第十九話 殺した相手が生きている 前編
午後七時十三分。
駅前警察署の自動ドアをくぐった一ノ瀬の仲間、坂口航平は、受付にいた制服警官へ声をかけた。
「人を、殺しました……」
掠れた声だった。
一度目は聞き返された。
だが航平がもう一度同じ言葉を口にすると、警官の表情が変わった。
「それはいつ、どこでですか」
「先月……河川敷で殴って、そのあと海へ」
「被害者の名前は分かりますか」
「天羽祈……です」
名前を告げた瞬間、航平は背後を振り返った。
自動ドアの向こうには仕事帰りの人々が行き交っている。
黒い煙も、鏡の檻も、透明な電車も現れていない。
それでも夜の隅々からElに見られている気がした。
「年齢と、あなたとの関係は?」
「十六歳。俺たちの高校の二年です」
「俺たち、というのは?」
「他にも三人……いました」
警官は航平を受付前に立たせたままにしなかった。
すぐに奥の部屋へ案内し、別の警察官を呼んだ。
スマートフォンと所持品を机へ置かせ、逃げ出したり自分を傷つけたりしないよう少し離れた場所から様子を見ている。
十分後━━。
航平は狭い聴取室で二人の刑事と向かい合っていた。
一人は五十代ほどの男性刑事。
もう一人は記録を担当する若い女性警察官だった。
「私は生活安全課の片岡です。まず、落ち着いて話してください」
片岡は穏やかな声で言った。
「あなたの名前と生年月日から確認します」
航平は質問へ一つずつ答えた。
十八歳。
高校三年生。
一ノ瀬真とは中学時代からの知り合い。
そして天羽祈とはほとんど話したことがない。
「では、なぜ天羽さんを殺したんですか」
「それは……真に頼まれたからです」
「真というのは、話に出た一ノ瀬真さん?」
「はい」
「どう頼まれたんですか」
「盗撮の犯人がまだ葵につきまとってる。懲らしめたいって……」
「葵さんとは?」
「結城葵。天羽の幼馴染です」
航平の声は小さかったが話の内容は具体的だった。
去年十二月の夜、一ノ瀬が祈へ毒入りの弁当を食べさせた。
身体が動かなくなったところを自分を含む三人が取り囲んだ。
腹を蹴って鉄パイプで腕と脚を集団で殴った。
祈が動かなくなったあとら工事現場から盗んだ重りを身体へ括りつけた。
車のトランクへ押し込み海沿いの古い防波堤まで運び、そして四人で祈の身体を海へ落とした。
女性警察官の指がキーボードの上で一度止まった。
「使用した車は?」
「俺の兄貴のワゴンです。免許取ったんで勝手に借りました」
「車種と色は?」
航平は答えた。
「鉄パイプは今どこに?」
「真が捨てました。動画も消せって言われて……」
「動画を撮影していたんですか」
「はい」
「誰の端末で?」
「俺のです。でも、もうありません……。怖くなって機種ごと川に捨てました」
片岡は航平の顔を見ていた。
彼に酔っている様子はない。
薬物による異常な興奮も見られない。
言葉に詰まることはあっても場所や順序の説明は一貫している。
ただ、一つだけ致命的な問題があった。
「坂口さん」
「はい」
「天羽祈さんが死亡したと、どうして判断したんですか」
航平の喉が動いた。
「動かなかった。呼んでも、殴っても……何も……」
「病院へ運んだわけではない」
「運べるわけないでしょ……!」
「声を荒らげないで。確認しているだけです」
「俺たちが、あんなことをしたあとで……」
航平は両手で頭を抱えた。
「海へ落としたら、死ぬに決まってる……決まってるんだ……!」
「つまり、死亡を確認した医師はいない」
「そういう話じゃない!」
机の上に置かれた航平のスマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見て航平の肩が跳ねる。
着信、一ノ瀬真。
片岡も着信表示を確認した。
「出なくていいんですか」
「……いいです」
航平はスマートフォンを伏せた。
着信が切れるが、すぐにもう一度震え始めた。
片岡は若い警察官へ目配せする。
「天羽祈さんについて、こちらでも確認します」
警察官が部屋を出た。
航平は爪を噛みながら待った。
壁の時計の秒針だけがやけに大きく聞こえる。
スマートフォンは何度も震えた。
通話。
メッセージ。
また通話。
画面を見なくても誰が送っているか分かった。
やがて女性警察官が一枚の紙を持って戻ってきた。
片岡へ渡し耳元で何かを囁く。
片岡は紙を読み、航平へ向き直った。
「坂口さん。確認ですが、被害者は天羽祈さんで間違いありませんね?」
「何回聞くんですか……」
「写真を見てください」
机に一枚の印刷物が置かれた。
それは中央駅前で撮影された祈の姿だった。
片手にコンビニ袋を提げ、黒瀬莉愛のカメラへメニュー表を差し出している。
画面の端には撮影日時が記載されていた。
昨日。
午後六時五十七分。
「この人物ですか━━?」
航平の唇が震えた。
「……祈です」
「天羽さんは現在も同じ高校へ在籍しています。本日も登校し、授業を受けています」
「知ってるよ」
「知っている?」
「だから、俺は怖くなって来たんだ……!」
航平は椅子から立ち上がりかけた。
片岡が手で制する。
「座ってください」
「俺たちはあの夜、確かに海へ落とした! それなのにあいつは……あいつは、平然とした顔で学校に戻ってきたんだ!」
「落ち着いて」
「何もなかったみたいな顔で! 傷一つなく! まるで当たり前のように……!」
「では、殺人ではなく暴行や殺人未遂だった可能性は?」
「違う……」
「何が違うんです」
「あの夜の祈は、もう……絶対に……」
死んでいた。
その言葉だけが喉に引っかかって出てこない。
口にすれば聴取室の外から黒い煙が入ってくる気がした。
「生きている人間へ暴行し海へ投げ入れたのであれば、それも重大な犯罪です」
片岡は静かに言った。
「被害者が現在生きているから、何もなかったことにはなりません」
航平は顔を上げた。
「し、信じるんですか」
「信じる信じないの段階ではありません。あなたの話を記録し、裏づけを確認します」
「じゃあ、俺は……」
「今後、詳しい事情聴取が必要になるでしょう。ほかの関係者からも話を聞くことになります」
一ノ瀬。
その名前が航平の頭へ浮かんだ瞬間、スマートフォンがまた震えた。
今度は通知画面に文章が表示されている。
『今すぐ出ろ』
『祈は生きてる』
『お前が話せば、殺人犯になるのはお前だけだ』
続いて、新しいメッセージが届く。
『動画を撮ったのも、鉄パイプを持ってきたのもお前だ』
『俺は止めようとしたと言えばいい』
航平の呼吸が止まった。
実際には一ノ瀬がすべて計画した。
毒を用意し、車と重りを手配して祈を海へ沈めろと命じた。
だが、それを証明する記録は残っていない。
一ノ瀬の端末から送られたメッセージも、削除するよう指示されている。
残っているのは自分が兄の車を持ち出した事実と、工事現場の防犯カメラへ映ったかもしれない姿だけだ。
『理事長も弁護士も俺の味方だ』
『お前の家族まで終わるぞ』
航平はスマートフォンを握った。
片岡が画面を見ようとすると、反射的に胸元へ隠した。
「どうしました?」
「……帰ります」
「まだ話は終わっていません」
「全部……嘘です」
片岡の目が細くなる。
「━━今までの話が?」
「Elの動画を見て……怖くなって、混乱してただけです」
「ですが車種や場所、暴行の手順まで具体的に話しましたね」
「ネットの書き込みを見て考えました」
「天羽さんが半年以上学校へ来ていなかったことは、報道されていません」
航平は答えられなかった。
「一ノ瀬さんから何を言われたんですか」
「何も」
「メッセージを確認させてもらえますか」
「嫌です。任意なんでしょう」
片岡は否定しなかった。
「現在は任意です」
「なら、帰ります」
「あなたが今供述を撤回しても、ここで話した内容が消えるわけではありません」
航平の足が止まる。
「相談記録は残します。裏づけが取れれば改めて話を聞くことになります」
「でも、祈は生きてる……」
「生きている人間なら、何をしても犯罪にならないと━━?」
片岡の声には、初めて鋭いものが混じった。
「毒を飲ませ、集団で暴行し、海へ投げ入れた。その話が事実なら被害者が生きていようがいまいが、無かったことにはなりません」
航平は何も言えなかった。
「今夜は帰っても構いません。ただし、連絡が取れる状態にしておいてください」
「……はい」
「それと」
片岡は航平の目を見た。
「本当に命を狙われている、あるいは誰かに口止めされているなら次は嘘だったと言う前に、助けを求めてください」
航平は視線を逸らし、聴取室を出た。
自首は受理されなかったのではない。
自分から、真実を嘘へ戻したのだ━━。
* * *
警察署を出ると雨が降っていた。
航平は傘を持っていなかったので冷たい雨に打たれながら駅へ向かおうとすると、歩道脇へ黒い高級車が停まった。
後部座席の窓が開く。
「乗れよ」
一ノ瀬が座っていた。
航平は逃げるように周囲を見た。
警察署の入口には制服警官がいる。
ここで大声を出せば一ノ瀬は何もできない。
それでも航平はドアを開けた。
長年従ってきた力関係は警察署の前でも簡単には消えなかった。
車内へ入ると運転席には一ノ瀬家の運転手が座っている。
一ノ瀬は仕切りを上げて後部座席を外から閉ざした。
「何を話した」
「何も」
「嘘をつくな! 四十分以上いたんだぞ?」
「最後には全部嘘だって言った」
「最初に何を話したか聞いてんだよ!」
一ノ瀬が航平の胸倉をつかんだ。
そこにいつもの優しい顔はなかった。
「車のことは?」
「話した」
「鉄パイプは?」
「……話した」
「海は!」
「古い防波堤ってだけだ! 場所までは言ってない!」
一ノ瀬は航平を座席へ突き飛ばした。
「この馬鹿野郎が……!」
「俺は……お前みたいに平気な顔できないんだよ」
「祈は生きてる」
「そればっかりじゃねえか!」
航平が怒鳴った。
「生きてたら何をしてもいいのかよ! 毒を飲ませたのも、鉄パイプで殴ったのも、海へ落としたのも消えるのかよ!!」
「声を落とせ」
「お前が言ったんだろ! 祈さえ消せば全部終わるって!」
「実際、半年近く間は終わってた」
「終わってねえよ!」
航平は濡れた前髪を掻き上げた。
目の下には、何日も眠れていない濃い隈がある。
「生きてたなら、どうして今まで消えてたんだよ……!」
「怖くなって逃げてたんだろ」
「ならどうして傷一つなく、あの夜と同じ顔で平然と学校に戻ってきた……?」
「知るか。治療したんじゃないのか」
「誰がだ!?」
「誰かだよ!」
「どこの医者が海へ沈んだ人間を誰にも知らせず治すんだよ! しかもあんな無傷で!」
一ノ瀬の口が閉じた。
車の屋根を叩く雨音だけが、二人の間へ落ちる。
「祈は……俺たちを警察へ突き出そうともしない……」
航平の声が震えた。
「殴りかかってもこない。学校で会っても、まるで道に落ちてるゴミみたいに俺達を見るだけだ」
「……それがどうした」
「あんな事されて帰ってきた人間が、殺した奴らをあんな目で見られるのかよ!」
一ノ瀬は答えなかった。
「恨んでるなら分かる。俺たちを殺したいなら……まだ分かるんだよ」
航平は両腕を抱き、寒さとは違う……何かゾッとするような震えを抑えようとした。
「でも……あいつは何も感じてない。俺たちが次に何をするか知ってて、それを待ち構えてるみたいに見える。まるで、いつでも殺せるようにさ……!」
「Elの動画を見すぎだ」
「じゃあ……お前は平気なのか?」
「何が」
「今学校にいるアレが、本当に俺たちの知ってた天羽祈なのかよ……!」
一ノ瀬の背中を、冷たいものが這い上がった。
同じ疑問を、何度も考えないようにしてきた。
祈の顔は変わっていない。
声も、身体も、過去の記憶も天羽祈のものだ。
だが、ナニカが違う。
人間だった頃の祈は傷つければ泣いた。
葵に拒絶された日は、立っていることさえ難しいほど顔を歪めていた。
だが現在の祈には、傷をつけられる場所そのものが残っていない気がする。
「余計なことを考えるな」
一ノ瀬は、自分へ言い聞かせるように吐き捨てた。
「祈は生きてる。俺たちは誰も殺してない。警察にもそれ以上は言うな」
「Elに殺されたら?」
「殺されない」
「どうして言い切れる」
「俺たちのことを知るはずがないからだ!」
航平は一ノ瀬を見た。
「━━祈は知ってるぞ」
一ノ瀬の顔が強張る。
「当たり前だろ……? 被害に遭った本人なんだから……!」
「Elは、被害者が十三円で依頼した相手を殺すんだよな」
「祈が出品するわけない」
「何で?」
「それは……」
答えられない。
祈が自分たちを恨んでいない根拠など祈の無関心以外に存在しなかった。
その無関心こそが恐ろしいと今しがた航平に言われたばかりだった。
「もう俺に連絡するな」
航平はドアへ手を伸ばした。
「待て。ほかの二人にも余計なことを言うな」
「命令すんな」
「航平!」
「次に警察へ行くときは、俺はお前にメッセージを送らない」
車が赤信号で止まった瞬間、航平はドアを開けた。
後方から鳴らされたクラクションにも構わず、雨の中へ飛び出す。
一ノ瀬は追いかけなかった。
座席に残された水滴を見つめながら爪が掌へ食い込むほど拳を握った━━。




