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運ばれてきた冷たい朝食を終えて、フィオレナはぼんやりと外を見ていた。何か行動を起こさなければ、と思う一方で、もう何をしても手遅れだという諦めもある。
(ひとまず今日は、初夜を終えた女として、あんまり派手に動かない方がいいのかな……)
昨夜、王が部屋にやって来たが、二人はただ静かに揉めただけで男女の夜の営みはなく、フィオレナの体は清いままだ。しかしスヴァログの思惑によって初夜は滞りなく済まされた、ということになっている。それによってフィオレナの周囲はめまぐるしく変化しているし、これからの彼女の行動をじっと観察している。懐柔できるのか、敵対するのか。みんながそれを見極めようと、緊張に包まれていた。
これからの息苦しい日々を思って、フィオレナは深いため息をついた。すると、静かだった部屋に控えめなノックが響いた。この伺うようなノックをする人物は、今のところフィオレナは一人しか知らない。
「どうぞ」
「しっ、失礼いたします」
入ってきたのはまだ初々しい少女だ。フィオレナの部屋付き侍女となり、洗濯女として働いている彼女の名は、パッツィー。青味がかった濃いグレーの髪の毛に茶色い眼がフィオレナの愛犬マヌエルを彷彿とさせるので、フィオレナは彼女を見るたび少し気持ちがほぐれるのだ。しかしパッツィーは気が弱いのか、いつもびくついて、他の先輩侍女たちにいいように使われてしまっている。
そんな彼女に手を貸したいのだが、何しろフィオレナはこの地では侍女たちにとっても敵らしく、そんなフィオレナに助けられてもパッツィーの立場をさらに悪くしてしまうだけに思えて何もできず、いつも歯痒い思いをしていた。
今日も少女はひどく怯えていた。しかし、ふと、フィオレナは違和感を覚える。今朝一番に部屋に来たよりも震えがひどいし、何より、彼女のお仕着せや髪が不自然に濡れていたのだ。いくら洗濯女とは言え、さすがに頭まで濡れることはそうそうない。
洗濯女としては遅い帰りだったので、他に侍女は今現在、部屋にいなかった。
「……あなた、そんなに濡れたままだと風邪をひくわ」
フィオレナは思わず声をかけてしまった。するとパッツィーはびっくと肩を揺らし、泣きそうな顔でフィオレナを必死に見上げている。
「もっ、申し訳、ありません。みっともない格好で、王妃様のお部屋に戻るべきではありませんでした……!」
そんなに怯えさせるほど自分は恐ろしいことを言ったのかと自信を無くしながらも、フィオレナが密かに妹のように思っている彼女にいつまでも怖がられるのは、悲しいものだ。これを機に仲良くなれないかと、なるべく柔らかい声と言葉を選んで、フィオレナは微笑んだ。
「いいえ、そんなことはいいのよ。それよりもあなたの身体が心配だわ。替えのお仕着せはある? 今すぐ髪を乾かした方がいいわ」
おろおろと目を泳がせて、パッツィーは困惑しているようだ。どう反応していいか分からないらしい。
「あの、お仕着せは、あとで着替えます。あの、私は、寒くないですから……」
平気です、と消えそうな声で言う。
パッツィーからの“関わらないで”という心の声が聞こえて、フィオレナは内心とても落ち込む。でも、それもそのはずで、フィオレナと仲良くなるようなことがあれば、彼女はきっとこの城で孤立してしまうのだろうから、護身の方法として彼女の態度は間違っていない。ただ、他の侍女たちよりも気が弱い一方で優しいパッツィーは、先輩たちほどにフィオレナを邪険には扱えず、困っているようだった。
ずるいと分かっていながらもフィオレナはその優しさにつけこんで、彼女と仲良くなりたいと思ってしまう。この拭いきれない孤独感から逃れたいと、望んでしまう。
「でも、どうしてそんなに水をかぶってしまったの? 何かあった?」
フィオレナの言葉に、パッツィーの顔がさらに強張った。青いお仕着せの端をシワになるくらい強く握りしめている。この様子で何もなかったはずがない、とフィオレナは確信した。彼女個人の仕事の失敗なら、まだいい。これがもし……フィオレナのあまり嬉しくない推測通りなら。彼女には話してもらわねばならない。
「あなたには不快かもしれないけど……何があったのか、話してくれないかしら。あなたの身に危険が迫っているなら、王妃として、私は放っておけないから」
王妃として、を少し強調すると、パッツィーはついに迷いはじめた。王の妻である者の言葉に不誠実に答えることは、それは王室を蔑ろにすることにもなりかねない。いくらフィオレナがこの国に憎まれていようと、国王に“抱かれた”王妃の言葉は、強い。特にパッツィーのような、真面目な者には重くのしかかる。
観念したように俯き、目を瞑ると、パッツィーは弱々しく話し出した。
「回廊で、あの……オレーシャ様たちにお会いして……」
「オレーシャ様に? 何かされたの?」
「あ、あの、一緒におりましたオレーシャ様付きの侍女なのです。洗濯桶を、蹴ってひっくり返されて、その……」
「まあ……なんてこと」
フィオレナは絶句した。オレーシャは、フィオレナにはまるで寛大で慈悲深い女神かのような顔をするが、食えない女だと感じていた。でもまさか、この気弱な少女をいたぶって楽しむほど、堕ちているとは思いもしなかった。
いくら直接に手を出したのが侍女だとしても、その場に自分の主人がいながらこんな仕打ちをしてしまえるなら、それはつまりオレーシャもそういうことを容認する程度の器量ということだ。
(私のとんだ買いかぶりだったわ……こんな卑劣な女に、私まで慈悲深い王妃を演る必要など、ない)
フィオレナが嫁いでくるまで、パッツィーはオレーシャの部屋付き洗濯女だったと聞いた。いやまして今は王妃付きの彼女に、無体を働くなど以ての外。
「話してくれてありがとう、パッツィー」
フィオレナがそう言うと、パッツィーは弾かれたように顔を上げた。自分の名前を、まだこの国に来て間もない主人が知っていたことに、さらにそれを呼ばれたことに、その上お礼まで言われたことに、心底驚いたのだ。
「わたくしに懸命に仕えてくれるあなたへ、そんな仕打ちをするということは、王妃であるこのわたくしを敵に回すということ。あなたには辛い思いをさせてしまったけれど、彼の方の本意を、これで伺い知ることができました」
パッツィーと仲良くなりたいというフィオレナの個人的願望から始まったことだったが、いま、フィオレナはひとつグウィネイラ国の王妃としての指針を見つけた。
異国から嫁いできた、グウィネイラに憎まれた王妃。普通の王妃に相応しい待遇が受けられなくとも、グウィネイラ王妃としてもティアータ王女としても、フィオレナは慈愛と威厳に満ちた存在であらねばならぬ。そう、目指すべき姿に気付かされた。
この国で侮られたまま、ティアータの再興など叶わない。そう分かったのだ。
「このまま泣き寝入りはさせないわ。わたくしは王妃、……立場の違いを、彼の方にはしかと理解していただかなくてはね」
憎しみのぶつけ合いも喧嘩も、得意ではないし好きでもない。ましてや女同士の戦い方など、フィオレナの知識には持ち合わせがない。
ただフィオレナの武器は、祖国への愛と、人間として目指すべきと思う良き理想、本音と建前を理解した上での強い正義感だ。
その清く崇高な精神が、フィオレナをして真の王族たらしめる所以だった。
こうして、グウィネイラの王城で、一つの小さな変革が起こる。けっして大きくないし声高に語られることでもないが、一国の腐敗をゆっくりと浄化する、小さな始まりとなった。




