第二話「最強の即興」
勇者というものは、地図を読まない。
正確には、読めるのに読もうとしない。レンが気づいたのは、森に入って一時間後だった。
街道を外れた獣道は細く、木の根が地面を盛り上げ、頭上では枝が空を塞いでいた。地図によればこの森を抜ければ次の街まで半日のはずだった。
のはずだった、という話だ。
「あの」
レンは恐る恐る口を開いた。
「勇者様、さっきの分かれ道なんですが」
「何か?」
「地図だと左のはずで、俺もそう思っていたんですが、勇者様が右に進まれたので……」
アルドは前を向いたまま、少し間を置いた。
「そうか」
「え?」
「間違えた」
レンは固まった。
魔法使いがため息をついた。盗賊が「またかよ」と呟いた。僧侶だけが「戻りましょうか」と穏やかに言った。
アルドはすでに踵を返していた。表情は変わっていない。間違えたことへの動揺も、気まずさも、何もなかった。ただ事実として述べて、修正する。その潔さが、レンにはなぜか少し腹立たしかった。
正しい道に戻って三十分後、魔物が出た。
暗がりがゆっくりと形を持ち始めた。四つ足、低い体躯、光を飲み込むような黒い毛並み。一匹ではない。レンが数えようとして、やめた。多すぎる。
「シャドウハウンドの群れ」
僧侶が低く言った。
「十四、五匹か」
「囲まれる前に——」
「待って」
アルドが片手を上げた。全員が止まった。
アルドは群れを見ていた。ただ静かに、品定めをするように。その横顔に焦りはなく、剣にもまだ手を伸ばしていない。レンは固唾を飲んだ。
かっこいい、と思った。こんな状況でも、乱れない。
「右の大木の根元に火球を一発。木じゃなく地面」
「根元?」
「燃やさなくていい。煙が出ればいい」
魔法使いは一秒考えて、頷いた。炎が凝縮され、放たれる。根元の枯れ草が勢いよく煙を上げた。
「その煙の手前で神聖魔法。強めに」
「煙に向けて?」
「乱反射する。目が潰れる」
白い光が煙の中で散乱し、森の一角が昼よりも眩しく弾けた。シャドウハウンドたちが一斉に顔を背ける。
「今だ!」
「もう動いてる」
盗賊はすでに走っていた。煙と光の境目、群れの注意が乱れた一瞬を縫うように、二匹、三匹と短剣で仕留めていく。音もなく、跡も残さず。
残りをアルドが正面から片付けた。剣を抜いたのをレンはほとんど見ていない。気づいたときにはもう、四匹が地に伏していた。
静寂が戻るまで、二分もかからなかった。
レンは呆然と立っていた。
煙、光、陽動、挟撃。まるで事前に打ち合わせていたかのような連携だった。羊皮紙を広げる暇もなかった。
「すごい……勇者様、あの采配はいつ考えたんですか。あの一瞬で」
アルドはレンを見た。
「歩きながら」
「歩きながら?」
「森に入ってから、ずっと木の配置を見ていた。囲まれたときの手順は、考えるまでもない」
考えるまでもない。
レンの胸が熱くなった。さっきの道間違いが、頭の中で急速に書き換えられていく。あれは凡ミスではなく、もしかしたら森の様子を確認するための——
盗賊が戻ってきた。
「ねえ勇者様、さっきの道間違い、本当に間違い?わざと別の道で下見したとか?」
アルドは一瞬だけ、盗賊を見た。
「ただの間違いだ」
「あっそ」
レンの書き換えが、静かに戻った。
休憩のため、一行は開けた場所に腰を下ろした。
レンはアルドの隣に座った。
「勇者様は……怖くないんですか。あれだけの数でも」
アルドは空を見ていた。
「怖いかどうかは関係ない」
「関係、ない?」
「怖くても対処する。怖くなくても対処する。同じことだ」
レンは黙って書き留めた。英雄とはそういうものか。深い言葉だ。
アルドはそのまま目を閉じた。
五秒後、寝息が聞こえた。
レンは固まった。魔法使いが通りかかり、アルドの顔を見て小さく肩を竦めた。
「戦う前から眠かったのよ、あの人。道を間違えて歩いた分、余計に疲れたんでしょ」
「それは……でも、あの采配は——」
「才能ってそういうものじゃない?」
魔法使いは興味なさそうに言って、地図の方へ戻っていった。
レンはしばらく、寝ているアルドを見ていた。
口が少し開いている。
道を間違えて、それを秒で認めて、魔物を二分で片付けて、五秒で寝た。事実だけ並べると、何が残念で何がすごいのか、レンにはよくわからなくなってきた。
記録帳を開いた。
第九十四日。戦闘、完勝。勇者様の指揮、完璧。なお出発直後に道を間違えていた。本人、特に気にしていない様子。戦闘後、五秒で就寝。
書いてから、最後の二行を少し眺めた。
消さなかった。




