第二十話 殺した相手が生きている 後編
翌日の昼休み。
祈は生徒会室で九条美玲から聞き取りを受けていた。
机の上には三段重ねの弁当箱と、パンの袋が二つ置かれている。
美玲は祈の正面へと座り、ノートパソコンに内容を入力していた。
「まず、無断で撮影されたときにどんな気持ちになったか教えてもらえる?」
「カメラがケバブであればよかったと思いました」
「……真面目な聞き取りなのだけど」
「僕も真面目です。カメラよりカロリーが有益でしたので」
美玲は笑いそうになり、唇を結んだ。
「では質問を変えるわ。撮影を止めてほしいと言っても黒瀬さんはやめなかったのよね」
「はい」
「怖くなかった?」
「レンズを向けられただけで魂は吸い取られません。大昔の迷信です」
「でも何百万人もの人に顔を見られたのよ?」
「その大半は三日後、別の炎上Vtuberを見ています。人間の記憶力は金魚より長く、反省より短いものです」
「天羽くんって、ときどき高校生とは思えない話し方をするのね」
「高校生らしい話し方とは?」
「もっとこう……やばい、とか、うざい、とか」
「なるほど。スタッフがマジでやばくてぇ、鬼エグかったつーか、完全にあん時俺ドパガキだったわ」
「無理に使わなくていいわ」
「鬼勉強になりました」
祈は唐揚げを口へ運んだ。
美玲はパソコンへ視線を戻そうとしたが、正面にいる祈からなかなか目を離せない。
長く見つめるほど世界の中で彼だけが鮮明になっていく。
朝から何度も他の女子生徒に囲まれていたその理由を、美玲自身の身体が理解してしまう。
祈が顔を上げる。
目が合った瞬間、美玲は慌てて画面へ視線を落とした。
だが祈の方はそんな彼女の反応に何の興味も示さなかった。
「えっと、撮影される側として学校に求めることはある?」
「撮影禁止の紙を増やしても、読まない方は読まないでしょう」
「では、どうすればいいと思う?」
「他人の顔を保存する前にご自分の顔をインカメラで確認させるのはいかがでしょう」
「反省してもらうということ?」
「いいえ、加工前の己の間抜けな顔を見ることで撮影意欲が失わせます」
美玲はとうとう吹き出した。
「それ、生徒会のお知らせには書けないわね」
「残念です。即効性があるのに」
生徒会室の扉が遠慮がちに二度叩かれた。
「どうぞ」
美玲が答えると、葵が入ってきた。
祈と美玲が向かい合っているのを見て、一瞬だけ目を伏せる。
「九条先輩。昨日お願いした件ですが……今で大丈夫ですか」
「ええ。ちょうど確認できたところよ」
美玲は空いている椅子を示した。
「天羽くんにも関係することだから、ここで話していい?」
葵は祈を見た。
祈は彼女ではなく、弁当の煮物を見ていた。
「僕は構いません」
葵は祈から一つ席を空けて座った。
自分から彼へ話を聞いてほしいと求めるのはやめようと決めていた。
今はまず、半年前に何が起きたのかを確かめる。
その結果を祈へ押しつけずに自分で受け止める。
そうしなければ、また自分の不安を祈に片づけてもらうことになる。
「結城さんから、天羽くんの事件当日に学校が残した記録を確認したいと頼まれたの」
美玲が共有フォルダを開いた。
「生徒会の資料ではなく、当時の危機管理報告書が一部だけ保存されていたわ」
「見てもいいんですか?」
「個人情報があるから画面を撮影したり持ち出したりはできない。閲覧も本当なら先生の許可が必要よ」
「すみません」
「責めているわけじゃないの。私も気になったから確認しただけ」
画面には、事件当日の対応が時系列で記されていた。
午後二時三十八分。
女子更衣室から小型カメラを発見。
午後二時四十四分。
学校の代表アドレスへ、匿名の情報提供メールを受信。
午後二時四十九分。
天羽祈を関係生徒として理事長へ報告。
午後三時十六分。
教師が祈の鞄とスマートフォンを回収。
午後三時四十二分。
警察へ通報。
葵は時刻を何度も読み返した。
「祈の鞄を調べる前に学校は祈の名前を理事長に報告してる……?」
「匿名のメールにカメラの購入履歴と保存先の情報が書かれていたそうよ」
美玲が別の欄を示す。
「でも、そのメール本文と添付ファイルは残っていないの」
「どうしてですか」
「報告書には、警察へ提出済みとしか書かれていない。送信元のアドレスは使い捨て。学校側の受信データも保存期間が過ぎて削除されてる」
「誰が送ったかは……」
「分からないわ」
美玲は首を横へ振った。
「学校が名前を隠しているのか、本当に匿名だったのかも、この記録だけでは判断できない」
葵は画面を見つめた。
誰かがカメラの発見から六分後には、祈の購入履歴とクラウドの情報を学校へ送っている。
警察が端末を調べるより早い。
しかし送った人物も、入手方法も残されていない。
「これだけでは祈が送った可能性も否定できないんですよね」
葵は自分へ言い聞かせるように言った。
以前の自分なら、すぐに誰かを疑っていた。
でも今度は分からないことを分からないままにしておかなければならない。
「自作自演の可能性?」
美玲が尋ねる。
「はい。それに、本当に祈のことを知っていた誰かが送ったのかもしれない」
「そうね。今の段階ではどちらも可能性にすぎないわ」
美玲は画面を閉じなかった。
「ただ学校は匿名の情報だけで天羽くんを疑い、その情報がどこから来たのか確認した形跡がない」
その言葉を聞いても祈は食事の手を止めなかった。
「天羽くんは、このメールについて知っていた?」
「いいえ」
「気にならないの?」
「半年近く前の迷惑メールに返信はできませんから」
「そういう問題では……」
「誰が送ったかを知ったところで、当時の僕が家に戻れるわけでもありません」
淡々とした声だった。
葵は膝の上で指を握った。
祈が家を追い出されたあと、どこで眠り、何を食べていたのかを知らない。
自分は連絡を拒み、ブロックした。
今さら調査の進み具合を見せても彼が喜ぶ理由はなかった。
「ごめんなさい」
葵は小さく言った。
「何についてでしょうか」
「……今、ここで祈に何か言ってもらおうとしたこと」
「そうですか」
祈はそれだけ答え、白米へ箸を戻した。
許しも慰めもない。
葵が自分で気づいたことに評価を与える関心すらないようだった。
胸が痛んだ。
それでも葵は、以前のように答えを求めて食い下がらなかった。
「九条先輩。もし可能なら、匿名メールについて先生へ確認してもらえますか」
「ええ。ただし結論を急がないこと。誰かを疑う前に記録だけを確認しましょう」
「はい」
葵は深く頷いた。
美玲は祈へ視線を向ける。
「天羽くんも、何か思い出したことがあったら教えて」
「思い出す必要のあることは、すべて覚えております」
「それなら、話してくれてもいいでしょう?」
「話す必要を感じておりません」
美玲は少し困った顔をした。
「でも、自分の無実に関わることなのよ」
「事実は、僕に関係なく存在します」
祈は空になった二段目を閉じ、三段目を開いた。
「目を背けた方々だけでご確認ください」
葵は俯いた。
美玲も、それ以上は祈へ尋ねなかった。
しばらく、箸が弁当箱へ触れる小さな音だけが続いた。
「天羽くん」
美玲が時計を見て言った。
「聞き取りの続き、放課後にできる? お礼に駅前のカフェで何かご馳走するわ」
「本日はアルバイトです」
「その前に少しだけでも」
「七緒さんが賄いを用意して待っておりますので、寄り道は致しません」
それまで葵にも美玲にも変わらなかった祈の声に、ほんのわずかな温度が混じった。
美玲がその名前を繰り返す。
「……七緒さん?」
「ミモザの店長です」
「確か、一緒に住んでいる人よね」
「ボロ切れだった僕を拾い、食事と部屋を与えてくださった方です」
祈は時計を確認した。
「あの方との約束より優先する用事はありません」
美玲は祈の横顔を見た。
自分がどれほど話しかけても変わらなかった表情が、七緒という女性のことを語るときだけ僅かに人間らしく見えた。
「……大切な人なのね」
「恩人です」
祈は即答した。
その言葉以上の説明はしなかった。
だが、美玲には十分だった。
「分かったわ。では聞き取りはまた学校でお願いする」
「承知しました」
美玲が少し残念そうに微笑んでも祈は気づかない。
葵は二人の会話を黙って聞いていた。
美玲が祈へ近づくことには、胸の奥が落ち着かなくなる。
けれど、七緒の名前を聞いたときに生まれた感情は嫉妬だけではなかった。
自分が捨てた祈を、その女性は拾った。
食事を与えて住む場所を与え、学校へ戻れるようにした。
祈の中で七緒が自分より大切なのは、あまりにも当然だった。
悔しいと思う資格さえない。
「私は……先に戻ります」
葵は立ち上がった。
祈へ声をかけようとして、やめる。
今は何を言っても自分を見てほしいという願いが混じってしまう。
「九条先輩、ありがとうございました」
「また分かったことがあれば伝えるわ」
「お願いします」
葵は祈の返事を待たず、生徒会室を出た。
祈はその背中を見送らなかった。
三段目の白米を食べ終え、七緒が弁当箱の隅へ入れていた小さなメモを開く。
『今日は帰りに卵と牛乳を買ってきてください。買い食いしすぎないこと』
丸みのある七緒の文字だった。
祈はメモを丁寧に折り、制服のポケットへ入れた。
美玲の連絡先を書いた紙と同じポケットだったが、そちらには一度も触れなかった。
* * *
生徒会室から少し離れた廊下で一ノ瀬は葵とすれ違った。
葵は何かを考え込んでおり、すれ違う一ノ瀬には全く気づかなかった。
一ノ瀬はその背中を見送ってから生徒会室へ目を向ける。
扉はまだ閉じている。
中からは美玲の声が微かに聞こえた。
『匿名メールについては、担当の先生にも確認してみるわ』
一ノ瀬の指先が冷たくなった。
カメラが見つかった直後、祈の購入履歴とクラウドの情報を学校へ送ったのは一ノ瀬だった。
海外の匿名化サービスを経由し、使い捨てのアドレスも削除した。
添付した画像には祈の名前しか残していない。
自分へ辿り着く情報はないはずだった。
だから、まだ疑われてはいない。
葵も美玲も、学校の確認が不十分だったと気づいただけだ。
それでも、消したはずのメールがどこかへ残っている可能性はある。
警察へ提出された端末。
学校のバックアップ。
理事長室に保存された報告書。
どこまで父親が処理しているか、一ノ瀬は知らなかった。
スマートフォンを取り出して航平との会話を開く。
昨夜から、こちらのメッセージは一度も既読になっていない。
ほかの人間も返信をしない。
学校に残った記録。
警察へ話した航平。
そして、一度疑うことを覚えた葵。
一つ一つは、自分へ直接つながっていない。
だが細い糸でも、何本も束ねれば人間の首へと確実に巻きつく。
一ノ瀬は生徒会室の前から離れた。
まず匿名メールの保存先を父親へ確認する必要がある。
そのあと、航平をもう一度黙らせる。
葵には、祈を調べ続ければ自分まで傷つくと分からせる。
やるべきことを順番に並べると少しだけ呼吸が楽になった。
しかし階段を下りる途中、ガラス窓に映った自分の顔を見て足を止める。
笑顔を作ったつもりだった。
だが窓の中にいたのは、何かに追われ続ける人間の顔だった。
* * *
同刻━━。
県警本部の合同捜査室では火村が昨夜の記者会見について森川から文句を言われていた。
「神でも逮捕するって、何で勝手に宣言したんですか」
「質問されたから答えたんだよ」
「捜査本部に問い合わせが殺到してるんですよ。神様に手錠はかけられるんですかとか、逮捕状の住所は天国ですかとか」
「確かにそうかもな」
「真面目に聞いてください」
「真面目に答えたら広報が倒れるぞ」
火村は机の上の資料をめくった。
Elに関係すると思われる通報は一晩で千件を超えている。
自分がElだと名乗る者。
次に処刑されるのは自分だと訴える者。
嫌いな隣人を悪人として捜査してほしいと要求する者。
その大半は、事件と無関係だった。
「火村さん。駅前署から少し妙な相談記録が回ってきています」
森川が一枚の報告書を差し出した。
「El関連かもしれないというだけでこっちへ送られてきました」
「今度は何だ。煙を見たとか、鏡に殺されるとか?」
「高校生の自首です」
火村の手が止まる。
「昨夜七時過ぎ、坂口航平、十八歳。一か月前に同級生を集団で殺害し、海へ遺棄したと供述」
「被害者は?」
「生きています」
「……なに?」
森川が報告書を指差した。
「被害者の名前は、天羽祈━━」
火村は紙を取り上げた。
航平が話した内容が簡潔に記録されている。
毒物。
河川敷。
鉄パイプ。
ワゴン車。
そして海沿いの古い防波堤。
共犯者として挙げられた名前の中に、一ノ瀬真もある。
「本人は途中で供述を撤回しています。Elの処刑動画を見て、混乱して作り話をしたと」
「作り話にしては随分具体的だな」
「担当した片岡刑事も同じ意見です。それに、天羽祈が半年以上学校を欠席していたことは、一般には報道されていません」
火村は報告書から顔を上げた。
「━━半年以上?」
「事件が起きたとされる時期と天羽祈が行方不明になった時期はほぼ一致します」
「家族は、捜索願を出していないのか」
「出していません。学校には家庭の事情で休学すると説明されていたようです」
「半年の間もか?」
「はい」
火村は椅子へ深く座り直した。
ミモザの防犯映像が頭へ蘇る。
駐車場へ出た祈。
三秒間の暗転。
現れた黒煙。
事件前に口にした、カットステーキという言葉。
駅でも、祈が黒瀬莉愛の捏造を暴いた直後にElが現れた。
偶然。
その一言で片づけるには、重なりすぎている。
だが、華奢な高校生と物理法則を無視して人間を殺す黒煙を結びつける証拠はない。
火村は報告書へ視線を戻した。
「坂口は、天羽を殺したと話したんだな」
「はい」
「だが天羽は生きていて、昨日も学校へ行っていた」
「どちらかが嘘をついていることになります」
「普通ならな」
火村は鏡の中で人体がズレていく光景を思い出した。
空の貯水槽へ現れた底のない黒い水。
存在しない電車の中で、女の身体を固定した吊り革。
普通という言葉は、Elが現れてから何度も役に立たなくなっている。
「坂口の身柄は?」
「任意の聴取後、帰宅しています。今朝は学校を欠席」
「連絡は取れるのか」
「電話には出ません。自宅には家族がいますが、本人は部屋から出てこないそうです」
「一ノ瀬真は?」
「天羽と同じ高校の三年生。学校法人の理事長の息子です」
火村は立ち上がった。
「まず坂口の話を聞く。今度は途中で帰らせるな」
「ですが、まだ逮捕できる材料はありません」
「分かってる。任意で説得する」
「天羽にも聞きますか」
火村はすぐには答えなかった。
被害者が生きているなら、本人へ確認するのが最も早い。
だが祈が何も訴えていないことには、理由があるはずだった。
「先に周囲を固める」
「どうしてです?」
「彼が復学する前に集団で海へ沈められたという話が事実なら、天羽は完全に被害者だ」
火村は報告書を折らずに透明なファイルへ入れた。
「もし嘘なら、誰かがあいつを被害者役にしようとしている」
「どちらにしても、本人へ聞くべきでは?」
「いや、本人が一番大きな嘘を抱えている可能性もある━━」
森川が黙る。
火村は窓の外を見た。
冬の薄い雲の向こうに、灰色の海がある。
「海へ沈めた場所を特定するぞ」
「一か月前ですよ? 今さら何か残っているでしょうか……」
「いや、海は人間より口が堅い」
火村は傷の残る拳を握った。
「だが、嘘まで守ってくれるとは限らん━━」
* * *
その日の放課後。
祈は一人で校門を出た。
九条美玲は担当教員に匿名メールの保管状況を確認している。
葵は図書室で、半年前の校内新聞を調べている。
一ノ瀬は教室から出てこなかった。
祈は彼らの行動を詳しく知らない。
神は全知ではない。
自分の見ていない場所で交わされた会話も、警察署へ残された記録も知識として流れ込んではこない。
ただ、校門の近くに停められた一台の車には気づいた。
運転席に、火村が座っている。
目が合う。
火村は車を降りなかった。
祈も立ち止まらない。
互いに何も言わず、視線だけが数秒重なった。
火村の助手席には透明なファイルが置かれている。
祈の目なら距離があっても表紙の文字を読むことができた。
〈坂口航平による殺人告白について〉
祈は表情を変えなかった。
そのまま歩道を進み、コンビニの前で足を止める。
新発売の肉まんが二十円引きになっていた。
祈は店へ入った。
火村は車内からその背中を見つめていた。
「自分を殺したと告白した人間が現れたっていうのに……」
助手席で森川が呟く。
「本人は肉まんですか」
「知らないだけかもしれん」
「なら、教えます?」
「まだだ」
「どうして?」
コンビニのガラス越しに、祈が肉まんを五つ注文している。
店員の女性は祈の顔を見たまま一度聞き返し、慌てて保温器を開けた。
火村は報告書の最初の一文へ視線を落とす。
『俺たちは、天羽祈を殺しました』
「殺した相手が生きているなら、普通は殺人じゃない……」
「そうですね」
「だが、坂口の話が本当なら━━」
祈が店から出てきた。
紙袋から肉まんを一つ取り出して何事もなかったように口へ運ぶ。
その姿はどこから見ても普通の高校生だった。
だが普通という言葉が今の火村には最も信用できなかった。
「あそこにいる天羽祈は、一度死んだことになる」
祈は火村の車の横を通り過ぎた。
すれ違う瞬間、窓越しに小さく微笑む。
それが挨拶なのかあるいは、火村が何を調べようとしているのかすべて知っている者の笑みにも見えた。
だが火村が車を降りたときには祈はもう人混みの中へ消えていた。
紙袋から立ち上る白い湯気だけが、冬の空気へ細く残っていた━━。




