拍手が上がった。
舞台へ現れた大槻は、両手を広げて一礼した。
「皆様、本日はお越しいただきありがとうございます」
背後のスクリーンに笑顔で働く工場員たちの写真が映る。
「工場という言葉から皆様は何を想像されるでしょうか。巨大な機械、火花、鉄、油。ですがその中心にいるのは常に人です」
大槻は客席を見回した。
祈と目が合う。
その一瞬、言葉が止まった。
会場の後方に座る華奢な高校生だけが舞台照明よりも鮮明に見える。
大槻はすぐに視線を外し、原稿へ戻った。
「人の命に勝る生産目標はありません」
祈の指が弁当箱の卵焼きを持ち上げる。
大槻宗一本人から反射した光が、祈の網膜へ届いた。
顔。
本名。
役職。
審理対象と、目の前の男が結びつく。
だが購入ボタンは、まだ灰色だった。
* * *
講演では事故映像を加工した教材が使われた。
作業員役の人形が安全柵を越えてプレス機へ近づく。
そして警告音を無視した結果、画面が赤く点滅する。
「事故の九割は、決められた手順を守れば防ぐことができます」
大槻は力強く語った。
「安全装置を過信してはいけません。最後に自分の命を守るのは自分自身の判断です」
祈は二段目の弁当を開けた。
森谷翔太の事故報告書にも同じ文章が記されていた。
〈被災者が手順を遵守していれば、本件事故は回避できた〉
講演の最後には質疑応答の時間が設けられた。
企業関係者が手を挙げ、教育方法や点検頻度について無難な質問をする。
大槻も用意された回答を返した。
「では、最後に学生の方から一問」
司会者が客席を見渡す。
祈が手を挙げた。
その瞬間、周囲の女性たちが一斉に彼を見る。
美玲が僅かに身を乗り出した。
「後方の、制服の方」
係員がマイクを運ぶ。
祈は立ち上がった。
「大槻常務へ質問があります」
「どうぞ」
「講演題目の『人を守る現場づくり』は、反面教師としてご登壇なさったという理解でよろしいでしょうか」
「……何?」
「半年前、御社の第四成型工場で亡くなった森谷翔太さんはどの手順を守らなかったのでしょうか」
会場の空気が一瞬で変わった。
大槻の笑顔がごく僅かに硬くなる。
「個別の事故については、ご遺族や関係者のプライバシーがありますので」
「御社の事故報告書には、本人が立入禁止を無視したと書かれています。既に個人へ責任を負わせておきながら、説明するときだけはプライバシーを尊重なさるのですか。死後の福利厚生としては随分と手厚いですね、生前に安全装置も同じくらい大切になさっていればさらに結構でしたが」
報道席の記者たちが一斉にペンを動かした。
「君は……どこでその報告書を?」
「質問への回答をいただいておりません」
大槻は演台の縁を指で握った。
「森谷さんは、設備が稼働している状態で危険区域へ入りました。本来なら電源を遮断し、責任者の許可を得なければならない」
「安全センサーは事故の三時間前から、管理者権限で無効化されていましたね」
会場がざわめく。
「根拠のない情報です」
「稼働ログに残っています」
「なるほど。御社では安全装置が故障し、責任者の記憶も事故当日に限って停止する。実に機械と連携の取れた職場です」
「会社の内部情報を不正に入手したのであれば、君の方が問題になる」
「死者へ責任を負わせるには記録を使い、生者が記録を読むと不正になる。責任者と会社を守る安全装置だけは高性能のようです」
誰かが息を呑んだ。
美玲は祈の顔を見上げた。
祈の声に怒りはない。
ただ、大槻がどこまで嘘を重ねるのかを観察している。
「高校生が、断片的な情報で企業を中傷するものではない」
「では、断片的な映像と証言で亡くなった方を規則違反者に仕立て上げたのは社会人の嗜みでしょうか」
報道席から、抑えきれない小さな笑いが漏れた。
大槻の頬が引きつる。
「森谷さんの死は痛ましい事故でした。だが安全管理には、働く側の責任もある」
「死人とは理想的な部下ですね」
祈が穏やかに微笑む。
「残業代を請求せず、反論せず、経営陣の失敗をすべて引き受けてくれる。昇進祝いに一分間の黙祷くらいは贈られましたか。費用もかからず、御社の理念に実に相応しい」
「君、名前は」
「講演内容と関係がありますか」
「責任ある発言をするなら、名乗りなさい」
「その責任を死者へ押しつけた方から教わるとは、大変光栄です」
「本日の講演で最も説得力がありました。責任を負わない方法についてはさすが、専門家でいらっしゃる」
客席のあちこちから、スマートフォンが向けられる。
司会者が慌てて質疑応答の終了を告げた。
「き、貴重なご質問をありがとうございました。それでは皆様、大槻常務へ今一度拍手を━━」
拍手は起きた。
しかしそれは講演開始時より明らかに疎らだった。
大槻は笑顔のまま一礼した。
顔を上げたとき、その目だけが祈を睨んでいた━━。




