第十二話 正義のカメラは、嘘を映す 後編
女性の名前は高梨沙耶、二十八歳。
少女は五歳になる娘の花音。
夫の高梨直人は二か月前まで都内のシステム会社で働いていた。
事件が起きたのは、平日の午前八時十七分。
通勤客で混雑する駅のホームだった。
「この人、痴漢です!」
一人の若い女性が声を上げた。
直人が振り返るより先にスマートフォンを構えた三人組が駆け寄った。
その中心にいたのは私人逮捕系配信者の黒瀬莉愛。
登録者百二十万人。
自らを「女性の安全を守るフェミニスト活動家」「すべての女性の味方」と名乗り、痴漢や盗撮犯を捕まえる動画で人気を集めていた。
配信では女性が泣きながら直人を指差している。
『この人に触られました』
『俺は触っていない!』
『被害者が嘘をついてるって言うんですか?』
黒瀬は直人の腕をつかみ、カメラへ顔を向けた。
『妻子持ちの会社員が、若い女性へ痴漢です! こういう男が家庭では良い夫や父親のふりをしてるんですよ!』
直人の社員証、結婚指輪、鞄から覗いた娘の絵。
本人が隠そうとしたものほど黒瀬は丁寧に撮影した。
駅員と警察官が到着するまでの十四分間、直人の顔は一度たりとも隠されなかった。
動画はその日のうちに五百万回再生され、彼の勤務先も自宅もすぐに特定された。
会社には抗議の電話が殺到し、直人は処分保留のまま自宅待機を命じられた。
沙耶のアカウントには痴漢を育てた妻、夫の性癖を知っていた共犯者、などという言葉が送られた。
花音が通う保育園の名前までも晒された。
そんな中でも直人は一貫して否認した。
『女性には触っていない』
『あの配信者たちは最初からカメラを回して待っていた』
『捕まえられたあと、動画を公開されたくなければ罪を認めろと言われた』
だが、切り取られた映像の中では否認する声さえ反省のない痴漢の言い訳として使われた。
勾留九日目。
直人は留置施設の中で自分の衣服を使って命を絶った。
遺書と呼べるものはなかった。
だが事情聴取の際に渡された紙の余白に短い文章だけが残されていた。
『僕は触っていない』
『沙耶、信じてくれてありがとう』
『でももう限界だ』
『花音に、お父さんは悪いことをしていないと伝えてほしい』
『すまなかった』
被疑者が死亡したことで裁判は開かれなかった。
有罪判決も、無罪判決も存在しない。
それでもインターネットの中で直人は死ぬまで罪を認めなかった卑劣な痴漢とされた。
そして黒瀬莉愛は追悼配信を行った。
『命を絶ったことは残念です。でも、それと被害女性が受けた傷は別問題です』
『加害者が死を選んだからといって罪が消えるわけではありません』
配信には広告がついており、関連動画の合計再生数は二千万回を超えた。
沙耶が夫の無実を訴えると黒瀬はその投稿すら配信で取り上げた。
『奥様も被害者なのかもしれません。でも、まず守られるべきは痴漢被害に遭った女性です』
その言葉を合図に沙耶と花音への攻撃はさらに増えた。
自宅の玄関に赤い塗料で〈痴漢の家族〉〈出て行け〉と書かれ、花音の写真には犯罪者の娘という文字が添えられた。
危険が迫り、心身共に耐えられなくなった沙耶は娘を連れて家を出た。
行く場所を決められないまま車を走らせ、深夜まで営業している《ミモザ》へ入ったのだった━━。
* * *
花音が眠ったあと、七緒は空いているソファ席へ毛布を敷いた。
沙耶は何度も頭を下げた。
「本当にすみません。始発が動いたら出ますから」
「朝までいて大丈夫ですよ。外にはあの通り変な撮影者もいますし」
「でもこれ以上お店に迷惑をかけられません」
「もう駐車場で人が殺されてるから今さら少しくらい野次馬が増えても誤差ですよ」
「店長、その励まし方は接客業として正解なのでしょうか。正解なら今すぐメモらせて下さい」
祈は冗談っぽく、ポケットからメモとペンを取り出そうとする。
「祈くんは厨房へ戻ってなさい」
「すみま㌢……」
「なんかいった?」
七緒は祈の背中を押した。
沙耶は泣きながらほんの少し笑った。
花音を横に寝かせると、再びスマートフォンを開く。
黒瀬莉愛の新しい配信が始まっていた。
『今夜も駅前をパトロールします。女性の安全を守るため、私たちは屈しません』
コメント欄には黒瀬を称賛する言葉が流れている。
〈莉愛さんこそ本物の正義〉
〈警察より頼りになる〉
〈痴漢をどんどん晒して〉
〈高梨直人の妻がまだ無実とか言ってるらしい〉
〈娘もろとも消えればいいのに〉
沙耶は配信を閉じ、ブラウザの検索欄に《エルカリ 十三円》と入力する。
鷺沢怜央。
久世蓮司。
どちらの事件でも遺族が被害者の遺品を十三円で出品したという噂が広がっていた。
正式な依頼方法だという保証はないし、出品してもElが見るとは限らない。
見たとしても自分たちの願いが正しいと判断されるか分からない。
それでも、もう沙耶には他に縋れるものがなかった。
警察に配信前の映像を調べてほしいと頼んだ。
駅員には防犯カメラを保存してほしいと頭を下げた。
弁護士を通じて黒瀬へ動画の削除を求めた。
だが返ってきたのは捜査中なので答えられない、保存期間が過ぎた、表現活動への不当な圧力には屈しないという言葉だけだった。
沙耶は左手の結婚指輪を外した。
夫の遺品として返された指輪と並べ、テーブルの上へ置く。
二つの指輪を、スマートフォンで撮影した。
商品名━━夫の結婚指輪。
商品の状態━━傷や汚れあり。
販売価格━━十三円。
説明欄へ文字を入力する。
『夫の高梨直人は、痴漢の冤罪をかけられました』
『配信者の黒瀬莉愛は、夫の顔、勤務先、家族の情報を全世界へ拡散しました』
『夫は最後まで、女性には触っていないと言っていました』
『勾留中、夫は自分の衣服を使って命を絶ちました』
『五歳の娘は、今も父親が帰ってくると信じています』
沙耶の指が止まった。
『お願いです、黒瀬莉愛を殺してください』
そう書こうとした。
だが、入力できなかった。
直人が望んでいたのは復讐ではない、ただ自分の言葉を信じてほしかった。
それを思い出した沙耶は最後の文章を消し、別の言葉へ書き直した。
『お願いです、夫が痴漢ではなかったと証明してください』
『娘に父親は悪い人ではなかったと伝えたいのです』
出品ボタンへ指を置く。
眠っている花音の手には三人家族を描いた絵が握られている。
「ごめんね、直人……」
沙耶はボタンをタップした━━。
* * *
厨房で五皿目のカツカレーを食べていた祈のスマートフォンが、短く震えた。
━━新しい商品が出品されました。
祈は画面を開く。
商品写真に写っていたのは二つの結婚指輪だった。
片方には細かな傷がつき、もう片方には小さな赤い塗料が付着している。
商品名━━夫の結婚指輪。
出品者━━高梨沙耶。
販売価格━━十三円。
祈は非公開資料を開いた。
高梨直人。
三十歳。
逮捕容疑━━迷惑行為防止条例違反。
処分━━被疑者死亡により不起訴。
死亡場所━━留置施設。
黒瀬莉愛が公開した配信映像、警察での供述、直人の勤務記録、駅構内にいた人間の移動履歴が並ぶ。
神は全知ではない。
消された映像を、存在しなかった場所から取り出すことはできない。
だが、残された断片を結ぶことはできる。
黒瀬の配信が始まった時刻は痴漢被害が申告される三分前。
撮影スタッフは偶然を装いながら最初から直人だけを追っていた。
被害を訴えた女性は、事件の一時間前に黒瀬のスタッフと同じ喫茶店へ入っている。
さらにその女性によく似た人物が別の名前で、二本の私人逮捕動画へ出演していた。
一件では盗撮被害者、もう一件では酔客に絡まれた女性。
いずれも黒瀬が駆けつける直前から都合よくカメラが回っている。
祈は動画を一時停止した。
駅の広告板に映り込んだぼやけた反射。
黒瀬のスタッフが女性へ何かを渡している。
金銭か、別の物かまでは判別できない。
黒瀬本人が冤罪を計画した証拠もまだ足りなかった。
画面の下にある購入ボタンは、灰色のままだった。
━━審理に必要な情報が不足しています。
祈は厨房から客席を見る。
沙耶はテーブルへ伏せ、眠る花音の手を握っていた。
娘の手の中にはもう戻らない父親の絵がある。
出品説明のどこにも黒瀬を殺してほしいとは書かれていない。
ただ夫の言葉を信じてほしい、父親を悪人のままにしないでほしい、それだけだった。
祈の指が、灰色の購入ボタンへ触れる。
反応はない。
審理には黒瀬莉愛本人の言葉が必要だった。
非公開資料の最後に黒瀬の配信予定が表示されている。
明日午後七時。
中央駅東口。
配信題目━━《女性の敵をその場で私人逮捕します》。
「素晴らしい、犯人が見つかる前から題名は決まっているのですね」
祈は最後のカツカレーを口へ運んだ。
「随分と都合のよい正義です。まるで預言者だ」
画面の中で黒瀬莉愛が百万人の視聴者へ微笑んでいる。
その笑顔のすぐ下に灰色の購入ボタンが静かに待っていた━━。




