第3-9話 出会い
始まりは些細なことだった。それこそ、当時は何かが始まったことなんて、まったく気付きもしなかったほどに。
一昨年の秋の暮れのこと。
高校から帰ってくると、ブルーメの店の前で寒そうに身を縮めながら箒で落ち葉を掃いている人がいた。
それは、よく見る光景だった。私の家は店の裏にあるから、学校帰りやちょっと出かける際などにバイトの人とすれ違うことはよくあったのだ。
だから、その時は何の感慨も抱かなかったし、ちらっと目が合ったけど言葉を交わしたりすることもなく、軽く会釈をしただけだった。慶太さんの名前だって、つい最近になるまで知らなかったくらいだ。
慶太さんの方も、私の印象なんて大してなかったと思う。今でこそ髪を染めたり化粧したりしてるけど、当時の私は本当に地味だったし、愛想も良くなかったから。
出会いとも呼べない出会い。
――でも、それが今日に至る始まりだった。
とにかくその時はまだ、私にとって慶太さんはそういう記憶にも残らないその他大勢の人たちの中の一人でしかなかった。
そんな慶太さんが私の中で、そういう雑多な存在から少し外れることになったのは、去年の夏のある小さな出来事がきっかけだった。
その日は朝はカラッと晴れていたのだけど、昼を過ぎたあたりから徐々に雲が厚みを増してきて、私が予備校から帰る頃には今にも降り出しそうな空模様だった。
私は帰りのバスの中で、なんとか家に着くまでもってくれますようにと祈っていたのだけど、私の祈りは天には届かず、家まであともう少しというところでバケツをひっくり返したような雨が降り出してしまった。
天気予報なんていちいち確認してなかったから、私は傘を持ってきていなかった。
私はバスの中で叫びだしたい気分だった。ちょうどその頃、私は成績が思うように上がらなくて、焦りを感じていたのだ。
なんで私ばっかりがこんな目に……。
冷静になって考えると、天気に文句をつけるなんてこんなに馬鹿らしいこともないんだけど、受験勉強によるストレスと相まって、私はちょっとどうかしていたんだと思う。
でもさすがに公衆の面前でそんな恥をさらす真似は思いとどまり、仕方がないから家まで走って帰ることにした。
幸い、最寄りのバス停から家までの距離はそんなにない。走って帰ればものの一分もかからずに着く。
そう思ってバスから降りたのだけど、そこでふと、私と一緒にバスを降りた人の顔が目に留まった。見覚えのある顔だったけど、どこで会ったのかすぐには思い出せなかった。
少し考えて、ようやく店の前で何度かすれ違ったことがあることに思い至った。ウチの店でバイトしてる人だ――。
私が慶太さんの方を見ていると、慶太さんも私に気付いたみたいで目が合ってしまった。
慶太さんも私のことが記憶には残っていたようで、しばらく私の顔をじっと見ていた。
そして目を細めて少し何か考えるような表情を見せた後、
「……傘、貸すよ」
いきなりそんなことを言われた。
私はびっくりしながら、慌てて首を横に振った。
「いえ、いいです。家すぐそこなので」
慶太さんは、「あ、そうか……」なんて呟きながら、じゃあと中途半端な挨拶をして、そのまま傘を差して歩いていってしまった。
私はバス停に立ち尽くして、少しの間だけ立ち去る背中を眺めていた。
正直、慶太さんのせいで余計に雨に濡れてしまったのだけど、嫌な気持ちはしなかった。
その時から、私は慶太さんのことをぼんやり考え始めるようになったのだと思う。恋愛感情には至らずとも、店の前で見かけた時も他の人より心持ち丁寧に会釈するようになった。
そして先月の中頃、今日の私を決定づける事件が起こった。
大学帰りに友達とご飯を食べたその帰り。
私は自転車に乗っていたのだけど、遠見が丘中央公園の側で、ふいに女の子の声とそれに続く複数の男の下卑た笑い声が耳に入った。
気になって自転車を降り、こっそり公園の中を覗いてみると、少し離れたところに小さな女の子と体格のいい二人の男の姿が見えた。
どうやら、男たちが女の子に絡んでいるみたいだった。
私は胃がむかむかする感じに襲われるとともに、絡まれたのが自分じゃなかったことに少しだけホッとしていた。
三人の様子を伺いながら、私はどうしようか迷った。
警察とか呼んだ方がいいのかな……それとも、単にナンパしてるだけなら脈がないと思えばすぐ諦めるだろうし、放っておいていいのかな……。
迷ったのだけど、それでも止めに入る勇気は私にはなかった。
しばらく悩んだ後、やっぱり見捨てるのは気分が悪くて、結局私はケータイを取り出して警察に通報しようと思った。けれどちょうどその時、三人のところに誰かが近づいていくのが見えて、私はもう少し成り行きを見守ることにした。
視力だけはいい私だから、遠目にもそれが誰なのか分かった。ウチの店でバイトしてる、あの雨の日の人だ――
慶太さんは、男たちに何か話しかけたようだった。
内容まではさすがに聞き取れなかったけど、それで片方の男が先輩に向かって歩いて行った。
ダメ――
私はそう思って、咄嗟に止めに入ろうとした。
けど、すぐにもう一人の男がその場から立ち去り、慶太さんに近づいていった男もその後を追っていなくなった。
どうやら、何事もなく終わったらしい――
私はそこまで見届けて、男たちに出くわさないよう公園を迂回して家に帰った。
慶太さんに、“大丈夫でしたか?”なんて声をかけても良かったのかもしれない。
でも、できなかった。
私は一度、女の子を見捨てようかとさえ思ったし、慶太さんのように仲裁に入る勇気なんてとても持てなかったのだ。
それなのに、安全になってからのこのこ姿を見せるのはとても卑怯な気がした。
だから、その後どうなったのかは分からない。
きっと慶太さんのことだから、女の子をわざわざ家まで送ってあげたりしたんだと思う。
そう考えると、少し胸がざわついた。
――そう、気付けば私は慶太さんのことが好きになっていたのだ。
お父さんに慶太さんの特徴を伝えて名前を教えてもらったり、うまいこと会えないかと思って無駄に店の前を行き来してみたり。
そして、とうとう私は当時やっていたアパレルのバイトに嫌気が差していたのもあって、お父さんとお母さんに無理を言ってブルーメで働かせてもらうことにした。そこで私は、念願叶って慶太さんに出会うことができたのだ。
慶太さんは、私が思ってた通りの人だった。
シャイでぶっきらぼうだけど、とても親切で優しい人――。
私の想いは募る一方だった。
私はすっかり、恋をしていた。




