第3話 女の戦い(後編)
夜会から二週間ほど経ったある日、クラウスは久しぶりの非番だった。
仕事の日と同じ時間に目が覚めたが、エレオノーラはまだ眠っていた。
彼女はいつも早寝だが、昨日は珍しく夜更かしして宝石を磨いていた。
起こさないようベッドを抜け出して、寝室から直接続いている自室に入った。
着替えていると、誰かが扉をノックした。
「クラウスさま、お目覚めですか?」
「ああ。入っていいぞ」
「失礼します。おはようございます」
ジェラールだった。
今日も穏やかな笑みを浮かべていた。
「午後から、奥さまに家の管理についてお教えしたいのですが、よろしいでしょうか?」
クラウスはボタンを留めながら考えた。
ジェラールの能力は信頼しているが、あのエレオノーラだ。
彼をしても教えるには相当苦労するだろう。
「あー……もう少し慣れてからでもいいんじゃないか?」
「しかし、エレオノーラさまも暇を持て余しておられます。マナーもダンスも新しい講師が見つからず……」
エレオノーラの完璧なマナーとダンスに講師が泣いて逃げ出したと、使用人たちの間で噂になっていた。
あれは本当だったのかとクラウスは呆れた。
「毎日、寂しそうに窓の外を見ておられるのです。故郷が恋しいのかもしれません」
夕飯のデザートに懸想しているだけな気がしたが、何も言わないでおいた。
二週間という時間がクラウスを着実に成長させていた。
「お前に任せるが、あまり厳しくしないでやってくれ」
「では、早速本日からお教えします。失礼します」
ジェラールはそう言って、出ていこうとした。
「待て」
クラウスは着替えの手を止めて、ジェラールを呼び止めた。
「俺も一緒にお前の授業を受けよう」
「はい?」
「家の管理のことだ。俺もあまり知らんから、エレオノーラと一緒に勉強する」
「はあ……それは構いませんが、午後は剣の鍛錬をされるのでは?」
「今から済ませてくる」
訓練着に着替えようと、クラウスは一度留めたシャツのボタンを再び開け始めた。
「ご朝食は、どうなさいますか?」
「いい。果実水だけ用意してくれ」
「承知いたしました。では、失礼いたします」
ジェラールは丁寧にお辞儀をして退出した。
* * *
昼を過ぎて、エレオノーラはようやく起きてきた。
鍛錬から戻ったクラウスと一緒に、食堂で昼食を摂った。
「宝石磨きは終わったのか?」
「はい」
エレオノーラは、首元を示した。
透明感のある青い宝石が輝いていた。
お気に入りなのか、よく着けているものだ。
「それは何て名前の石なんだ?」
「アクアマリンです」
「そうか。楽しんでいるならいいが、夜更かししすぎるなよ」
「気を付けます」
まだ眠いのか、エレオノーラは目をこすりながら答えた。
クラウスは後ろに控えていた給仕に声をかけた。
「ノーラにカフェオレを淹れてやってくれ。俺にはブラックコーヒーを」
「かしこまりました」
二人のカップが空になったころ、食堂にジェラールがやってきた。
「失礼いたします。このままこちらでお話してもよろしいでしょうか?」
「ああ。頼んだ」
ジェラールはテーブルに数枚の書類を広げた。
「こちらが奥さまにお願いしたいお仕事の一覧になります。いずれも手順書をご用意しております。具体的には使用人の采配、家計や予算の管理、食膳の管理、屋敷の維持管理、来客への対応……」
ジェラールの言葉に、エレオノーラの眉間のしわが段々と深くなっていった。
「ジェラール、そんなに一気に喋られてもわからないぞ」
「これは失礼しました」
クラウスは、テーブルに並んだ書類に目を通した。
「一つずつ教えてやってくれ。まずは……この食膳の管理なんてどうだ。ノーラは食べるのが好きだろう」
「それは、お食事の前のご挨拶を取り仕切ればよいのでしょうか?」
食膳は少し難しかった。
クラウスは反省した。
「ほっほっ、奥さまは機知に富んだ方ですね」
「キ……?」
「そうだろう。ノーラはこう見えて、結構面白い冗談を言うんだ」
クラウスは「冗談」という言葉を少し強調した。
「では、まずは献立の管理からやってみましょうか。ああ、ちょうど来ました」
厨房に続く扉から、一人の料理人が入ってきた。
無精ひげを生やした野性的な印象の男だった。
「こちらは料理長のガスパールです」
ガスパールはぶすくれていたが、ジェラールに肘で突かれて帽子を脱いで挨拶した。
「……よろしくお願いします、奥さま。こちらが献立表になります」
「普段は一週間分まとめてご確認いただいていますが、まずは今日の夕飯からやってみましょう」
ジェラールはそう言って、エレオノーラの前に献立を置いた。
クラウスもそれを覗き込む。
「何を確認すればよろしいでしょうか?」
エレオノーラが尋ねると、ガスパールが答えた。
「味付けや食材に偏りがないか確認してください。と言っても、俺はそんなヘマしませんけど」
「ガスパール。先週トマトだらけの夕飯を出そうとしたのは誰ですか」
ジェラールに言われて、ガスパールは黙った。
エレオノーラは、静かに献立に目を通した。
『
焦がしバターとサフラン香る 根菜のポタージュ
鹿のロティ 林檎と蜂蜜のソース 季節野菜のグラッセ添え
しっとりパウンドケーキ 薔薇のジュレとともに
』
「すごい量ですね。今日はビュッフェか何かでしょうか?」
「はて、いつも通りの量だと思いますが……」
ジェラールは眼鏡を指で正すと、献立を見た。
エレオノーラは中段のロティを指さした。
「でも、これだけで三つも」
「ノーラ、これは三つで一つの料理だ」
「そうですか。長い名前なのですね」
ジェラールとガスパールは、一拍遅れて顔を見合わせた。
「申し訳ありませんが、できればもう少し短い名前をつけていただけませんか?」
エレオノーラはガスパールを見て言った。
献立表の文字を指でなぞりながら、言葉を続ける。
「例えばこれでしたら、『林檎のグラッセ』などはどうでしょう?」
「何でそっちを残した」
クラウスは頭を抱えた。
ガスパールは険しい顔をして、エレオノーラのそばに歩み寄った。
「我々は料理名も含めて、食事を楽しめるよう懸命に考えています。そう簡単に短くしろと言われても困ります」
「そう……失礼なことを言って、ごめんなさい」
へこんでいるのか、エレオノーラは俯いた。
「でも、こんなに難しい言葉が多いと、さっきから眩暈がして……」
エレオノーラの身体がぐらりと揺れた。
椅子から落ちそうになったエレオノーラを、クラウスは慌てて抱きとめた。
「ノーラ!」
「お、奥さま!」
ガスパールも咄嗟に椅子が倒れないように支えた。
近くで控えていた使用人たちも駆け寄ってきた。
「部屋に連れて帰る。ジェラール、勉強はまた今度だ」
「もちろんでございます。あとで冷たいお水とタオルをお持ちしましょう」
クラウスはエレオノーラを抱き上げると、早足で食堂をあとにした。
* * *
二人が部屋に戻ったあと、食堂には先ほどの事件を目撃した使用人が集められていた。
食堂の中央で、ジェラールとガスパール、そしてマノンが対峙していた。
「マノン殿、率直に尋ねましょう。エレオノーラさまは……バカなの――」
「いいえ。バカではありません。天然です」
マノンは食い気味に答えた。
先ほどの献立表を手にしたガスパールが、マノンの前に出た。
「これをビュッフェだと言ったことも?」
「天然です」
「メニューが難しいと眩暈を起こしたことも?」
「天然です」
マノンはよく知っている。
あれは、天然などという可愛らしいものではない。
天から賜ったバカという才能だ。
しかし、今は認めるわけにはいかなかった。
ここに来てまだ二週間だ。
少しずつ慣らさなければ、バカの過剰摂取で屋敷が崩壊しかねない。
「なるほど、バカではないとおっしゃるのですね」
「はい、天然です」
マノンとジェラールは静かに睨み合った。
その時、食堂のドアが勢いよく開いた。
「ジェラールさま! 大変です! アルマンさまがお見えです!」
そう叫んだのは、衛兵の一人だった。
アルマンという言葉に、使用人たちの間に緊張が走る。
「クラウスさまが対応されているのかですか?」
「それが、ちょうど今しがた騎士団からの呼び出しで出て行ってしまわれて……今は衛兵でなんとかしています」
「そうですか。仕方ありません、我々で対処しましょう」
マノンは聞き覚えのない名前に首を傾げた。
「アルマンさまとは?」
「クラウスさまのお兄さまです。継承権を放棄して田舎暮らしをされているのですが……申し訳ありませんが、詳しくは後ほど」
ジェラールはジャケットの襟を正すと、パンパンと手を叩いた。
「さあ、皆さん。各自持ち場についてください」
そう言ったジェラールの顔はいつになく厳しかった。




