第二十二話 海は重りだけを返す 後編
《ミモザ》へ着いたとき、祈は店の裏口で段ボール箱を抱えていた。
卵が十パック。
牛乳が六本。
玉ねぎが二袋。
食パンが四斤。
七緒の頼んだ量のすべて倍になっている。
「祈くん」
七緒が伝票を見ながら眉を寄せた。
「どうして食パンが四斤あるの?」
「二斤は個人用です」
「買い食いは二つまでって書いたでしょう」
「パンは買い食いではなく非常食です。最近は災害が多いので」
「何の非常事態を想定してるの?」
「空腹です」
「毎日起きてるじゃない」
「なら慢性的非常事態ですね。Jアラートが鳴り止まない訳です」
「それ、お腹が鳴ってるだけだから」
七緒は呆れながら箱を受け取ろうとした。
それを見た祈は身体を僅かにずらす。
「僕が運びます」
「重いでしょう」
「七緒さんが身体を傷める方が困りますので」
「……そういうことを、さらっと言うのずるいよね」
「何ですか?」
「別に……何でもない」
七緒は少し頬を染めて、祈のために裏口を押さえた。
「でも遅くなるなら連絡して。学校を出る時間から二十分も過ぎてたでしょう」
「申し訳ありません」
「心配したのよ」
「次回から気をつけます」
祈は言い訳をしなかった。
それは葵にも美玲にも向けなかった素直な謝罪だった。
店内の奥で、そのやり取りを火村が見ていた。
「相手によって、ずいぶん態度が違いますね」
森川が小声で言う。
「あの店長には頭が上がらないらしいな」
「神の候補にも弱点がありましたね」
「まだ候補に入れるな」
二人がいつもの三番テーブルへ座ると祈が水を運んできた。
「いらっしゃいませ。海釣りの帰りですか」
火村の靴には乾ききっていない砂がついている。
「はっ……似たようなものだ」
「釣果はいかがでした?」
「魚は釣れなかった。重りが一個」
祈は表情を変えなかった。
「それは調理しにくい食材ですね」
「心当たりは?」
「鉄分は足りております」
「そうか」
火村は祈の顔を見た。
驚きも動揺もない。
坂口の供述を知らないだけなのか、それともすべて承知した上で何も感じていないのか。
「ご注文は?」
「ミックスグリル。食後に珈琲」
「昨日と同じですね」
「海から戻ったばかりで、新しいモノに冒険する体力がないんだよ」
「海賊王にはなれなかったんですね。老人としては正しい判断です」
「馬鹿野郎、俺はまだ四十代だ」
「海は人を老けさせるのですね。勉強になりました、メモしなきゃ」
祈は森川の注文も取り、厨房へ戻ると入れ替わるように七緒が伝票を持ってくる。
「火村さん。今日は祈くんに何の用ですか?」
「まだ何も聞いてない」
「まだ、ってことは聞く予定なんでしょう」
「店長は勘がいいな」
「あの子に関することなら」
七緒は火村の向かいへ座った。
「もしや、祈くんのご両親に会ってきたんですか」
今度は火村が眉を上げる。
「どうして分かった」
「さっき、あの人たちから店に電話がありました。警察に余計なことを話すなって」
「何と答えた?」
「自分たちがしたことを余計だと思うなら、最初からしなければよかったでしょうって」
森川が小さく笑う。
「強いですね」
「あの子を家へ入れなかった人たちに遠慮なんかする理由がありませんから」
七緒は火村を見た。
「何があったんですか」
「五か月前、祈が家を出たあとのことを調べている」
「今さら?」
「その今さらを仕事にしてる」
「……祈くんと同じことを言うのね」
「本人は何て?」
「過去は戻らないから調べても無駄だって」
七緒は厨房の方を見た。
祈は大皿の賄いを立ったまま食べている。
「でも……私は無駄だと思いません」
「どうして」
「過去は戻らなくても、同じことを繰り返さないためには必要でしょう」
火村は少しだけ口元を緩めた。
「祈を見つけた日のことを、もう一度聞かせてくれ」
「前にも警察へ話しました」
「記録は読んだ。本人の状態を知りたい」
七緒はしばらく考えた。
「朝早くにコンビニの前にいました。冬なのに薄い服で靴すらまともに履いてなくて」
「怪我は?」
「目立つ傷はありませんでした」
「血や、濡れた跡は?」
「なかったと思います。でも、すごくお腹を空かせてた」
「声をかけた理由は?」
「それは……なんとなく、妹に似ていたからです」
七緒の表情に影が落ちる。
「放っておけなかった。食べ物を買って渡したら祈くん、全部食べて……それでも足りないって顔をしてた」
「どこから来たと話した?」
「河川敷で暮らしていたと」
「五か月間ずっと?」
「詳しくは聞けませんでした。警察へ連れていったらご両親は引き取らないと言った。児童相談所にも連絡したけどすぐに入れる場所がなくて」
「それで、自分の家へ?」
「はい」
「怖くなかったのか。例の事件の話も聞いたんだろ」
七緒の目が鋭くなる。
「祈くん本人の話を聞く前に、噂を信じろってことですか」
「いや、そうじゃない」
「私はあの子が何をしたと決めつけた人たちより、目の前でお腹を空かせていた祈くんを信じました」
火村は何も言わなかった。
両親は証拠があったから追い出したと言った。
七緒は証拠を知らなくても目の前の少年を家へ入れた。
血縁のある者が閉ざした扉を、血縁のない者が開いた。
「七緒さん」
祈が厨房から呼んだ。
「賄いのおかわりをお願いしてもよろしいですか」
「もう三皿食べたでしょう!?」
「成長期ですので」
「成長する場所が胃しかないじゃない!」
「なんてことを……胃も立派な臓器です」
七緒は立ち上がり、厨房へ戻っていった。
祈の皿へ追加の料理を盛りながら口では文句を言い続けている。
その声は、祈を追い出した母親のものとはまったく違った。
「火村さん」
森川が小声で言う。
「もし仮にですが、天羽君がElだったとしてもあの人だけは傷つけない気がします」
「仮定で人間性を評価するな」
「でも、火村さんも同じこと考えたでしょう」
火村は答えなかった。
ただ、七緒から皿を受け取る祈の横顔を見つめた。
黒煙の怪物と似たような皮肉を口にする少年。
海へ沈められたはずなのに傷一つなく戻った少年。
誰にも感情を見せない少年が、七緒にだけは素直に頭を下げる。
謎は増えるばかりだった。
* * *
午後九時。
一ノ瀬真は父親の書斎で海底から引き上げられた重りの写真を見ていた。
父親が机へ置いた内部資料には、一般のニュースで報道されていない情報まで記されている。
「県警がうちの生徒について調べている」
理事長である父親は不機嫌そうに指で机を叩いた。
「天羽祈。盗撮事件のあと、長期間欠席していた生徒だ」
「知っています」
「お前は当時、生徒会として事情聴取に同席したな」
「はい」
「警察が、なぜ今になって失踪期間を調べる?」
真は写真から目を逸らした。
「Elの事件が続いているから関連を疑っているんじゃないでしょうか」
「黒瀬莉愛の件で、天羽が映っていたな」
「偶然です」
「鷺沢怜央が死んだ店でも働いている」
「それも偶然です」
父親は息子の顔を見た。
「随分と偶然が多い」
「僕に言われても分かりません」
「学校に警察が来るなら保護者への説明が必要になる、余計な問題を起こすなよ。起こした場合、偶然の根幹である天羽祈という少年を消すことになる」
「分かっています」
真は資料を閉じようとした。
最後のページに、発見された重りの製造番号がある。
それには見覚えがあった。
工事現場から盗んだ夜、航平と一緒に確認した番号だった。
あの重りを二つ祈の身体へ結びつけた。
その一つが見つかった、ならもう一つも海底のどこかにある。
ロープには自分の指紋が残っているかもしれないが、五か月も海へ沈んでいたなら消えている。
そう思っても汗が止まらない。
「顔色が悪いぞ」
「少し、疲れているだけです」
「葵さんとは上手くいっているのか」
真の指が止まった。
「どうして今、その話を」
「あの子の父親から、最近お前と距離を置いているようだと聞いた」
「問題ありません」
「卒業後も付き合うつもりなら余計な噂は立てるな。理事長の息子として相手は選べ」
「僕が選んだんです」
真は強く言った。
「葵は僕のものです」
父親が眉を寄せる。
「人間を物のように言うのか」
真は答えなかった。
スマートフォンが震える。
父親に見られないよう机の下で画面を開く。
相手は坂口航平からだった。
『ニュースを見た、一個目が見つかったんだな』
続けて、新しい文章が表示される。
『二個目を落とした場所、俺は覚えてる』
『今度は最後まで警察に話す』
真はすぐに電話をかけたが呼び出し音すら鳴らない。
電源が切られているという音声が流れた。
「誰だ」
父親が尋ねる。
「学校の友人です」
「こんな時間に?」
「大した用ではありません」
真はスマートフォンを握り締めた。
海底の重り、警察へ行こうとする航平、匿名メールを調べる美玲、自分から離れようとする葵。
そして、何もせずにすべてを奪い返していく祈━━。
書斎の窓には自分の姿が映っている。
その背後に黒い人影が立っているように見えた。
真は勢いよく振り返る。
だが誰もいない。
父親が怪訝そうに見ているだけだった。
「本当に大丈夫か」
「……大丈夫です」
真は答えたが、それは最も現実から離れた嘘だった。
そして、父親はその嘘に対して全てを知っているかのような不敵な笑みを浮かべていた━━。
* * *
深夜。
《ミモザ》の最後の客が帰り、七緒はレジを締めていた。
祈は厨房に残ったチキンライスを大皿へ盛り、六個の卵を使ったオムライスを作っている。
「祈くん、それ夜食?」
「賄いの補完です」
「三回おかわりしたでしょう」
「成長期は夜にも訪れます」
「せめて自分で作るなら、卵を六個も使わないで」
七緒が買い足したばかりの卵を見てため息をつく。
祈がオムライスを半分ほど食べたところで、スマートフォンが短く震えた。
━━新しい商品が出品されました。
一般利用者には表示されない通知だった。
祈は画面を開く。
商品写真に写っていたのは熱で曲がった社員証だった。
透明だったケースは茶色く変色し、端が溶けて波打っている。
顔写真の左半分は熱によって潰れていた。
辛うじて読み取れる名前は、森谷翔太。
二十三歳。
商品名━━息子が最後につけていた社員証。
商品の状態━━焼けています。
販売価格━━十三円。
出品者は、森谷瑞穂。
説明欄には、息子を亡くした母親の文章が記されていた。
『息子は、東央重工業の下請け会社で設備点検をしていました』
『半年前、稼働中の大型成型機へ巻き込まれて亡くなりました』
『会社は息子が決められた手順を無視し、勝手に機械へ入ったと発表しました』
『ですが息子は、どんな小さな確認も怠らない子でした』
『事故の三日前、安全装置が故障していると私へ話していました』
『現場では納期が遅れ、工場長が安全装置を切ったまま機械を動かしていたそうです』
『息子と一緒に作業していた人は、会社を辞めたあと連絡が取れなくなりました』
『事故記録には息子が立入禁止を無視したと書かれています』
『工場長は生産性を改善した功績で今月本社の役員へ昇進しました』
『夫は、会社を訴えれば翔太の弟まで就職できなくなると言って何も話そうとしません』
『私は、息子が自分から危険な機械へ入ったとは信じられません』
最後に、一行だけ記されていた。
『息子の死を、本人の責任だけで終わらせないでください』
祈は非公開資料を開いた。
事故報告書。
労働基準監督署の調査記録。
工場内の配置図。
安全装置の点検履歴。
そして事故が起きた時間帯だけ欠落した監視映像━━。
大型成型機の稼働ログには事故の三時間前から安全センサーが手動で無効化されていた記録が残っている。
操作には管理者権限が必要だった。
当時その権限を持っていたのは、工場長の大槻宗一と、設備管理主任の二人。
主任は事故の翌日に退職し、現在は所在不明。
そして大槻は安全装置を切ったことを否定しており、会社も森谷翔太が独断で機械へ入ったことによる事故だと結論づけた。
神は全知ではない。
稼働ログだけでは誰が命令したのか分からない。
事故の瞬間を見た者の証言も、大槻本人の言葉も必要だった。
画面の下にある購入ボタンは灰色のままだった。
━━審理に必要な情報が不足しています。
祈は大槻宗一の経歴を開いた。
現在五十二歳。
東央重工業常務取締役。
事故後、工場の生産数を過去最高へ伸ばした実績が評価され役員へ昇進。
来週、経済団体が主催する安全管理シンポジウムで講演を行う予定になっている。
講演題目は、〈人を守る現場づくり〉。
「素晴らしい題名ですね」
祈はオムライスを口へ運んだ。
「装置よりも面の皮の方が頑丈なようです」
「何を見てるの?」
七緒が厨房を覗き込む。
「次の食事場所を探しております」
「こんな時間に?」
「二十四時間稼働の工場だそうです」
「祈くん。変なところへ一人で行かないでね」
「善処します」
「それは行く人の返事でしょう」
七緒が眉を寄せる。
祈は画面を伏せた。
灰色の購入ボタンはまだ押せない……まず本人の顔を見て言葉を聞かなければならない。
人命より納期を優先した男は今も安全管理の専門家として拍手を浴びている。
祈は残っていたオムライスを食べ終えた。
「時間に厳しい職場ですね」
空になった皿を見下ろし、静かに微笑む。
「では、次は死亡時刻だけ正確に管理して差し上げましょう━━」




