第4話 鬼の笑顔(後編)
部屋の空気が凍った。
エレオノーラは本気で心配している。
しかし今のアルマンにとっては、火に油を注ぐ言葉でしかなかった。
「お前はクラウスと同じで、とことん俺が嫌いなようだな」
アルマンがふっと鼻を鳴らして笑った。
ねっとりとした口調で、エレオノーラに詰め寄る。
「そこの生意気な使用人どもも、ちょっとは躾をしたらどうだ? お前じゃできねえか?」
「それは……お尻ぺんぺんなどをすればよいでしょうか?」
アルマンは音を立てて息を吸ったが、黙った。
使用人たちは、静かに自分の尻を庇った。
一拍置いて、アルマンはまくし立てるように言った。
「ぺんぺんでも何でもいい、使用人を服従させるべきだと言ってる! こいつらの反抗的な態度を見てみろ、誰もお前に忠誠心がない!」
言われたとおり、エレオノーラは使用人を見回した。
皆、目を伏せて、小さく縮こまっていた。
「私は特に困っていません。それに、まだ出会って二週間ですので」
エレオノーラはそう言って紅茶を啜った。
使用人も、アルマンも、誰も言葉を発さなかった。
紅茶を置いて、エレオノーラはふと重大なことに気付いた。
弾かれたように顔を上げて、料理人たちを見つめた。
かつてないほど俊敏なエレオノーラの動きに、使用人たちは困惑した。
「執事長。今、夕飯の支度は誰がしているの?」
「誰も」
「そんな……!」
エレオノーラはこの世の終わりのような顔をした。
「林檎のグラッセが……」
「鹿のロティです、奥さま」
ガスパールはすかさず耳打ちした。
エレオノーラは勢いよく立ち上がると、スカートの端をつまんだ。
そして浅く膝を曲げて、丁寧に頭を下げた。
「アルマンさま、どうかお帰りいただけませんか」
「ふん、はるばるやってきた客にもう帰れってか」
「はい。あなたの用が済まないと、夕飯の支度が進みませんので」
「だから何だ、誰も困らないだろう」
「いいえ、困ります」
エレオノーラは胸を張ると、よく通る声で言い切った。
「私のお腹が空いてしまいます」
数名の使用人が堪えきれずに吹き出した。
アルマンは反射的に使用人たちをねめつけた。
声こそ殺していたが、全員、肩を震わせていた。
「……もういい。お前らとこれ以上同じ場所にいたくない」
アルマンはそう言って、ヨロヨロと扉の方へ向かった。
衛兵が慌ててその後を追った。
「二度と来るか! バカ嫁め!」
部屋を出る直前、アルマンが叫んだ。
ドスドスと大きな音を立てて足音が遠ざかった。
やがてそれが聞こえなくなると、使用人たちは大きく息をついた。
「お、終わった……」
「今回もデカい嵐だったな……」
皆、その場にヘロヘロと座り込んだ。
ジェラールはエレオノーラの前に立つと、深々とお辞儀をした。
「奥さま、ありがとうございました。アルマンさまは、突然やってきては使用人に当たり散らして帰っていくのです。クラウスさまがいればお助けいただけるのですが……」
ガスパールや他の料理人たち、メイドまで、エレオノーラのそばに集まってきた。
「俺からもお礼を言わせてください。いつも料理にケチをつけられて、腹が立っていたんです」
「わ、私も! いつも言い返せなくて……奥さま、すごく勇敢でかっこよかったです!」
エレオノーラは、あちこちから飛んでくる言葉にフリーズした。
しかし、一つだけ確かに彼らに伝えなければいけないことがあった。
「皆さん。私のことは気にせず、夕飯の支度に戻ってください」
* * *
夜が更けたころ、クラウスが仕事から戻った。
玄関先でジェラールにコートを預けて、中へ入った。
「北の鉱山で小さな山崩れがあった。人的被害は出ていないが、片付けと補強工事で俺も現地に行くことになりそうだ」
「かしこまりました。準備を進めておきます」
「ノーラの体調はどうだ?」
「それが、話すと長いのですが……」
ジェラールは言いながら、リビングの扉を開けた。
ソファーにはエレオノーラが座っていた。
その後ろにマノンが控え、テーブル脇に出されたスツールにガスパールが座っていた。
ガスパールはクラウスを見ると、椅子を倒しそうな勢いで立ち上がった。
「クラウスさま! 申し訳ありません、お帰りになっているとは知らず」
「いい」
短く答えて、クラウスはエレオノーラの隣に腰掛けた。
「クラウスさま、おかえりなさいませ」
「ただいま、ノーラ。体調はもういいのか?」
「はい」
エレオノーラはいつものように微笑んだ。
顔色もすっかり良くなっていた。
「それで、こんな遅くまで何をしていたんだ?」
「献立を書き直していたのです。こちらが今日の夕飯です」
エレオノーラはテーブルの上の紙をクラウスの方へ寄せた。
『
根菜スープ いい匂いの草付き
鹿肉 ジューシーに焼いて
パウンドケーキとお花の香りのゼリー
』
クラウスは何度も瞬きをしながら、懸命に褒め言葉を探した。
「これは……すごく……わかりやすいな」
「はい、ガスパールさんとマノンが、一緒に私の頭が痛くならない献立を考えてくださいました」
「そうか」
ガスパールは照れたように頭を掻いた。
貴族社会の常識や威厳といったものを抜きにすれば、ある意味で合理的な献立だと、クラウスは感じた。
「ガスパール、お前はこの方針で異議はないのか」
「はい。読めない献立をお渡ししても、料理の良さは伝わりません。料理人として、屋敷の誰もが楽しみだと思える献立を作るべきだと思ったんです」
自分がいない間に、頑固者のガスパールの考えを変えるほどの何かがあったらしい。
どことなく、屋敷の雰囲気も普段と違っていた。
「ジェラール、何かあったのか?」
「申し訳ございません、先ほどからお伝えするタイミングを逃しておりました。実は、アルマンさまがいらっしゃいまして……」
「兄貴が!?」
クラウスは思わず両手でエレオノーラの肩を掴んだ。
「嫌なことを言われてないか!?」
アルマンは子どもの頃から口も態度も悪かったが、ここ一年で急激にひどくなった。
毎回苛烈な言い合いになり、クラウスも辟易していた。
「いいえ。でも、とても申し訳ないのですが、今日はすぐにお帰りいただきました」
「すぐに?」
クラウスでもアルマンを追い返すのに半日はかかる。
目を見開いたまま、クラウスはゆっくりとジェラールを振り返った。
「ジェラール、もっと詳しく聞かせてくれ」
「もちろんでございます。旦那さまにも、奥さまの雄姿をぜひ知っていただきたいです」
ジェラールは、昼間の出来事を事細かに説明した。
初めはお茶を飲みながら聞いていたクラウスだったが、何度か吹き出しそうになってやめた。
エレオノーラは途中で船を漕ぎはじめ、やがて寝た。
「……というように、奥さまはアルマンさまに立ち向かわれ、見事この家と我々を守られたのです」
ジェラールは誇らしげに話を終えた。
クラウスは震えていた。
任務ばかりの日々では久しく感じることのなかった、腹の底がくすぐられる懐かしい感覚だった。
「クラウスさま?」
異変に気付いたジェラールが声をかけた直後、クラウスは身体を仰け反らせてゲラゲラと笑いだした。
クラウスの肩を枕に眠っていたエレオノーラが飛び起きた。
ガスパールも、他の使用人たちも、ジェラールでさえ、唖然とその様子を見ていた。
「ノーラ! えらいぞ、よくやった!」
クラウスはエレオノーラを抱きしめて、その頭をわしゃわしゃと撫でた。
エレオノーラは寝ぼけているのか、されるがままになっていた。
あまりの嬉しさに力いっぱい抱きしめていると、エレオノーラが小さくうめいた。
クラウスは我に返って、すぐに腕の力を緩めた。
「起こして悪かった。寝室まで送ろう」
「はい。ありがとうございます」
クラウスはエレオノーラの腕を自分の首に引っかけると、軽々とその身体を抱きかかえた。
「ガスパール、明日はマカロンをたくさん作ってやってくれ」
「もちろんです! お休みなさいませ、奥さま」
「「「お休みなさいませ」」」
使用人たちが、声を揃えて言った。
リビングの扉が閉まりきるまで、皆、主たちに向かって頭を下げ続けた。




