第5話 感情の名前(前編)
アルマンの襲来から一週間ほど経ったある日、クラウスの出張が決まった。
行先は、王都の北に位置するノールヴァルという小さな地方都市だ。
先日山崩れがあり、北の駐屯地の騎士たちが対応にあたっていた。
しかし人手が足りず、クラウスたち本部の騎士も手伝いに向かうことになった。
出発の日を迎え、エーレンベルク邸では使用人たちが朝から準備に追われていた。
「クラウスさま、そろそろ荷馬車の用意が完了します。一週間後に追加の物資をお送りしますので、必要なものがあればお手紙をください」
「わかった。二週間で帰る予定だが、状況が変わったら連絡する」
「お着替えが済んだら、すぐに出られますか?」
「ああ」
ジェラールにカフスを留めてもらいながら、クラウスは答えた。
「おや」
不意にジェラールの手元から何かが落ちた。
カフスについていた緑色の石が、台座から外れたようだった。
ジェラールはすぐに引き出しを開けて、別のカフスを探し始めた。
クラウスはその間に石を拾いあげ、壊れたカフスと一緒にデスクの上に置いた。
「あとは自分でやる。下の準備を手伝ってやれ」
「承知いたしました」
代わりのものを受け取って、クラウスはジェラールを下がらせた。
着替え終えるとデスクに歩み寄り、引き出しから小さな袋を取り出した。
中には、壊れたカフスがジャラジャラと入っていた。
何となく捨てられずに取っておいたものだ。
先ほど壊れたカフスも袋に入れて、クラウスは寝室に向かった。
ベッドでは、まだエレオノーラが眠っていた。
枕の上に足が乗っていた。
クラウスは身を屈めて、エレオノーラの頬をそっと撫でた。
「ん……クラウスさま?」
「すまない、起こしたか」
エレオノーラがのそのそと身体を起こした。
昨夜も舞踏会を楽しんだようで、髪がおおいに爆発していた。
「昨日も伝えたが、しばらく留守にする。何かあったらジェラールに言うんだぞ」
「はい」
「それから……」
クラウスは手に持っている袋を見た。
少し迷ってから、袋の口を広げてエレオノーラに見せた。
中を見た瞬間、エレオノーラが吸い込まれるように顔を近づけた。
「ほしい宝石があったら、好きに持っていけ。俺が持っていても使い道がない」
「カフスですか?」
「壊れたやつだ。いらなかったら捨てろ」
「ありがとうございます。嬉しいです」
エレオノーラは両手で抱きしめるようにして、クラウスから袋を受け取った。
「じゃあ、行ってくる。寒いから見送りはいい。ちゃんと温かくするんだぞ」
「はい、いってらっしゃいませ」
エレオノーラを毛布で包んで、クラウスは部屋をあとにした。
* * *
クラウスが発って一週間ほどした頃、久しぶりに積もるほどの雪が降った。
庭は一面真っ白に染まり、陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。
エレオノーラは自室の窓辺に置かれたソファーに座って、庭を見下ろしていた。
その手には、小さな磨き布と宝石がついたカフスが握られていた。
「奥さま、紅茶はいかがですか?」
「ありがとう、アンナ。いただくわ」
アンナと呼ばれる若い女性は、マノンと一緒にエレオノーラの身の回りの世話をしている侍女だ。
アルマンの件以降、使用人たちはよくエレオノーラに声をかけるようになった。
「また宝石を磨かれているのですか?」
アンナは、お茶を用意しながらエレオノーラに問いかけた。
エレオノーラのそばに控えていたマノンも、その準備に加わった。
「ええ」
「それ、カフスですか? もしかしてクラウスさまから?」
クラウスの名前に、エレオノーラの手がピタリと止まった。
「奥さま?」
「……ええ。クラウスさまからいただいたの」
エレオノーラはそう言って、宝石磨きを再開した。
アンナがお茶を注いでいると、エレオノーラが再び口を開いた。
「私、実家で犬を飼っていたの」
「犬を?」
突拍子のない話に、アンナは少し驚いた。
しかし、普段無口なエレオノーラが自分から話をしてくれたことが嬉しかった。
「アレクサンドルがまだ子犬だった時、初めて見た雪に興奮して、そのまま庭を飛び出して行ってしまったの」
「まあ」
「それで、三日ほど家に帰ってこなくて」
「大変でしたね。それで、アレクサンドルちゃんは――」
「なんだかよくわからないけど、最近ずっと、その時と同じように胸がソワソワしていて」
アンナを遮るように、エレオノーラは言った。
困ったような表情でアンナを見ると、そのまま続けて問いかけた。
「私は、アレクサンドルに会いたくなってしまったのかしら?」
目をぱちくりとさせながらも、アンナはどうすればよいか懸命に考えた。
いつもならマノンに助けを求めるところだが、せっかくエレオノーラが自分に話しかけてくれたのだ。
エレオノーラの前にティーカップを置くと、アンナはゆっくりと伝えた。
「奥さま、一回アレクサンドルちゃんのことは忘れましょう」
アンナは小さなスツールを持ってきて、エレオノーラのそばに座った。
「そのソワソワはいつからですか?」
「一週間ぐらい前かしら」
「旦那さまが出張に行かれてから、ということですか?」
エレオノーラは考えた。
クラウスと最後に会った朝を思い出した。
もらったカフスが嬉しくて、三日ほどは宝石磨きに夢中だった。
しかし磨くものがなくなってくると、段々とソワソワが大きくなっていった。
「奥さまは、お寂しいのではないですか?」
俯いて難しい顔をしているエレオノーラの顔を、アンナは覗き込んだ。
「寂しい? どうして?」
「だって今まで毎日一緒にいたのに、一週間も旦那さまと会えていないんですよ? 誰だって寂しいです」
「でも、屋敷にはアンナもマノンも、たくさん人がいるわ」
「何人いるか、じゃないんです。誰がいるか、なんです」
アンナの言葉は、エレオノーラには少し難しかった。
眉間に寄ったシワを見て、アンナはさらに説明しようとしたが、マノンに肩を叩かれた。
マノンは何も言わず、静かに横に首を振った。
「奥さま。明日、旦那さまのいる街へ追加の物資を届ける馬車が出ます」
マノンはエレオノーラのそばに屈んで言った。
「ご一緒されますか?」
エレオノーラは、しばらく何も答えずテーブルに置かれたカフスを眺めていた。
マノンがじっと答えを待っていると、やがて小さくその首が縦に揺れた。




