第二十一話 海は重りだけを返す 前編
海は天羽祈の死体を返さず、代わりに返したのは少年を海底へ沈めるために使われた重りだった。
午前六時四十七分。
冬の海から引き上げられた直方体が作業船の甲板へ鈍い音を立てて転がる。
工事現場で足場を固定するために使われる、鉄製のウェイトだった。
全体が赤黒く錆び、側面には貝殻が付着している。
一部には、劣化して白く濁ったナイロンロープが絡みついていた。
潜水士がマスクを外しながら息を吐く。
「供述にあった防波堤から南へおよそ三百メートル。岩の隙間へ挟まっていました」
火村はゴム手袋をつけ、重りの前へしゃがんだ。
「ロープは?」
「途中で切れています。これは自然に千切れたというより、なにか物凄い強い力で引き裂かれたように見えますね」
「そうか。人間の身体へ結ばれていたか分かるか」
「今の段階では何とも……鑑識へ回さないと」
森川が証拠写真を撮影する。
ロープの結び目には、海藻と泥が入り込んでいた。
その隙間に、黒い繊維が数本だけ残っている。
「これ……制服でしょうか」
「見ただけで決めるなよ若造」
「っ……! 分かっています」
森川は少しむっとした顔で、繊維の位置へ番号札を置いた。
坂口航平は工事現場から重りを盗んだと供述した。
五か月前、海岸から二キロほど離れた道路工事現場で同じ規格の重り二個が紛失している。
盗難届は出されていなかった。
現場監督が管理責任を問われることを恐れ、「数量の記載ミス」として処理していたためだ。
それでも当時の納品書と現在残っている在庫数を照合すれば、二個足りない。
海底から見つかった重りの製造番号も納品された品と一致した。
「坂口の作り話ではなかったな」
火村が呟く。
「少なくとも重りが盗まれて海へ捨てられたことまでは事実です」
森川は海面を見た。
「でも、天羽祈の遺体はありません……」
「生きて学校へ通ってるからな」
「誰かが助けたんでしょうか?」
「重りを括られて沈んでいく人間を、真夜中の海からか?」
「不可能とは言い切れません。偶然漁船が通りかかったとか」
「救助記録はない。近隣の病院にも身元不明の少年が運び込まれた記録は残っていない」
「まさか、本人が自力で?」
火村はロープの切断面を見た。
「頭と手足を鉄パイプで殴られた挙句に毒で身体を動かせず、重りをつけられた状態だぞ」
「では、どうやって……」
「それを調べるのが俺たちの仕事だ」
海岸から強い風が吹き、火村のくたびれたコートを鳴らした。
作業船の周囲では、二人の潜水士が再び海へ入る準備を進めている。
「供述では重りは二つです」
森川が言った。
「もう一つも、この近くにあるでしょうか」
「潮に流されたか、泥へ埋まったか。今日中に見つかるとは限らん」
「天羽の衣服や所持品は?」
「同じだ」
火村は立ち上がった。
「海は死体を隠したんじゃない。最初から隠す死体がなかった」
「坂口が嘘をついたと?」
「逆だろう」
火村は重りを見下ろした。
「あいつは……自分たちが天羽を殺したと本気で信じている」
遠くの水平線に朝日が滲んでいる。
それでも海面は静かなまま、何一つ答えようとしなかった。
* * *
同日の放課後。
祈は校舎一階の自動販売機の前でコーンスープを飲んでいた。
そしてもう片方の手には七緒から頼まれた買い物を書いたメモがある。
卵。
牛乳。
玉ねぎ。
食パン二斤。
最後に赤い文字で、〈買い食いは二つまで〉と書かれている。
祈は既に一つ目のコーンスープを飲んでいた。
規則を守るなら残りは一つしか許されない。
この世を破壊できる力を持ちながら買い食いの個数だけは自由にならない。
「天羽くん」
廊下の向こうから九条美玲が歩いてきた。
そしてその隣には葵もいる。
美玲の手には透明なファイルが抱えられていた。
「昨日話した匿名メールのこと、担当の先生へ確認してきたわ」
「そうですか」
祈はスープへ視線を落としたまま答えた。
「受信した原本は残っていなかった。警察へ提出したという記録だけ。学校のバックアップにも送信元を特定できる情報はなかったそうよ」
「念入りな迷惑メールですね」
「ただ、添付されていた購入履歴の画像には作成日時の情報が残っていたみたい」
美玲はファイルを開いた。
「カメラが発見される二日前に作られた画像だった」
祈が初めてファイルへ目を向ける。
葵はその小さな反応を見逃さなかった。
「それって誰かがカメラを見つける前から祈の購入履歴を用意してたってことだよね」
葵の声は控えめだった。
以前のように祈へ信じてほしいとも、何か答えてほしいとも言わない。
「その可能性はあるわ」
美玲が答えた。
「ただし、通販サイト側で自動作成された画像を誰かが保存していただけかもしれない。これだけでは意図的に事件を準備した証拠にはならないそうよ」
「誰が作ったかもまだ分からないんですね」
「ええ」
葵は小さく頷いた。
祈は空になった紙パックを潰し、ごみ箱へ入れた。
「ご報告は以上でしょうか」
「天羽くんは見なくていいの?」
美玲がファイルを差し出す。
「興味ありません」
「自分の事件でしょう?」
「現在の僕には夕食の材料の方が気になります」
祈は七緒のメモを見た。
「スーパーの特売は予想より早く終了しますので。それに家族を想う主婦の方々が競争相手なのでなかなか手強い」
美玲は呆れたように眉を下げた。
葵は何も言わなかった。
祈が自分の無実へ無関心なのではない。
無実を証明されたあとに戻る場所がもう存在しないのだ。
学校が謝罪しても、両親が間違いを認めても、自分が泣いて謝っても誰も信じてくれなかった過去は消えない。
だから祈は過去より七緒の待つ夕食を選ぶ。
その当然の選択が葵には痛かった。
「葵」
廊下の角から、一ノ瀬が現れた。
祈と美玲と一緒にいる葵を見た瞬間、口元に作っていた笑みが僅かに固まる。
「探したよ。連絡しても返事がないから心配した」
「ごめんなさい。九条先輩と先生のところへ行っていました」
「また、祈のことを調べてたのか?」
責めるような響きが混じった。
「少し記録を確認しただけです」
「俺に何も言わず?」
「一ノ瀬先輩に許可をもらうことではないと思います」
一ノ瀬の頬が引きつる。
そんなやりとりを聞いていた美玲が二人の間へ視線を動かした。
「結城さんから相談を受けたのは私よ。学校の記録に不備があったから確認していただけ」
「九条先輩には関係ありません」
「いいえ。生徒会へ保管された記録の確認は副会長である私にも関係があるわ」
一ノ瀬は言い返さず、葵の隣へ立った。
肩を抱き寄せるように手を伸ばすが、葵は反射的に身体を強張らせた。
「祈」
一ノ瀬は葵を自分の側へ引きながら、祈を見た。
「勘違いするなよ。葵は俺と付き合ってる」
「そうですか」
祈はそんな光景よりも七緒のメモを見ながら再度折り直した。
「何だ、その反応は」
「おめでとうございます。お二人のうち一人だけは讃美歌でも歌いそうなほど幸せそうですね」
「ふざけるな」
「おや、手拍子が必要でしたか?」
祈は両手に持っているものをわざわざ確認した。
「申し訳ありません。今はコーンスープとメモ用紙で両手が塞がっていたもので」
「お前ぇ……!」
一ノ瀬の声が低くなる。
祈が葵へ未練を持っていることを確かめたかった。
葵を手に入れた自分へ、嫉妬する顔を見たかった。
だが祈の目には羨望も怒りも浮かばない。
校内放送で生徒の呼び出しを聞いたときとほとんど同じ反応だった。
「悔しくないのか」
「所有を愛情と取り違える方を羨むほど僕の趣味は終わってません。推し活の方がまだマシです」
「葵は、お前のことが好きだったんだぞ!?」
その言葉に、葵の肩が震えた。
「先輩やめてください!」
「事実だろ? でも今は俺を選んだ。俺が葵を今まで支えてきたんだ!」
一ノ瀬は祈から目を逸らさなかった。
「お前が逃げたあとも、俺はずっと葵のそばにいた」
祈の内側で、昔の天羽祈の記憶が一瞬だけ開く。
逃げたのではない。
家を追い出され、河川敷で飢え、最後には一ノ瀬たちに殺された。
だが、その記憶は現在の祈の感情を揺らさなかった。
「ご立派ですね」
祈は静かに言った。
「自分で火をつけた家から住人を連れ出し、消防士を騙る方は初めて見ました」
一ノ瀬の顔から笑みが消えた。
「何が言いたい」
「いつもの笑みはどうしました? ただの例え話です」
「またそれか……!」
一ノ瀬の手に力が入る。
「痛いです、先輩」
葵が肩を押さえた。
一ノ瀬は手を緩めたが、離そうとはしなかった。
「葵も葵だ」
「え……?」
「俺と付き合ってるのに毎日祈のことばかり調べてる。元々好きだった男へ何度も会いに行くなんて……それって浮気じゃないのか?」
葵は言葉を失った。
「浮気って……これは、そういう話じゃありません」
「じゃあ何だよ」
「あの事件で、私が間違っていたかもしれないから……」
「俺より祈の言葉を信じるのか?」
「誰かを信じるだけで決めたくないって、前にも言いました」
「それは、俺を疑ってるのと同じだろ」
「どうしてそうなるんですか……?」
葵は戸惑いながら一ノ瀬を見た。
半年前、一ノ瀬は自分の恐怖を否定せず祈を疑うことを肯定してくれた。
それが葵にとっては救いに見えた。
だが今はその優しさが疑問を持たせないための蓋だったように思えてしまう。
祈と話すな。
調べるな。
自分を信じろ。
そして今度は浮気という言葉まで使って自分の行動を縛ろうとしている。
「一ノ瀬先輩の仰ることにも、一理あります」
祈が言った。
葵は驚いて彼を見る。
一ノ瀬も一瞬だけ表情を緩めた。
「ほら、祈だって━━」
「結城さん」
祈は一ノ瀬を無視して葵へ視線を向けた。
「なぜ、今さら調べているのですか」
葵の胸が強く締めつけられた。
「それは……私が、何をしたのか知りたいから」
「知って、どうなさるのです?」
「祈が無実だったなら学校にも警察にも話します。間違っていたことを認めて━━」
「それで?」
「それで……」
言葉が続かない。
祈は責める表情をしていなかった。
だからこそ、その質問から逃げられなかった。
「五か月前の僕が、その訂正を聞けますか」
「……できない」
「家を追い出された夜へ戻り、その玄関を開けられますか」
「できない……」
葵の目に涙が滲んだ。
「できない、けど……」
「なら無駄です」
祈は淡々と言い切った。
「今さら真相を知るのは葬式が終わってから救急車を呼ぶようなものです。独りよがりの善意だけは立派ですね」
「天羽くん」
美玲が制止するように名前を呼んだが、それでも祈は続けた。
「結城さんが調査によって救いたいのは、僕ではありません」
葵の頬を涙が一筋流れた。
「祈……」
「間違っていたかもしれないご自分です━━」
その言葉は、葵が最も見ないようにしていた場所へ届いた。
祈の無実を証明したい。
それは本心だった。
だが、その奥には別の願いもあった。
自分は証拠に騙されただけだと説明したい。
間違いを認めれば昔の関係に少しだけでも戻れるかもしれない。
祈にもう一度……葵と呼んでほしい。
結局━━、全ては自分のためだった。
「それでも……」
葵は涙を拭った。
「それでも、私は知らないままにはしたくない……!」
「それは五ヶ月前に思うべきでしたね」
祈はそれ以上の興味を失ったように、七緒のメモへ視線を戻した。
「それと、僕から感謝や許しが返ってくるとは期待なさらない方がいいです。後悔は立派な感情です、いつも役に立たなくなってから現れる点を除けば━━」
葵は頷いた。
傷ついた。
祈の言葉はあまりにも冷たかった。
それでも怒鳴られるより苦しかったのは、祈が本当に自分には何も求めていないことだった。
一ノ瀬が葵の前へ出る。
「もう十分だろ!」
廊下へ怒声が響いた。
「葵がここまで苦しんでるのに、何でそんな言い方ができる!」
「苦しませたくないのであれば、浮気などという安易で低俗な言葉で悲劇のヒロインを追い詰めなければよろしいかと」
「俺たちの問題だ! お前には関係ない!」
「先ほどから僕の前で交際を発表しておいて関係ないとは……頭が忙しい方ですね」
美玲が口元を押さえた。
一ノ瀬のこめかみに血管が浮かぶ。
「俺は葵を守ってるんだ!」
「そうでしたか。僕には支えているというより、リードの長さを調整しているようにしか見えません」
「黙れ!」
一ノ瀬が祈へ踏み込んで右手が制服の胸倉へと伸びるが、祈は一ノ瀬を見たまま避けなかった。
そして一ノ瀬の指が布へ触れる寸前、美玲が間へ入った。
「やめなさい、一ノ瀬くん」
「どいてください」
「校内で下級生に手を上げるつもり?」
「こいつが葵を侮辱したんです!」
「最初に結城さんを浮気だと責めたのは、あなたでしょう」
「九条さんには関係ない!」
一ノ瀬は拳を廊下の壁へ叩きつけた。
鈍い音が響き、近くにいた生徒たちが足を止めた。
祈は壁へ残った拳の跡を見た。
「おやおや、反撃されない相手を選ぶのがお上手ですね。感心します」
「お前ぇ……!」
「壁を殴って修理代を僕に請求するおつもりでしたか? ですがその程度では……自分の骨くらいしかヒビが入りませんね」
一ノ瀬がもう一度祈へ向かおうとする。
「先輩!」
葵が声を上げた。
一ノ瀬の動きが止まる。
葵は肩へ置かれていた一ノ瀬の手から、一歩離れた。
「今日は、一人で帰ります」
「葵、待ってくれ。今のはお前を守ろうとして━━」
「守ってほしいなんて言ってません」
一ノ瀬の顔が固まった。
「少しだけ、考える時間をください」
「何を考えるんだ? 俺たちは付き合ってるだろ」
「だからです」
葵はそれだけ言い、祈へは何も告げず廊下を歩きだした。
祈の横を通り過ぎる瞬間、顔を上げることができなかった。
一ノ瀬に交際を誇示されたとき、ほんの一瞬でも祈が悔しそうな顔をすることを期待した。
自分を失ったことを少しくらい惜しいと思ってほしかった。
でも祈の瞳には何も浮かばなかった。
そのことに傷ついた自分が何より恥ずかしかった。
五か月前、祈がどれほど傷ついても自分は一ノ瀬の胸元へ縋った。
今さら祈へ嫉妬を求める資格などない。
葵は涙を拭わず、そのまま階段を上がっていった。
美玲もファイルを抱え直す。
「一ノ瀬くん。今日は結城さんを追わない方がいいわ」
「あなたまで俺たちの間に入らないでください」
「たった今、あなたが廊下全体へ聞こえる声で話したのよ」
一ノ瀬は周囲を見た。
何人もの生徒がこちらを見ている。
優しい生徒会役員の顔へ戻ろうとしたが怒りで頬が痙攣し、うまく笑えない。
祈は自動販売機へ硬貨を入れた。
二つ目のコーンスープを買う。
「どこへ行く」
一ノ瀬が問う。
「スーパーです」
「葵が泣いてるんだぞ!」
「もうお忘れのようですが、今泣かせたのはあなたです」
「お前のせいだ!」
「先輩は恋人の所有権だけは主張するのに泣かせた責任は僕へ押しつけるのですね。さすがは理事長のご子息、すり替えが実にスマートです。Mr.◯リックに親子で弟子入りしてみては?」
祈は温かい紙パックを手に取った。
「七緒さんに頼まれた卵が売り切れますので、失礼します」
「待て!」
祈は振り返らなかった。
葵が一人で階段を上がったことにも一ノ瀬が壁を殴ったことにも、九条美玲が自分を見送っていることにも興味を示さない。
彼が気にしていたのは特売の卵と、七緒から許された買い食いが残りゼロになったことだけだった。
一ノ瀬は去っていく祈の背中を睨んだ。
祈から葵を奪ったはずなのに勝った感覚が一つもない。
むしろ交際を誇示したことで、葵の手が自分から離れていった。
怒りをぶつける相手を探し、再び壁へ拳を振り上げる。
しかし祈の言葉を思い出して動きを止めた。
『反撃されない相手を選ぶのがお上手ですね』
拳を下ろしても、敗北感だけが残った。
* * *
火村と森川が天羽家を訪ねたのはその日の午後五時だった。
住宅街の中にある二階建ての家。
庭は丁寧に手入れされ、玄関先には新しい防犯カメラが取りつけられている。
呼び鈴を押すと祈の母親がドアを僅かに開けた。
「警察の方が、今さら何のご用ですか」
火村が警察手帳を見せても、歓迎する様子はなかった。
「天羽祈さんが五か月間家を離れていた件で、お話を伺いたい」
祈の名前を聞いた瞬間、母親の顔が強張る。
「あの子が、また何かしたんですか」
「何か、とは?」
「盗撮のことです。学校で問題になったでしょう」
「現在、その件について再確認しています」
「証拠があったと警察の方が言ったんです。私たちは関係ありません」
母親はドアを閉めようとした。
火村は足を挟まず、言葉だけで止めた。
「十六歳の息子が数ヶ月の間行方不明だったのに、捜索願を出していませんね」
母親の手が止まる。
やがて家の奥から父親が現れた。
「近所の目があります。中へ入ってください」
案内されたリビングは不自然なほど綺麗だった。
家族写真は一枚もなく棚には夫婦二人分の食器だけが並び、三人で暮らしていた痕跡が見当たらない。
「祈さんが家を出た日のことを教えてください」
森川が手帳を開いた。
「自分から出ていったんです」
父親が即答した。
「学校で事件を起こしたあと、私たちへ暴言を吐いて家出した」
「当時十六歳です。行き先に心当たりは?」
「ありません」
「所持金は?」
「知りません」
「携帯電話の契約と銀行口座を止めていますね」
父親の眉が動いた。
「犯罪で使われないためです」
「では、どうやって生活すると考えていたんですか」
「それは本人が考えることです」
「十六歳の子供に?」
「あいつは子供の顔をした犯罪者だっ!」
父親が机を叩いた。
母親は止めず、俯いたまま口を開く。
「私たちも苦しんだんです。主人は会社で噂をされて、私は近所へ顔を出せなくなった。あの子一人のせいで……!」
「だから、家へ入れなかった?」
火村が尋ねるが二人とも答えない。
「鍵を交換し、荷物を玄関へ出したという話があります」
母親が顔を上げた。
「誰から聞いたんですか」
「否定しますか」
「しばらく離れて暮らした方が、本人のためにもなると思ったんです」
「宿泊先を用意した?」
「……いいえ」
「親戚へ連絡を?」
「していません」
「児童相談所は?」
「大げさにしないでください!」
母親の声が裏返る。
「あの子は自分で出ていったんです! 私たちを恨んで、困らせるために!」
「それで五か月間、一度も帰ってこなかった」
「そうです」
「それでも探さなかった」
「……」
「死んでいるかもしれないとは考えなかったんですか━━」
母親の顔から血の気が引いた。
父親が割って入る。
「今は生きているんでしょう。だったら何の問題がある」
火村の目が細くなる。
「生きて戻れば、子供を捨てた事実は消えると?」
「言葉に気をつけろ! 家庭の事情へ警察が━━」
「その家庭から十六歳の少年が五か月間も消えた。今は俺の仕事だ……!」
語尾を荒くした火村に父親は言葉を失った。
火村は落ち着いたトーンに戻り、質問を続ける。
「祈さんが戻ったと知ったのは、いつですか」
「警察から連絡が来た日です」
母親が答えた。
「知らない女の人が、あの子を連れてきたと……」
「和泉七緒さんですね」
「名前までは知りません」
「引き取りを拒否した理由は?」
「怖かったんです」
「何が?」
母親は自分の両腕を抱いた。
「電話越しに、一度だけ声を聞きました」
「祈さんの?」
「前と同じ声なのに……何かが違った。私を母親とも呼ばなかった。怒っても、泣いてすらいなかった」
「あなたは泣いてほしかったんですか」
「そういう意味ではありません!」
「では、どういう意味です」
母親の唇が震える。
「アレは……私の息子じゃありません」
部屋が静まった。
「なにを……顔も声も同じでしょう!?」
森川が言った。
「分かるんです。十六年育てたんですから」
火村は母親を見た。
十六年育てた息子に家の鍵を閉ざした人間の言葉だった。
「息子ではないなら、何だと思います?」
「知りません……!」
母親は激しく首を横へ振った。
「もう帰ってください。あの子には関わりたくないんです」
「こちらは関わる必要があります」
火村は立ち上がった。
「あなた方が捨てた少年を、海へ捨てたと告白した人間が現れました」
父親と母親の顔が同時に強張る。
「何を……」
「詳しいことは、まだ話せません」
火村は警察手帳をしまった。
「思い出したことがあれば連絡してください。今度は、息子の話を聞く前に扉を閉めないように」
返事を待たず、森川とともに家を出た。
玄関のドアが閉まる。
その直後、内側から鍵をかける音がした。
「今でも同じなんですね」
森川が呟く。
「何がだ」
「都合の悪いものを外へ出して、鍵をかければ消えると思ってる」
火村は振り返らなかった。
「鍵で締め出せるのは、人間だけだ」
「罪は残ると?」
「詩人にでもなったつもりか」
「火村さんに言われたくありません」
二人は車へ乗り込み、次の聞き取り先へ向かった━━。




