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その朝、オレーシャは非常にご機嫌だった。昨晩スヴァログと熱い夜を過ごし、今朝は部屋の扉の前にオレーシャの大好きな白薔薇が置いてあったのだ。その白薔薇は温室で育てられた、スヴァログの亡き母が愛でた花。彼は時々、こうやってオレーシャにプレゼントしてくれる。今日はその薔薇を結い上げた髪に挿し、ドレスも白いものを選んだ。侍女たちもしきりにオレーシャを褒め称える。
「さすがオレーシャ様。今日はいつにも増して美しいですわ。まるで内側から光り輝くかのよう……」
「あらあなた、それはもちろん陛下の愛がオレーシャ様に注がれてらっしゃるからに決まっているじゃない!」
「本当に素敵。私たちの自慢のご主人様ですわ」
そんな侍女たちの言葉に気分もよく、朝食後の散歩に出かけた。庭の中に巡らせてある屋根つきの廊下を、お気に入りの侍女を伴って歩いていくと、すれ違う騎士や侍女、貴族たちも恭しく礼をしてくれて、今までとなんら変わりのない平穏にオレーシャは少しほっとした。
(王妃でなくとも、私の権威は変わらないわ……陛下の愛は、私のものだもの)
少しばかり胸を張り直し、庭の奥まで来た時だった。大きな洗い桶を隣に置いて、床に額づく一人の侍女がいた。彼女のお仕着せは深いブルーで、それは、王妃付の侍女であることを示す。その真新しい制服を身にまとっていたのは、つい先日までオレーシャの部屋付の洗濯女をしていた少女だった。普段なら、特に気に留めることなく素通りしていただろう。しかしその時、侍女は真っ白の布が入った洗濯桶と一緒に、そこにいたのだ。その白い布は、明らかにベッドシーツで。少しだけ、嫌な想像に逡巡した。そんな様子に気付いたせいなのか、オレーシャの一歩後ろに控えていた侍女がフンと鼻を鳴らした。
「あなた、こんな時間まで洗濯していたの? 相変わらずノロマなのねえ」
洗濯女は、主人を起こしベッドメイクをし、部屋の洗濯物を集めたらすぐに洗い場へ移動し仕事をする。たいていは2~3人で分担し、主人の朝食が終わるころには干し場に行き、戻ってくるのだ。今はもう、オレーシャの朝食後の散歩も後半だ。王妃の食事もとっくに終わっているはずだろう。そう考えると確かに少女の仕事は遅い。ただ、オレーシャは少し気になった。少女が持っていたのはシーツだけなのだ。他の洗濯物を預かった侍女が他にいる可能性が高い。嫌な予感がした。それに自分が勘付いてしまう前にここを立ち去りたい。そう思って、行くわよ、と言おうとするのと同時に、オレーシャのもう一人の侍女が口を出す。
「こんなに遅いんじゃ、いるのかどうか分からないわね!」
そういって、洗濯桶を蹴り上げた。かなり力を込めたらしく、桶はひっくり返ってしまった。少女は慌てて桶を持ち上げた。その時、オレーシャは見てしまった。真っ白なシーツに、落としきれない赤いシミがあるのを。それはもしかしたら、女性特有の“月のもの”かもしれない。でも、オレーシャの直感が訴えて仕方なかった。そのシミは、スヴァログがあの娘を抱いた痕跡なのだ、と。スヴァログは昨夜、オレーシャと肌を重ねたあと王妃となったあの娘と初夜を共に過ごしたのだと。それは慣例通りで、本来なら当たり前のことだ。だがオレーシャは、スヴァログのあの娘に対する姿を見て、どこか安心していた。あの貧相な異国の娘はオレーシャの敵ではない、と判断した。
(それが、なんてこと……! 昨日の婚儀といい、初夜のことといい、私の読みが甘かったというの?! 陛下と私は、もうずっと愛し合ってきた。私の立場を、あの娘に奪われてはたまらないわ……)
オレーシャは敗北感に煮えくり返る腹を隠し、少女に微笑みかけた。
「こら、後輩をそういじめるんじゃありませんよ」
「オレーシャ様……申し訳ありません。王妃様付となったのに、あんまり仕事が出来ないのではご迷惑だと思いまして。オレーシャ様のように、お優しい方ならいいのですけれど」
「あら、王妃さまはとても慈愛に満ちた方のように見えましたよ。ねえ、お前。そうでしょう?」
「は、はい……」
「陛下も、もしかしたら私をお忘れになってしまうかしら……ねえ?」
少女は見るからに狼狽えて顔色も悪い。シーツの有り様を見れば、昨夜スヴァログとフィオレナの間に男女の営みがあったことは確かだろう。だが、この王宮の中で一番力を持った女というのは、現段階ではまだフィオレナでなくオレーシャなのだ。しかし少女も、立場だけならオレーシャよりも上位である、自分の主人となった人を貶める発言も出来ず、オロオロと視線を泳がせている。
「へ、陛下は、立派なお方です。立場や見かけだけで、人を選ぶようなお方ではありません。きっと、本当に愛する人を特に寵愛してくださるのでしょうね……」
引きつった笑いを浮かべながらも少女はなんとか答え、オレーシャの反応を待っていた。自分という権力者にへつらうその姿を見て、少し、オレーシャの胸の内もすっきりする。
「そうね。私たち女はいつだって陛下を信じてお待ちするだけ……そのための努力は日々、怠ってはならないわね。……油を売ったわ。お前たち、行くわよ。あなたも早くお戻りなさいね」
ドレスの裾をわざとらしくさばいて、オレーシャは廊下の先を再び歩き始めた。ついてきた侍女たちも、あのシーツのことに気付いたようで、オレーシャをうかがう雰囲気をしていた。その態度に少し苛立ったが、ここで怒ってはいけないと言い聞かせた。それはつまり、あの小娘に敗北することのように思えた。
(大丈夫……陛下は、立場上あの娘を抱かねばならないだけ。心は私のものよ。昨夜も、愛していると言ってくれたもの……)
――オレーシャ、お前は本当にいい女だ。俺のことをよく支えてくれる。お前には辛い思いをさせるが、許してくれ、俺が本当に愛しているのはオレーシャだよ……。
そう囁いて、優しくも激しくオレーシャを貫く彼の体が、彼の心が、オレーシャは愛しくてたまらなかった。始まりは、そうでなくても。オレーシャは、スヴァログの男の魅力にすっかり虜にされていた。権力があって、その正しく効果的な使い方を知っていて、容貌も整って、優しさも強さも持ったスヴァログに、そうと自覚していなくてものめり込んだのはオレーシャ。しかし彼女から見たら、スヴァログも彼女を求め、彼女に夢中になっていると感じられた。二人の周囲の人々も、二人を微笑ましく見守ってくれているようだった。
だからオレーシャは自信を持ったのだ。そして同時にこの心地良い立場を失いたくないという恐怖も持つようになった。
(今回の障害は、想像以上に、難関かもしれないわ……)
そんなことを考えながら、散歩を終えて自宅に戻った。すぐに侍女たちが紅茶とお茶菓子を持って来てくれる。甘いものを欲して、すぐにお気に入りのクッキーに手を伸ばした。薄くオレンジ色に染められた包み紙を丁寧にはがす。
「……疲れたわ。少しの間ひとりにしてちょうだい」
重々しく息を吐くと、侍女たちはオレーシャの迫力に負けたのかすごすごと部屋を後にした。すぐ隣の部屋や、扉の外に待機されているのは変わらないが、それでいい。
(本当に、やることが早い……)
クッキーの包み紙をゆっくりと広げた。一見ただの紙だが、このクッキーの紙には秘密がある。オレーシャは包み紙を暖炉の火で炙った。少しして、文字が浮かび上がってくる。
(抜け目のない人……でもそんなところも彼の才能ね)
オレーシャはくすっと笑みをこぼし、包み紙を火の中に放り投げ、ひとときの静かな時間を楽しんだ。
昼食のあと、オレーシャはまた散歩に出かけた。たくさん着込んで、いつもの侍女を二人連れて、庭の奥にある小さなガゼボに赴く。人々に忘れ去られたらしいそのガゼボは白い支柱と屋根に蔦が絡まり、さらに生垣の陰にあるため、ちょっとした隠れ家のような感がある。
「……遅かったな」
そこには先客がいた。
「男を少し待たせる女こそがいい女だと仰ったのは、確か貴方ではありませんでした? ガラノフ男爵」
「その通り。だが俺は、待たされるのは大嫌いだ」
悠然と足を組んで座っていたのは、鋭い顔つきをした一人の男、ガラノフ男爵だった。彼はもともと武器商人だったが、その商才から莫大な財産を築き上げて男爵位を買った、成り上がり貴族だ。五十歳を目前にしたとは思えないほどに鋭い眼光と鈍らない思考で今も富を生み続けているという。
「相変わらず手厳しいお方ですわ」
「王はあの娘を抱いたんだな?」
ガラノフ男爵は前置きも何もなく、突然そう言った。オレーシャはさっと険しい顔になる。
「おい、その顔は認めたくないって面だな。こうなることは予測できた。お前、王に惚れるのは良いが、理論的思考まで奪われるまでにはなるなよ」
「……ええ、分かっているわ」
「それで、昨日の夜、王はお前のところにも来たか?」
「もちろんよ。おそらく、その後にあの娘のところを訪れたのだと思う」
「そうか……それならまだ救われたな。お前は、まだ身籠った気配もないのか?」
「ええ……」
「王は避妊などしていないんだな? そんなに同衾してて、なんで兆しもない。もしや王は種なしか?」
「ガラノフさまっ!」
オレーシャは思わず声を荒げ、不敬な発言を諌めようとしたが、男爵はそんな彼女を見てフンと鼻を鳴らす。
「すっかり“骨抜き”にされてるな。そんなにいい男に出会えたんだから、俺に感謝しろよ」
「……そういうことを言わなければ、貴方ももっと愛されると思うわ」
「っ、ははは! 俺はお前のそういうところが好きだ! お前はいい女だ、小娘なんかにゃ出せない味がある。だから王も、お前を抱くんだろう」
男女の話をあけすけにされて、頬を赤らめるような恥じらいはオレーシャにはもはや無い。特にガラノフとは、そういったことも普通のことのように話せてしまうのが不思議だった。
ガラノフ男爵はひとしきり満足そうに笑ったあと、急に真面目な表情に戻って声を低くした。
「お前の魅力に間違いはない。ただ、王が抱いたということは、小娘にもまた何らかの魅力があるということだ。そのことを忘れるな。でなければ、足元掬われて俺たちは破滅の道をたどるだろうよ」
「あら、貴方にしては随分と慎重というか、謙虚な発言ね?」
「オレーシャ、嫉妬に狂う女は、俺は嫌いだ。理性的に物を考えなくなるからな。冷静な観察眼を曇らせるなと言ったぞ? なぜ王があの娘を迎えたと思う? 何か理由があるからだろう。それが、王自身が認めていないことや、気付いてないことでも、俺たちは見抜かなきゃならん」
「……分かっているわ」
「お前がそこまで心乱されるほどの脅威を持った人物だと認めることが、一番早く楽になる方法なんだがな……まあいい。やることは変わらない、手っ取り早く、吹っ切ってこい」
ガラノフはこれで話は終わりだと立ち上がった。そのまま立ち去るかと思われたが、彼は腕を伸ばしオレーシャの顎をとると、ごく自然に、唇を重ねた。
「ん、は……っ」
息も飲み込む濃厚なキスをして、ガラノフはさっさと姿を消した。いつものことでオレーシャも特段取り乱さない。彼女は男爵がいなくなって少ししてからガゼボから立ち去った。
部屋に戻ると、すぐに湯浴みをする。外の埃を落として、夕飯を終えて、そして再び、今度はじっくり時間をかけて風呂に入った。今夜の王のお渡りのために、オレーシャは完璧な魅力溢れる女を磨き上げる。
(私は王の愛を寵する、魅力的な女。あんな貧相な小娘とでは経験できない夜を、王にプレゼントできるわ。この私が、王を男にして差し上げたのよ)
体が上品に透ける魅惑的なランジェリーを身につけて、オレーシャは王を迎えた。
その夜、自尊心を保てるくらいに、オレーシャは激しく濃厚に王に愛された。そうして気を失うように眠りに落ちて、明け方に目を覚ました時、すでにいなくなってしまった王の姿に切なくなると同時に、胸の底に、小さな黒い澱が溜まりはじめたのを、漠然と感じた。
(……許さない)
何に対してそう思ったのか、自分で考え詰める前に、オレーシャは再び眠りに落ちた。
夢を見ない、真っ黒な眠りだった。




