急に抱きつかれたんだけど……
改変された記憶【ドクサ】
潜在知識【エピステーメー】
「あれは……改変された記憶です!逃げますよ!」
また訳の分からない単語を発しながらピナ先輩は僕の襟元をつかみ、鍵を挿したままのアトラクタの箱を置き去りにして、遊び場を後にした。
引っ張られながら出る際に見えた、後ろから迫る音の正体はファンタジーゲームの主人公が着ているような、一メートル九十センチメートル程の蒼い竜騎士の鎧だった。まるで魂を持ったかのように動き、シンプルで青白く幻想的な細長い二メートルほどの槍を手にしながら、歩いていた。
「社長さん! こんなの聞いてませんよ! しかも私はこういう、戦闘型の改変された記憶は苦手なんですよ!」
襟元を離し、今は僕の隣で走っているピナが空に向かって叫んでいる。
『予想外のトラブルだ! 今すぐ戻したいが、システムが拒否を示して……る! こっちか……電波障……あとは…………任せ』
ブツン、まるで僕を貶めるかのように糸が切られた音のようだった。
「えっと……まずは隠れるところ……職員室に行きましょう! この場所から遠いですし、隠れるところがたくさんあるはずです」
「あの鎧ってなんなんだよ」
「あれは改変された記憶と言います。人とは常日頃、妄想をしながら生きている人間であり、そして歳を重ねていくにつれて、妄想は実現できるかどうかも判断が出来るようになります。私が聞いたこの記憶の所持者は四歳の男の子でした。つまり四歳時のこの子は、鎧のおもちゃが動くと妄想していたのでしょう」
つまり僕が連れてこられたこの世界は、子供のあやふやな記憶の中ということだな。
信じがたいことだが、この世界についてピナは詳しく知っており、短い間だが嘘は吐かなくて誠実な事は分かっている。しかも、あの鎧は正直怖かったから下手に行動するより、ピナを信じて行動するしかない。
「早く職員室へ行ってください!」
ピナは僕の背中を押しながら、焦った声で言った。
僕は押された方向に走りだそうとしたが、僕の背中を押したピナの手が震えているのに気がついて、足を止める。
「何をしてるんですか! 早く逃げてください!」
「それで……ピナはどうするんだ」
「あとをついて行きますから、心配しないでください。大丈夫です、私にはこの世界で、いろんなものを出せる事が出来る潜在知識がありますから」
なんのことだかさっぱり分からんが、今は説明を求めている時ではないことぐらいは承知している。
いくら天才な子供でも地に生まれ落ちたときには、一人で歩く事も話すことも出来ない。親に面倒をかけて育てられるのだ。つまり、今の僕はこの世界に産み落とされたばかりの赤子であり、ピナにとっては足手まといになる。
「心配させるなよ」
僕はやるせない気持ちを噛み殺しながら言うと、前に向かって走り出した。
「あはは、私って何で皆に心配させちゃうんですかね。悪い子……です」
そよ風のように小さく呟いた言葉は、とても湿っていた。
ピナの足音は僕に近づくのではなく、ゆっくりと離れていった。
走りながら振り返ったときには既に、最初から存在してないかのようにピナは消えていた。立っていた所に出来た、小さな小さな水溜り以外は。
僕は職員室の机の下に情けなく、蹲って隠れていた。
外からは幼少時代にテレビで見た戦隊物かのように刃物が、ガラスや木製の板を壊す音が聞こえる。
手足が震え、恐怖により喉が渇き、次の瞬間背中からあの槍が貫通してしまうんではないかという、イメージを何度も連想してしまう。
目の前の壁にある色が小さな丸を描いた。
蛍光灯に照らされ、紅く輝いている鮮血。小さな丸から花火とは逆に、重力に従い地面へと一つの線が描かれていく。頭の中に連想されていたイメージが、急にピナの残酷な死体のイメージに変わる。
怖かった。恐かった。でも、幼少の頃から両親に口をすっぱくして言われた言葉が僕を突き動かす。
「自分の命は、他人の命を助けるためにある命だ」
僕は小さな声で、まるでおまじないかのように呟いた後、机の下から飛び出した。
「どうして……出てきたんですか」
頬に一つの切り傷をつけながら、息を絶え絶えにして立っているピナだけがいる。
「……手に持ってるのって何? もしかして、実はピナって仲間に隠れながら能力を使う主人公みたいな人なの」
ピナの手にしてるものは、RPGの勇者が終盤のイベントで手に入れる『勇者の剣』ってところだろう。そんなものが保育園にあったらまず銃刀法違反で捕まっているに違いない以前に、光り輝く金の剣客に柄、剣客にはめ込まれている宝石がありえない。
「実は……そうなんです、特別な能力を持っているんですよ! というのは嘘で、この世界にいると誰でもできますよ。しかし、この剣は強そうだったので潜在知識で出してみたのですが、派手ですね……。でも、あなたにも出せますよ」
無理して笑っているのは、僕に恐怖心を与えないためだろうか。
「潜在知識って言ってた奴か? どうやって――」
職員室の木製の扉が壊れる、骨が折れたかのような音が僕の声に覆いかぶさり、巻き上げられた砂煙はあの鎧のシルエットを映し出していた。
「早く隠れてください!」
視線は扉に向かい、僕に対して剣を持っていない方の手で下に隠れるように促してきた。
「もう遅いみたい。もう、1人で隠れてるのも嫌だ」
ドラゴンナイトの鎧は既に僕とピナを見つけ、唯一の出入り口に立っているので、逃げようにも逃げられない。
職員室に来た際、窓が開閉するか確かめてみたが、この保育園だけが他と隔絶してるかのように開かなかった。まるで窓から見てる景色の紙が、外側から窓に貼り付けられているようだった。それに加えて太陽が動かないことから、如実にここは異世界であることを伝える。
「先輩なんですから、私に任せてください」
「先輩先輩って言ってるけど、同じ学年だし、僕のほうは敬語なんて一切お前に使ってないよ。しかも僕は男で、力はお前より上だって自信がある」
「うぅ……。いいじゃないですか、私だって頼れる仕事の先輩になりたいんですから」
「いやいや、お前は仕事の先輩って肩書きだけだろ。全然頼りがいが無いし、それに僕の知ってる他の自称しっかりものの方が、しっかりしてるよ」
「なんですか! 女の顔みたいで童顔のあなたよりは、私のほうが強いと思いますよ!」
「見た目のことは言うな!」
互いに睨み合っていると、その間を邪魔するかのように一本の青白い槍が通り、髪の毛全てをもぎ取っていくような風が体全身にぶつかる。
「えっと……無視してすみません」
ピナがドラゴンナイトの鎧に向かって頭を下げながら謝っていた。
さっきまで殺されそうになっていることを忘れたのだろうか。
「やっぱりその剣貸し――」
「嫌です。自分で創ってください」
「やり方知ってたらとっくに創ってるわ」
「あれ? 説明してませんでした?」
これは本当に天然なのだろうか、それとも意図的に行っているのか。もしも後者だったら今すぐにでも鎧に差し出してやる。
「どこまでお前は馬鹿なんだ。いままで真面目に説明をしてもらった記憶が少ないぞ」
「あはは、ドンマイです。えっとですね創り方は……ここにこれがあったらいいな~みたいな感じで創れます。でも今はワタルちゃんにでもできませんよ」
「またアバウトだな……それと、馬鹿にするな」
本当にピナという女の脳を精密検査してもらいたい。さっきは出来ると言っといて、すぐに否定してくるとは。それと、確かに僕はこの世界のことなんてよく分からないが、最初からできないと言われるのは嫌な気分だ。
二本目の槍が僕とピナの間を通り過ぎた。
さっきから鎧はなにをしているのだろう。僕たちを倒したいなら一本目で僕かピナに当てられただろうに。
「鎧さんすみません! すみません!」
ピナが頭を下げながら鎧に、さん付けをして再び謝っている。
鎧のほうを見てみると、まるで漫画やアニメのように丸く青い発光体が、手のひらに浮かびながら槍の形を成して、さっきの槍が創られていた。
「おぉ、かっこいいな。僕もあんなふうに創れるようになるのか」
今は出来なくても、いつかはやってやると幼心に誓った。
「やっぱりワタルちゃんも子供ですね」
「子供で悪かったな――」
少しずつ暖かくなってきた空気が、一瞬にして冷たくなった気がした。
いますぐこの場所から逃げろと、体が直感でビリビリと伝えてくる。
逃げたい逃げたい。
死にたくない死にたくない。
負の感情がどっと押し寄せ、僕を飲み込む。
ドラゴンナイトの鎧がカシャン、カシャンとピナの方に近づき、槍を振り上げている。
さっきまで見ていた鎧が、一歩近づくごとにさっきまでとは違う雰囲気で、僕は上から誰かによって押しつぶされそうになり、息が苦しくなってきた。
それはピナも同じようで、腰が抜けてしまったのか、汗が伝う手足を震わせながら座っている。
ドラゴンナイトの鎧の影がピナに覆いかぶさった。
僕は机の上を走り出していた。
奇麗事を言えば、ピナのことを助けたかったからだ。でも裏を返せば、ここで助けなかったら後々自分が後悔してしまい、引きずりたくないという思いがあるからである。
机の上を全力で蹴り飛ばしつつ、拳に力を入れ右肩を引いた。
「うおりゃああああぁぁぁっっっ!! ……いってえええぇぇぇぇっっっ!!」
槍を振り下ろす前に僕の拳はドラゴンナイトの鎧の頬を殴っていたが、とても痛かった。あたりまえか、あっち金属だし。
さっきまでの体の震えが嘘のように止まっている。
ドラゴンナイトの鎧は頭からガラス窓を突き破り、落とされた槍はピナの足首を掠めて刺さっていた。
「早く逃げるぞ!」
槍が刺さって立ち上がれないピナは、首を横に振って「私のことはいいから」と涙を堪えながら言った。
無言のままピナの意見を無視して、横抱きをしながら職員室から逃げ出す。
廊下を走っていると、壁には大きな穴が空いたり、天井から地面まで続く傷がいくつも見当たる。職員室に向かっているときは無かったものだ。傷跡からは、僕を助けるためにしてきたピナの行動が物語られていた。
「もう……下ろしてください」
「嫌だ。絶対離さない」
「腕が震えて、息も上がっていますよ、きついんですよね。あいつを倒せなくても逃げ続けていれば、社長さんがどうにかしてくれるはずです」
「だまれっ! 絶対助けるからな」
鎧を殴り飛ばしたときに、右拳の骨にヒビが入っているようで、しかも鎧が頭から突き破ったガラスの破片が右足に突き刺さっている。
だが、その発言も数分後には虚勢のようになってしまい、今では歩くので精一杯だった。歩いた後には、僕の足から滴る鮮血が残っている。
「どうして……泣いているんですか?」
その時僕は涙を零していた。
昔、助ける事が出来なかった、あの命。僕は忘れず、好きなあの子のことを思い出していたから。
僕はピナの質問に返答せず、ただ腕に力を込めて、離さない事を示した。
後ろから金属と金属が擦りあう音が耳にのそりと入ってくる。
心臓が大きく脈を打ち、体中を毛虫が這いずり回るかのような寒気に襲われた。
「あいつは動きが遅いですから、私を置いて行けば今のあなたの足でも逃げ切れるはずです」
足が思うように動かない。痛みの感覚などもう無い。
「ごめん、ピナ」
僕は腕の力を緩めて、ピナをその場に落とす。屈んでしまえば立ち上がることが出来ないと思ったからだ。
「それでいいんです。間違ってません」
僕は唇を噛み締め、足を動かし始めた。ピナとの距離が少しずつ大きくなっていく。
「待ってください! なんでそっちに行くんですか!」
「まぁ見ていて。喧嘩とか、未知の生物と戦う事なんて嫌だけどさ。この際やらないといけないから」
首だけ振り返って、ピナを安心させるように笑顔を作る。鎧のほうへと視線を戻し、僕は片足を引きずりながら歩みを進める。
鎧は何を考えているのかも分からず、今からでも槍を投げてきそうな雰囲気である。
「形と一緒に、お前が人間と同じような構造だと願うよ」
僕が鎧に向かって言った瞬間、槍を左手に持ちながら左肩へと乗せて走ってきた。
「……へ? 走るなんて聞いてないぞ!」
ドラゴンナイトの鎧の一歩一歩は地面の板を壊しながら走ってくる。
僕は今更走れないし、ピナを守るためにも逃げることはしたくない。
今の僕の右手の状態じゃ全力で殴ることはできないが、まだチャンスはある。
僕は一つ深呼吸をして、脇をしめて右拳を顎の右側に近づけ、左拳を顔から少し遠ざけて目の高さまで持ってくる。 左足を前にだし、右足との間隔は肩幅より広く構え、足から血が出てきて痛みを実感するようになるが、気にせず鎧を見据えた。いわゆるボクシングポーズだ。
鎧と僕の距離が残り五歩まで狭まっていく。残り三歩になった時、ドラゴンナイトの鎧が胸を張り、体を捻り、すぐさま伸ばしきったバネを解放して、僕の頭へと向かって槍を投げてくる。
僕は腰を捻りながら右肩を後ろに引き、上半身を左に傾けた。槍の先端が頬を掠める。それと同時にドラゴンナイトの鎧の顎に向かって、限界まで引き伸ばした右拳を矢のように放ち、カウンターフックを喰らわせた。
互いに背を向ける。
鎧の頭を縦に180度回転してやった。だが、ドラゴンナイトの鎧は千鳥足になりながらも、背を向けたまま槍をもう一本創りだす。
足の踏ん張りが利かなくて、浅く入ってしまったようだ。
風を切る轟音が背中の寒気を誘った。振り向きざまにドラゴンナイトの鎧が、槍をサイドスローのように投げてきたのだ。
僕は疾風ごとく飛んできた槍の先端を軸にして、体を素早く横に回転させ、服が破けながらも避ける
。勢いを殺さず僕はドラゴンナイトの鎧に一歩踏み出す。
ここからはまるで操り人形のように、無意識に脳と体が動いた。
自分が槍を創り出し、手に持っているように想像した。すると左手に重さを感じ、視界の端に捕らえたのは、僕の左手に鎧の槍そのものを手にしていたのだ。
体に残る粕ほどの力を掻き集めて、体をもう一回捻る。鎧は体勢を立て直す前に、僕が創りだした槍によって180度回転した頭を粉砕された。ヒビは伝導するように鎧全体に伸び、パラパラと崩れ去っていった。
「やっぱり……僕にでも出せるじゃん」
少しだけ軽快に笑うと、立っていられる力が蒸発するかのように抜け、膝から崩れ落ちていった。僕はピナを助けた事に安心したせいか、引き止めていた意識の糸が切れた。
***
生ぬるい草の匂いが鼻に突き刺さり、思わず目を覚ます。
目を開けると視界に、中年オヤジの顔が気味の悪い笑顔がドアップで写っていたので、ビンタをしておいた。
「急に殴るなんて酷いなー」
中年オヤジは頬を摩りながら離れてくれた。上体を起き上がらせ、周りを見ると僕は会社のソファーに寝ているようだ。
「殴ったのはそっちが先なんだから、やられて当然だろ」
「えー、殴ったのってピナちゃんだよ」
「お前が指示したんだろ……そうだ、ピナはどこにいる!」
中年オヤジが指差す方向を見てみると、ピナは椅子に座って、オフィスデスクに涎をたらして突っ伏しながら寝ていた。
「お前のおかげで散々な目にあったよ」
胸を撫で下ろした後、今までに無いくらいの睨みを利かせながら言ったが、中年オヤジは一切気にせず「ごめんねごめんね」と言うので、僕の頭の血管が数本切れた気がした。
僕は中年オヤジの胸倉を掴み、鼻がこすれあうほどまで持ってくる。会社の出入り口が錆びた金属の音と共に開いた。
「仕事が終わっ……やりたいならホテルにでも行ってこい」
「おかえり~。いやー、突然ワタル君がキスを迫ってきてさ~」
中年オヤジがあの無愛想な男に向かって手を振りながらしれっと言った。
「な、なにを言ってるんだ! こっちはお前に苛ついてんだよ!」
「死にそうだったって言ってるけど、鎧を殴ったときの右手治ってるじゃん」
中年オヤジの胸倉を掴んでいる手は、ドラゴンナイトの鎧を殴ったときに骨が砕けたはずの右手だった。足の痛みも無くなっていおり、ピナのほうも足首と頬の傷が無くなっていた。
「ちょっと待て、お前がなんで右手の怪我を知っている」
「――あ。まぁいいか。トラブルも試験のうちで、いつでも助ける事が出来たよ。しかし一度目の試験で潜在知識が使えるとは、君の力は予想以上だ。しかもパートナーの夢以外の場所で潜在知識が使えるとは……。それにあの鎧だってオレが人工的に作った、いままでの戦闘型の改変された記憶で最強に匹敵すると思うのにさ。しかも半分が素手って。なんかやってるの?」
なんとか脳に残っている知識を総動員させたが、話がいまいち理解できない。
「ボクシングを少し。そうだ。僕が隠れていたときに跳んできた血は、ピナのものじゃないだろ」
「気づいてたか。あのまま隠れたままだったらいけないと思って」
あの時のピナは頬のかすり傷程度で、ドラゴンナイトの鎧もいなかったから、血がとぶのはおかしいはずだ。
つうか、饒舌になってハイテンションの中年オヤジを見てると毒気が抜かれたような気分になった。
「酷いです。私本当に恐かったんですよー」
いつの間にか起きていたピナが中年オヤジのふくらはぎを執着的に何度も蹴っている。すると、僕が起きている事に気がついたのか、飛び込みながら僕に抱きついてきた。
「腹にダイブするな! なんか出る!」
「本当に良かったぁ! もう、私のせいで死んじゃったらどうしようって思ってたんだよ」
泣きながら言ってくるので、溜め息を吐きながらピナの頭を撫でようとするが、さっきまで興味が無さそうに椅子に座りながら見ていた無愛想な男が急に近づいて、ピナの頭に乗せようとしている僕の手をはじいた。ピナの襟元を掴んで、自分のデスクへと持っていく。その時ピナは猫のように体を丸めて静かになっている。
「さて、ワタル君。君はオレの見込みどおりだ。なので我が社に迎え入れよう」
前は最後まで楽しそうに観賞していた中年オヤジが、唐突に話しかけてきた。
「断って――」
「断った場合は、またあの記憶の世界に連れて行ってあげよう。次はあの鎧が五分に一回増殖するように設定してね」
「この会社には一生来ないから大丈夫だ」
「ワタル君の脳波は調べ終わったから、いつでも記憶の世界に連れて行ってあげる」
「仕事をやらせてください」
「素直な子は好きだよー。はい、契約書」
唇を噛み締めて、差し出された契約書に名前を書き、拇印を押した。契約書の内容などは読んでも読まなくても結局は、やらなければいけないので読まずに終わらせた。
中年オヤジが契約書を確認して、満足したように鼻歌を漏らしながらファイルに入れた後「こっち来て」とピナと無愛想な男を招集した。
二人が中年オヤジの隣に立ち、僕と相対する。
「新入りに自己紹介をしようか! まずはピナちゃんから」
「はい。既にしたと思いますが、改めて。私は高校一年生でピナと言います。好きな食べ物は……なんでも食べちゃいます」
男は?というお下品な質問は、ピナの隣で僕のことを睨んでいる無愛想な男がいたのでやめておくことにした。
「えー、高二でサキチ。俺のほうが年上だから先輩つけろ」
先輩だったとは。
僕とはわざと視線を逸らしているし、偉そうだし、こいつとは仲良くなれなさそうだ。
「オレは来年で四十路になるカイトだ! 好きな物は幼女だ! しかも小学高学年から中一までがいい! あの頃が一番肉のつき方が可愛らしくての、スクール水着を着たときにはもう……あ、涎出てきた」
こいつは仲良くできないと言うか、仲良くしたくない。
「え!? 社長さんってスクール水着派だったんですか!? 私はいままで露出が高い水着の方がいいと思ってましたよ」
「確かにそっちもも捨てがたいが、やはりスクール水着だな。だがしかし、幼女は元気で遊んでくれるところが一番だ」
「てめぇら、ふざけた話をしてるんじゃねぇ! それとロリコンジジィは黙ってろ!」
「うわぁ、怒った怒った。サキチ君が怒った。サキチ君はうぶな子だからこういう話は恥ずかしいんだよねー」
「ジジィうっせぇ!」
なんとなくこの三人のいつものやり取りが分かったような気がしたし、別にいつも静かではなく、たぶん和気藹々としてる仕事場だと思った。
三人はサキチがカイトを殴ったところで静かになると、三人は僕へと視線を集めている。つまり次はお前の番、ということだ。
まずは自己紹介から関係が始まると、テレビで聞いたときがある。最初の第一印象はその人の性格や態度、気持ちが相手の脳へとダイレクトに焼きつくので、最初が肝心とよく言われたものだ。
ピナとは普通に話せる程度で、サキチはそこまで仲が悪くなりたいわけではないのでそれなりに、カイトには嫌われるように自己紹介をしよう。
カイトには一発、僕は熟女好きと嘘を言っておくことにしておく。と、脳内会議がコンマ一秒も経たずに終わった。
「僕の名前は――」
錆びた鉄の扉の開く音が聞こえたので、僕は一旦話を止め、扉を開けた人物の正体を確かめるために視線を送る。
それは一人の女の子だった。だが一目で僕と同類ということが分かった。
つまり少し暗い性格だということである。これからは独断と偏見になってしまうのだが、自己紹介で相手がどんな人物かを決めてしまう傾向は前述にあるが、その前に二つに区別する方法がある。
それは目の輝き方なのだ。絵をよく見る人は明るい性格の人は目が輝き、暗い性格の人は輝きが少ないことが分かるはずである。それでは何故輝き方が変わるかと言うと、頬の筋肉の量なのだ、よく笑う人は頬の筋肉が発達しており、瞼が持ち上がることによって上からの光りを瞳が反射するのだ。
「やっと見つけたわ」
僕と視線を合わせながら、女の子は無表情のまま言った。
スタスタと迷い無く歩く女の子は他の三人を無視して、僕の元へと歩み寄り、脇に手を滑り込ませ抱きついてきた。
あまりにも急な状況についていけず頭が真っ白になり、体がフリーズする。
「なんでてめぇがここにいるんだよ!」
「ワタルちゃん、早くその子から離れてください!」
サキチとピナはこの女の子と面識があり、良い印象ではないようだ。
かといって僕は見ず知らずの女の子を突き飛ばしたり、女の子に抱きつかれるという男にとって嬉しい状況は受け入れたいものである。
「貴方達二人には関係の無い事だわ」
女の子から発せられた声はハスキーのかかった声で、人と壁を作るかのような強い口調だった。
「しかし、今日はワタルを確認できた事だけでも大きな一歩で良かったわ」
女の子は僕の耳元に唇をちかづけて湿っぽい声で小さく「ごめんね」と呟いた。
「……え?」
「ううん、なんでもない」
首を振って何も無かったように微笑み、僕の背中に回した手を解いていった。
冷静に遠くから見た女の子は、薔薇のように綺麗な顔立ちと、雰囲気には誰も近づけまいとする棘があった。だが、
「アタシはナルって言うのよろしく」
僕へと向けられた笑顔は、薔薇ではなく向日葵のような明るくほっとさせるものであり、思わず頬の力が緩くしてしまった。
「こっちこそ」
ナルから出された手を握り返す。
なんでこんな可愛い子が嫌われているのか分からない。
「アタシはもう帰るから。これでようやくアタシも前に進めるわ」
変わらない笑顔のまま僕に手を振るが、今の笑顔はとても弱々しいものに見えた。
結局のところ、ナルという女の子は何をしたかったのかが分からないまま、この場からいなくなってしまった。
「ワタルちゃん、なにかされませんでしたか?」
ピナは僕の肩を掴み、前後に揺らしながら言った。
「別になんとも。それより、なんでそんなにナルのことを毛嫌いしてんだ?」
揺らすのをやめ、俯く。
「それはですね……あの子は私達の仕事を邪魔したからです」
「邪魔って……あの世界に入り込んでくるのか?」
「その場合もありますし、記憶の世界に入る事を拒む事もあります。実際のところよく分からないんです。あの子の行動は、関連性が分からなくてプライベートも分かりません。いくら注意したってやめませんでした」
ピナは苦虫でも噛んだような、表情だが少し儚げな部分もあったような気がした。
「失敗するのは、アトラクタの箱を壊してしまった場合か、その記憶の世界が消滅してしまった場合です」
「でもよ、そんなことにならないだろ」
「何を言ってるんですか!」
僕の両肩を掴み、鬼気迫る表情に一変する。
「仕事の失敗をすると、依頼者の関係のある記憶がすべて消滅するんですよ!」
「つまり、それって……」
前に説明をした例を取り上げると、『プリンを食べたい』という記憶が思い出せなくなり、その人の記憶から『デザート』という概念が消えてしまうのか。
依頼内容によれば、好きな人や友達、家族のことまで忘れてしまうことなのだ。
「あの子は依頼の失敗直前に、私達を強制的に外の現実に戻すので、今までで失敗したことはありません。しかし、私にはあの子の目的、動機、敵なのか味方かも分からないんです」
また儚げな表情になり、涙すら滲んでいた。
その表情は今の僕には理解が出来なくて、無視をすることしか出来ない。




