第十八話 神にも単位が必要 後編
四時間目の現代社会は予定されていた教科書の範囲を変更して始まった。
担当の佐伯達也は、黒板に大きく二つの文字を書いた。
〈司法〉
〈私刑〉
四十二歳の中年男性で細い銀縁眼鏡をかけ、討論形式の授業を好む教師だった。
普段から死刑制度や少年法の議論を扱い、法とは感情から距離を置くための仕組みだと繰り返し教えている。
そしてElが現れてからは授業のたびにその処刑を明確に批判していた。
「今朝の報道を見た者も多いと思う━━」
佐伯は教室を見回した。
「Elはこれまで人間の法で裁かれなかった者を狙っている。だから正義だ、被害者の味方だと支持する声もある。だが私ははっきり言っておく」
チョークが〈私刑〉の二文字を囲む。
「Elは殺人者だ。法治国家において、個人の判断で人命を奪う行為は決して認められない」
教室の空気が少し硬くなった。
Elを支持すると公言する生徒もいれば、処刑動画を見て眠れなくなった生徒もいる。
机の下で配信の切り抜きを見ていた男子生徒が慌ててスマートフォンを伏せた。
すると隣の女子生徒が手を挙げた。
「でも先生、黒瀬莉愛は無実の男性を死に追いやったじゃないですか。その上高梨さんの奥さんと娘まで殺されそうになってた。警察は助けてくれなかったのにElだけが無実を証明したんですよね?」
「黒瀬氏の罪と、Elの罪は別だ」
「でもElがいなかったらずっと痴漢にされたままだったかもしれません」
「だからといって殺していい理由にはならない。手続きに不備があるなら手続きを改善する。捜査が間違っていたなら再捜査する。それが社会だ」
教室の後方から小さな声がした。
「その綺麗事、被害者が生きているうちに間に合うと良いですね━━」
佐伯が振り返る。
祈は机の上に教科書を開き、その横で小さなチョコレートを口へ入れていた。
「天羽。何か意見があるなら皆に聞こえるように言いなさい」
「被害者が生きているうちにその改善が間に合うと良いですね、と申し上げました」
「皮肉のつもりか」
「願望です」
「では聞こう。君はElを正義だと思うのか?」
教室中の視線が祈へ集まった。
葵も、一ノ瀬から受け取った昼休みの呼び出しメッセージを閉じて祈を見た。
祈はチョコレートの包み紙を折り畳んだ。
「いいえ」
意外な返答に、何人かが顔を見合わせた。
佐伯もわずかに眉を上げる。
「では、Elの行為は間違っていると?」
「質問が雑すぎます。殺人であるかと聞かれれば殺人です。法に反するかと聞かれれば、反しています」
「なら議論の余地はない」
「では先生は法律に反するものはすべて間違いで、法律に従った結果はすべて正しいと教えているのですか?」
「そんなことは言っていない。法も完全ではない」
「追い詰められると途端に便利な言葉を使うのですね」
祈が微笑む。
「救えなかったときは不完全、殺人者を批判するときだけ絶対。女心よりコロコロ都合よく変わる基準です」
その皮肉に教室の何人かが息を呑んだ。
佐伯はチョークを置き、祈へ正面から向き直る。
「法が不完全だからこそ、一人の人間や正体不明の存在へ裁きを委ねてはいけないんだ。Elが間違えたら誰がその命を戻す?」
「戻せないでしょうね」
祈は即答した。
「死者は戻りません」
その声から、先ほどまでの軽い調子が消えていた。
「Elに殺された者も。そして法が間に合わず"死 ん で し ま っ た 者"もです」
教室が静まる。
「だからこそ法律は時間をかけて証拠を調べる。感情や世論で取り返しのつかない判断をしないために」
「高梨直人さんは、その裁判すら始まる前に社会から有罪判決を受けました」
「それは配信者と、無責任に拡散した人間の問題だ」
「警察は彼を勾留して勤務先は処分し、報道は彼の顔を流した。随分と人数の多い個人ですね、人はそれを集団と呼ぶのでは?」
「捜査には必要な━━」
「彼は留置施設で亡くなりました」
祈は佐伯の言葉を遮った。
声を荒らげてはいない、むしろ教科書の一文を読むように静かだった。
「鷺沢怜央に殺された水瀬咲良さんは、警察にも学校にも教育委員会にも訴えました」
「白石美月さんは、教師へ恐喝の相談をしようとしてあの貯水槽で殺されました」
「高梨直人さんは、触っていないと九日の間ずっと訴え続けました」
まるで机の上に三人の名前が一つずつ置かれていくようだった。
「先生が、最も尊重する手続きの中で三人とも亡くなっています」
「だからといってElの殺人が正当化されるわけではない!」
「正当化はしておりません」
「なら、何が言いたい」
「Elを怪物と呼ぶだけで授業が終わるなら、随分と簡単な現代社会だと思いまして」
祈は小首を傾げた。
「怪物が来る前に、誰がその扉を開けさせたのかは試験範囲外ですか?」
佐伯の表情が硬くなる。
「Elは恐怖によって人を従わせている。間違った行為をすれば残虐に殺される。その社会が正常だと思うのか」
「罰への恐怖で犯罪を抑止する仕組みは、現在の法律にも既にあります。死刑制度がその最たる物でしょう」
「裁判と公開処刑を同列に語るな」
「見た目は随分違いますね。片方は木槌、片方は黒煙です。但し、人は実体のない煙の方が怖いようですが」
「法には基準がある!」
「Elにもあるそうですよ」
その瞬間、葵はわずかに顔を上げた。
佐伯の目が鋭くなる。
「なぜ君が知っている」
「ニュースで連日解説されています。先生も教科書と赤旗新聞ばかり読んでないで、たまにはご覧になった方がよろしいかと」
教室に抑えきれない笑いが漏れた。
佐伯が黒板を強く叩く。
「笑うな!」
祈は何事もなかったように続けた。
「逃げ切った悪人だけを狙う。人間の法へ戻った者は殺さない。少なくとも、現在はそのように見えます」
「その基準を誰が保証する? El自身か? 独裁者が私は公平だと言っているのと同じだ」
「同感です」
またも意外な返答だった。
「Elが正しいと保証できる者はいません」
祈は佐伯の目を見た。
「ですが、人間の法が正しいと保証するのも人間です」
「だから三権分立があり、上訴制度があり、報道による監視がある。」「ですが、その一つである報道が冤罪を二千万回再生しましたね」※誤適用にご注意を※もしかしてなのですが、二人の科白がくっついてしまっていませんか? ひとつ前の科白が祈で、次が佐伯の科白ですので、やはり鉤括弧の誤消去かな? と。いかがでしょうか。
「一部の配信者を報道全体と混同するな!」
「では、一部の殺人者を見て被害者の訴えまで黙らせないでください」
佐伯が言葉に詰まる。
祈は机へ頬杖をついた。
「先生はElを嫌うあまり、Elに救いを求めた人間まで愚かだと思っていませんか?」
「いや、私は……殺人以外の道を選ぶべきだと言っている」
「先生はSNSで"戦争反対"とか当たり前の綺麗事を呟いてそうですね。彼らは選ばなかったのではなく、選べる道をすべて歩いたあとで見捨てられたのです」
「っ……それでも殺人は駄目だ」
「はい」
祈はあっさり頷いた。
「なので先生は、次の遺族が神に祈る前に助けてあげてください」
「……何?」
「死者に法の尊さを講義しても出席は取れません。ならば、彼らが死者になる前にあなた自身がチョークを持つ前にその手を彼らに差し伸べてください」
その言葉に教室が完全に静まり返った。
葵は祈を見つめた。
彼がElを擁護しているようにも、人間の法を捨てているようにも聞こえなかった。
ただ、助けを求める声を聞かなかった側に答えを要求している。
それは半年前、誰にも話を聞いてもらえなかった祈自身の言葉にも思えた。
佐伯は眼鏡を外し、眉間を押さえた。
「天羽。君は議論をしているのか、私を怒らせたいのかどちらだ」
「両立しないのですか?」
「廊下に立たせるぞ」
「教師が意見の異なる生徒を教室から排除する、思想が大変分かりやすい授業ですね。ヒトラーはどちらでしょうか」
今度こそ、教室中に笑いが起きた。
佐伯はしばらく祈を睨んだあと、怒鳴る代わりに深く息を吐いた。
「……分かった。座れ」
「既に座っているのでこれ以上座れません」
「黙れ、という意味だ!」
「最初からそう仰れば、授業時間を有意義に活用できましたね」
佐伯がチョークを折った。
それから授業終了まで、祈が指名されることはなかった━━。
* * *
昼休みになると祈の机は他学年の女子生徒に囲まれた。
駅の動画について尋ねる一年生。
現代社会の討論を廊下で聞いていた三年生。
無断撮影を注意する生徒会の活動へ参加してほしいと頼む九条美玲。
教室の男子たちは祈が大きな弁当を開ける場所すら残っていない様子を複雑な顔で眺めていた。
「天羽くん、彼女いるんですか?」
一年生の少女が、友人に背中を押されて尋ねた。
教室のあちこちで会話が止まる。
美玲まで返事を待つように祈を見た。
「いません」
短い答えに少女たちの顔が明るくなる。
「えっ! じゃあ好きな人は!?」
「人は食べません、生肉なら馬刺しが好きです」
「そうじゃなくて!」
「人間は関係を維持するのに時間が必要です。僕には三食の間にも補給という時間が必要ですので、両立は困難かと」
「私、料理できます!」
「私の家、パン屋です!」
「ウチのお姉ちゃん栄養士です!」
少女たちが一斉に名乗りを上げる。
「食欲を餌に捕獲しようとするのはちょっと……野生のクマでももう少し警戒します」
祈は彼女たちの隙間を抜け、ようやく弁当箱を机へ置いた。
教室の入口に葵が立っていた。
その手には昨日と同じように小さな便箋を持っている。
祈へそれを渡そうと思っていた。
しかし彼の机を囲む少女たちとそのすぐ隣に立つ美玲を見て足が動かなくなる。
「天羽くん」
美玲が祈の肩越しに弁当を覗き込む。
長い黒髪が祈の腕へ触れそうな距離まで近づいた。
「本当にすごい量ね。毎日これを食べるの?」
「毎日同じではありません。本日はローカーボです」
「え……これで?」
「早弁を二回済ませていますので」
美玲が声を立てて笑う。
祈も社交辞令のように薄く微笑んだ。
その瞬間、葵の胸の奥にあった濁った感情がはっきりと名前を持った。
焼けるような嫉妬だった。
美玲が祈のそばにいることが嫌だった。
祈が自分へは見せない柔らかな表情を向けたように見えたことがもっと嫌だった。
だが、その感情を口にする資格がないことも分かっている。
葵が祈を拒絶していた半年以上の間彼が誰と出会い、誰に助けられたのかも知らない。
自分は彼を一人にした。
なのに戻ってきた途端、誰にも近づいてほしくないと願っている。
「結城さん?」
祈の声がした。
気づけば、祈が葵を見ていた。
「入口を塞いでおりますが、ETCごっこですか?」
「違う……これを渡したくて」
葵は少女たちの視線を受けながら、机まで歩いた。
便箋を差し出す。
「三行にまとめたの」
「拝見します」
祈はその場で紙を開いた。
『小型カメラが注文された時刻を調べました』
『その時刻、祈は私と一緒に図書館にいました』
『少なくとも、祈が自分で注文したとは思えません』
祈は最後まで読む。
「そうですか」
「図書館の貸出記録も残ってた。防犯カメラはもう消えてたけど司書の人が私たちを覚えてる」
「一行超過です」
「ちがっ、今のは補足!」
「エッ◯スでしたら文字数超過してポスト出来てません」
周囲の少女たちが二人の会話を聞いている。
美玲は葵と祈を見比べた。
「二人は……幼馴染なの?」
葵が答えるより先に祈が口を開く。
「過去には」
たった四文字だった。
それだけで葵の表情が曇る。
「今は違うの?」
美玲が悪意なく尋ねる。
「現在は同級生です」
「……そう」
美玲は二人の間にあるものを察しそれ以上は聞かなかった。
葵は自分の指先を見つめた。
「祈。もし冤罪だって証明できたら、私のことをまた葵って呼んでくれる?」
祈は弁当の蓋を開けながら答えた。
「証明と信頼は別の問題です」
「分かってる。だから……少しずつでいい」
「僕に要求する前に、まずご自身が何を信じるか決めてください」
「っ……」
祈は葵を責めなかったが許しもしなかった。
それ以上の関心を示さず箸を手に取る。
会話が終わったことを理解し、葵はトボトボと自分の席へ戻った。
美玲とすれ違う際、無意識に相手の顔を見た。
綺麗だった。
大人びていて自信があり、祈に拒絶されても自然に笑っていられる。
自分にはないものばかり持っているように見えた。
それでも、葵はもう祈から目を逸らさなかった。
* * *
昼休みの終わり、一ノ瀬のスマートフォンへ一枚の写真が届いた。
送信者は、祈を殺した夜に一緒にいた仲間の一人だった。
写真には、駅前の交番が写っている。
『放課後、ここへ行く』
『全部話す』
一ノ瀬はすぐに電話をかけた。
呼び出し音が続く。
相手は出ない。
『やめろ』
『祈は生きている』
『事件になんてならない』
送信しても既読がつかなかった。
廊下の向こうでは、葵が教室へ戻るところだった。
その手に、祈へ渡したものと同じ便箋が見える。
一ノ瀬は葵を呼び止めた。
「葵、最近何を調べてるんだ?」
「祈の事件です」
「それはもう警察が調べたことだろ」
「でも、カメラが注文された時刻に祈は私と一緒にいました」
一ノ瀬の喉が乾く。
通販サイトのアカウントを使い、祈の名義でカメラを購入したのは一ノ瀬だった。
配送先は祈の家。
受取日時も、祈が部活で家にいない時間に置き配指定した。
母親が受け取るはずだった荷物を事前に盗み出した。
アリバイがあっても祈の家へ届いた事実は消えない。
そう分かっているのに心臓が速くなる。
「偶然、予約注文したのかもしれない」
「祈はその通販サイトを使ったことがないって言ってました」
「犯罪者は、そうやって嘘をつくものだろ」
言った瞬間、葵の目が冷たくなった。
「一ノ瀬先輩」
「何?」
「どうして、そんなに祈を犯人にしたいんですか……?」
一ノ瀬の表情が止まった。
「葵を守りたいからだよ」
「私を?」
「祈が戻ってきてから葵はずっと苦しんでる。俺は君がまた傷つくのを見たくない」
一ノ瀬はいつもの優しい先輩の顔を作った。
葵が泣けば抱き締めて怖がれば隣に立ち、祈を疑えば肯定した顔。
「もう調べるのはやめよう。俺を信じて」
以前ならその言葉だけで安心できた。
葵は一ノ瀬の手を見た。
祈が戻ってから先輩は何度も同じことを言う。
近づくな。
調べるな。
自分を信じろ。
だが一度も「祈が犯人だと分かる新しい証拠」を示してはいない。
「ごめんなさい」
葵は首を横へ振った。
「もう、誰かを信じるだけで決めたくないんです」
一ノ瀬の横を通り過ぎる。
呼び止めようとしたスマートフォンが震え、仲間から新しいメッセージが届く。
『Elに殺される前に話す』
『お前に止める権利はない』
一ノ瀬は画面を握り締めた。
仲間が警察へ行けば祈を海へ沈めた夜のことが明るみに出る。
葵が盗撮事件を調べれば自分が作った証拠へ辿り着くかもしれない。
そして祈の周囲には学年を問わず人が集まり始めている。
祈は何もしていない。
復讐を告げることも自分を脅すこともない。
ただ学校へ通い、食事をし、時折すらもこちらを見もしない。
それなのに一ノ瀬の足元だけが少しずつ崩れていく。
海へ沈めたはずの死体が、自分へ触れることなく人生を奪い返している。
一ノ瀬は初めて、祈に殺されることより先に葵から真実を知られることを恐れた。
* * *
午後七時。
《ミモザ》のテレビでは夜の報道番組が始まっていた。
店内には仕事帰りの会社員や家族連れが座って料理を待ちながら画面をている。
トップニュースはやはりElだった。
『警察庁は本日、各地で発生した一連の公開処刑事件について合同捜査本部を設置したと発表しました』
記者会見場には火村が座っている。
両手に巻かれていた包帯は薄くなったが、拳の傷はまだ残っていた。
記者から質問が飛ぶ。
『Elによってこれまで隠されていた犯罪が明るみになったことも事実です。警察はElを犯罪者と位置づけるのでしょうか』
「人を救ったかどうかと、人を殺したかどうかは別です」
火村は迷わず答えた。
「公開された証拠によって再捜査すべき事件はすべて調べ直します。警察や学校、行政に過ちがあったならそれも明らかにする」
『では、Elへの捜査も続けると?』
「当然です」
『相手は神を名乗り、銃器も物理的な障壁も通用しない存在です。逮捕できるとお考えですか』
火村は少しだけ眉を寄せた。
「神かどうかは、世間が勝手に言っているだけでしょう」
『ですが、映像を見る限り人間に可能な行為では━━』
「だから殺人を見逃せと?」
会見場が静まる。
「相手が人間なら逮捕する。神なら、神を逮捕する方法を探す。それだけです」
その発言はすぐに速報の見出しへ変わった。
〈県警刑事「神でも逮捕する」〉
ミモザの客席からどよめきと笑いが起き、料理を運んでいた祈もテレビへ目を向けた。
「格好いいじゃない」
カウンターの中で七緒が言った。
「火村さん。普通、あんなこと言えないわよ」
「捜査費が国民の血税でなければ、さらに格好いいんですけどね」
「すぐそういうこと言う」
「ですが、応援はしております」
「Elを捕まえることを?」
「不可能へ挑戦する姿勢を」
祈はミックスグリルを三番テーブルへ置いた。
いつも火村が座る席だったが、今夜は別の客が座っている。
テレビでは続いて街頭インタビューが流れた。
『Elがいなかったら悪い奴が逃げ得じゃないですか。俺は支持します』
『怖いです。誰が悪人かをあの存在が勝手に決めてるんですよね』
『自分は何もしていないから関係ありません』
『そう思っていた人が、黒瀬莉愛に痴漢へ仕立て上げられたんじゃないですか』
意見は割れている。
Elを救世主と呼ぶ者。
悪魔と呼ぶ者。
自分の憎い相手も殺してほしいと笑う者。
次は自分が選ばれるのではないかと怯える者。
模倣して、気に入らない同級生の持ち物を十三円で出品する者まで現れ始めていた。
番組は虚偽の依頼や根拠のない告発が急増していると警告する。
祈は客席を歩きながら人々の顔を眺めた。
処刑動画を見て興奮する会社員。
子供に見せないよう慌ててテレビから目を逸らさせる母親。
Elなら自分の上司も殺してくれるだろうかと冗談を言う若者。
誰もが神について語っている。
だが、その神がたった今彼らに料理を運んでいることには誰一人気づかない。
「祈くん、休憩入っていいよ」
七緒に言われて祈はバックヤードへ入った。
賄いの大皿パスタを受け取り、スマートフォンを開く。
一般利用者には見えない管理画面には、一日で出品された十三円の商品が並んでいた。
嫌いな教師の眼鏡。
別れた恋人からもらった指輪。
自分を叱った上司の名刺。
根拠のない憎悪や冗談半分の殺意。
そのほとんどは審理へ進むことなく灰色のまま消えていく。
神は全知ではない。
だから出品者の言葉を真実として鵜呑みにすることもない。
祈は画面へ指を滑らせ、虚偽の出品を一つずつ閉じた。
感情は動かない。
怒りも呆れもない。
ただ人間というのは誰もが裁きを望みながら、自分だけは裁く側に立てると考える生き物なのだと観察する。
画面の端に、新しい数字が表示されていた。
━━次回の執行期限まで、百六十五時間三十二分。
昨夜一人を処刑したばかりだ、まだ時間はある。
祈はスマートフォンを伏せ、大皿のパスタへフォークを入れた。
明日も体育がある。
現代社会の小テストもある。
九条美玲へ返事をし、葵の三行を読んで一ノ瀬の怯えを視界の端で観察する。
人類を滅ぼすよりも面倒な予定ばかりだった。
「神様にも、時間割は必要なのですね」
誰にも聞こえない声で呟く。
その直後、厨房から七緒の声が飛んだ。
「祈くん! 休憩中にパスタ五皿以上食べないでね!」
祈は目の前の一皿と、厨房に残る鍋の量を見比べた。
「……現代社会より、こちらの方が理不尽ですね」
テレビの中では人間たちが神の是非を論じ続けていた。
その神は、六皿目をどう確保するか考えていた━━。




