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お嬢様は恋煩い  作者: 霧原善光
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第3-1話 喫茶ブルーメ

 

 

 “働かざる者食うべからず”――俺はこの言葉を、幼少の頃から幾度となく聞かされて育ってきた。

 まったくもって世知辛い言葉ではあるが、どうしようもない正論だ。そして少なくとも今の俺が、汗水垂らしてアルバイトに勤しまなければ、来月の生活に多大なる影響を及ぼすことは火を見るよりも明らかだった。

 俺の偽らざる本心を言えば、無論働きたくない。働かずに生きていけるのであればそれに越したことはないと思う。

 仕事は人生に張りや彩りを与えるという人もいるが、なんなら俺は別に張りも彩りも必要としていない。それに人生を彩る術は、仕事以外にもたくさんあるはずだ。

 世の中には、極稀にだけど本当に働かなくても暮らしていける人だっている。

 例えば麻夕ちゃんなんてそうだろうし、琴葉さんやさゆりちゃんもそうだろう。

 だけど、俺はそうではない。残念ながら、そうではなかったのだ。

 だから俺は、今日もこうして労働に励むのだった。

 そう遠くない未来、今とは比べ物にならないくらい働かなければならなくなる日が来ることだろう。

 いや、自分の意志でその日を来させないといけないことは分かっている。俺も社会人になったのだから、親の手を借りずに一人で生きていかなければならないことは頭では理解しているのだ。

 ただ俺は、支えとなるモノもないままに、社会の荒波に乗り出す勇気を持てないでいた。

 単なる甘えだ。理解してくれなんて言うつもりはない。

 でも――願わくばもう少しだけ、心に火を点ける時間がほしかった。

 

 “喫茶ブルーメ”というのが、俺がこの町にやってきて以来、約二年半にわたってバイトを続けているレストランカフェの名前だった。

 気の好い夫婦が経営していて、大繁盛しているわけではないが、それなりにお客さんにも恵まれている。コーヒーとトーストがとてもおいしくて、バイトの時はいつも賄いが楽しみだった。

 この店でバイトをしようと思ったきっかけは、よくコンビニなんかに置いてあるフリーペーパーの求人誌だった。

 大学に入学して半年ほどが経った頃、いい加減バイトくらい始めないとなと思い立って求人誌を眺めていたのだが、その中にブルーメの求人があり、家から近いことと賄いが出るという理由で選んだのだった。

 他にも良さそうなところはいくつかあったが、就職難のこのご時世とはいえバイト先なんていくらでもあるし、適当に面接を受けてみてダメだったら次へ行こう、面接に受かっても職場の雰囲気が悪ければすぐに辞めようという完全に社会を舐めきった気持ちでとりあえず応募してみたわけだ。

 しかし面接の時、店長と奥さんは俺のうわべっつらの美辞麗句をニコニコして聞き続け、「いい子だねぇ」という言葉を連発した。

 まるで俺を仏の子か何かと勘違いしているのではないかといった有様だったが、ともかく俺はその面接に合格して、今日に至るまでせっせと働き続けてきたのだった。

 掛け持ちで他のバイトもいくつかやったことはあるが、どれもこれもあまり長続きしなかった。

 そんな中で、こんな俺がこの店だけはずっと続けてこれたのは、ひとえにこの店を経営する夫婦の人の好さによるものだった。

 勤務内容もそれほど過酷ではないし、シフト管理もしっかりしていてタダ働きさせられるようなこともなく、仕事場の雰囲気もまあまあ良好。これ以上恵まれたバイト先もそうそう見つかるまい。

 以前、急なシフトをお願いされた時も別に暇だったから入っただけなのだが、店長は「いつもすまないね」と言いながら、こっそり特別ボーナスをくれたりもした。大学を中退してへこんでいた時も、親身に相談に乗ってくれた。

 一番長いバイトということで頼りにもしてくれているし、正直俺はずっとここでバイトを続けたい気持ちだった。

 まあ、そんなことも言ってられないことはちゃんと分かっているけどさ。

 

 さて、五月晴れの眩しいある日のことだった。

 十四時も過ぎるとお昼時の忙しさも落ち着き、店内にはコーヒーを片手に本を読んでいる主婦らしき女性が一人いるだけとなっていた。

 俺は流しに積まれた食器を洗剤で洗い、ある程度たまったらまとめて洗浄機に入れる。

 洗浄が終わったものは、後輩の島田が布巾で拭いて水気を取り、食器ごとに決められた棚へ戻していく。

 島田は近くの大学の二回生で、ここでのバイトを始めて約半年になる。

 実家は田舎で農家をやっているらしく、長期休暇に里帰りしては、お土産に自家製の野菜を持ってきてくれたりしていた。

 茶髪で派手な身なりをしていて、見た目通り軽薄な男ではあるが、まあいいヤツだ。

「そういや先輩、一昨日合コン行ってきたんスよ」

 黙々と作業をすることに耐えられない性格なのか、島田は俺にもよく話しかけてくる。最初は多少面倒なヤツだとも思っていたが、なんだかんだで今では可愛い後輩だと感じていた。

「で?」

「一人めちゃくちゃ可愛い子がいたんスけどね。やっぱちやほやされてる感じがして、なんかお高くとまってるんスよねぇ。性格悪そうだったんでやめときました」

 なるほど……振られた、と言うよりは相手にされなかったのか。

 島田の見た目は悪くはない。頭は悪いが性格も悪くない。バカだけれどもクズではない。

 しかしだからと言って、女性にモテるかといえばそうでもないのだろう。

 島田から合コンの話や告白して振られた話は何度か聞いたことがあるけれども、成功した話は一度も聞いたことがない。

 それだけ女性にアタックして、失敗しても諦めずに挑戦していくその姿は、同じ男として少しは尊敬できる部分もある。

「しかもッスね、一緒に行った男の中に俺の知らないヤツもいたんスけど、そいつがずっと調子に乗ってて……」

 今度はその調子に乗ってた男とやらをこき下ろす作業が始まる。

 品性も語彙力も感じられない罵詈雑言を、俺は相づちも打たずに聞き流していた。

「そうだ! 先輩、今度一緒に合コン行きません?」

「行かない」

「えー、先輩彼女いないんだからいいじゃないッスかぁ」

「めんどい、金ない」

 そんな会話を繰り広げながら、俺たちは皿洗いを続けていた。

 するとそこへ店長が戻ってきた。

 昼の客入りが落ち着いてから、店長は奥の部屋で帳簿の整理をしていたのだ。

「お疲れ様。食器の片づけ、もう終わりそう?」

「ええ、あと二十分もあれば終わると思いますよ」

「さすがは石神君と島田君だね」

 そう言って、店長は人の好さそうな笑みを浮かべる。

 島田は「そんなでもないッスよぉ」なんて言ってあからさまに照れているが、俺も褒められて嫌な気はしない。

 口元を歪めながら顔を上げると、店長は何か言いたいことがありそうな表情で俺たちの方を見ていた。

 俺と目が合うと、店長は一度咳払いしてからゆっくりと口を開いた。

「えっとね……来週から新しいバイトの子、雇おうかと思ってるんだけど……」

「マジッスか!? 野郎ッスか? 可愛い女の子ッスか!?」

 興奮する島田に呆れつつ、俺は少し変に思っていた。

 これまで新しくバイトを雇う時は、前もって求人を出す旨を今のメンバーに伝えてくれていたのだけど、今回はそんな話を誰からも耳にしたことがなかったのだ。

 それに、バイトの人数は足りている。シフトが厳しいというようなことはない。

「一応女の子だよ」

 島田は目を輝かせて歓声を上げる。

 しかし、店長の言い方に俺はますます首を傾げる。“一応”って、どういう意味なのだろうか。

「急ですね」

 俺がそう言うと、店長はごめんねと謝った。

 いや、そんな責めるつもりはなかったんだけどな……。

「実はね、その新しい子っていうのがウチの娘なんだ」

 ああ――なるほど、合点が入った。

 店長夫妻には娘さんが一人いる。

 店長の自宅はこの店の裏にあったから、店の前を掃除している時に何度か顔を合わせたことがあった。

 なんだか地味な感じの女の子で、憂いを孕んだ暗い面持ちがウチの妹にちょっと似てるなって思った記憶がある。

 確か今年から大学生で……ってそういえば、その娘さん白桜学園じゃなかったっけ。

 三月に、娘が白桜に合格したって奥さんが珍しくはしゃいでいたような気がする。

 その時の俺は大学中退のことで気が病んでたし、正直あんまり興味もなかったから完全に聞き流していたのだけど。“白桜”の名も、麻夕ちゃんに出会うまではすっかり記憶から抜け落ちていた。

 けど、そうか……なんだか妙なところで繋がったな。やはり世間は狭いというかなんというか。

「そのね……娘がここで働きたいって言いだして。僕も最初は断ったんだけどさ。人は足りてるし、特別扱いみたいになっちゃうから。でも、どうしてもって頼まれて……」

 可愛い娘にせがまれて、断りきれなかったのか。

 まあ、俺としては何の問題もない。店長夫妻の娘であれば、そんなに感じの悪い女の子でもないだろうし。

「いいッスよ! ねぇ、先輩」

「ええ、俺もいいと思いますよ」

 俺たちがそう答えると、店長はホッとしたように微笑んだ。

「ありがとう。娘が迷惑かけると思うけど、よろしくしてやってね」

「モチッス!!」

 ぐっと親指を立てて応える島田。

 ――まったく、調子のいいヤツだ。でも、こんなふうに単純明快に生きていければ、幸せなのかもしれないな。

 まあ、こうなりたいとは思わないけどさ。

 

 

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