第2話 男の責任(前編)
夜になると、窓の外を雪が舞い始めた。
エレオノーラは寝室の広いベッドの上で、ひとりクラウスを待っていた。
シーツの上に散らされた薔薇の花びらを手に取って、ぼんやりと眺める。
ここで大人しくクラウスを待っていろとマノンに言われ、はや半刻が過ぎた。
エレオノーラの瞼が段々と落ち始めた時、ドアをノックする音がした。
「エレオノーラ、入ってもいいか」
クラウスの声だった。
エレオノーラは立ち上がり、ドアを開けた。
「すまない、遅くなっ――」
クラウスはエレオノーラの姿を見て固まった。
そしてすぐさまエレオノーラを部屋に押し込むと、勢いよくドアを閉めた。
「どうかされましたか?」
白いシルクの夜着を纏ったエレオノーラは、神秘的なまでに美しかった。
長い髪は片側でゆったりとまとめられ、薔薇の香油が上品に香った。
クラウスは直視できず、視線を逸らした。
女神の水浴びを覗き見たような気持ちになった。
「仕事が長引いて遅くなってしまった。待たせて悪かった」
「気にしないでください」
「その服は寒いだろう、こちらへ」
クラウスはエレオノーラの手を引いて、ベッドに座らせた。
畳まれていた毛布を広げてエレオノーラの肩にかけた。
「部屋はどうだ? 気に入ったか?」
「はい、とても」
エレオノーラはそれだけ言って、口を閉ざした。
薔薇の花びらで静かに手遊びしている。
「エレオノーラは、家族に何と呼ばれているんだ」
「ノーラと」
「俺もそう呼んで構わないか」
「はい」
クラウスは、薔薇を弄ぶエレオノーラの手にそっと触れた。
「一応聞くが、夫婦が結婚初夜に何をするかわかっているか?」
「……」
エレオノーラは何も答えなかった。
恥ずかしがっているのではないことは、眉間のしわを見れば明白だった。
「本当の夫婦になるための儀式だと、先ほどマノンから聞きました」
「他には?」
「申し訳ありません、五十文字以上の話は覚えていられなくて」
クラウスは言葉に詰まった。
「……つまり、わからんのだな」
「はい」
クラウスは大きく息をついた。
自分がどうするかは決まっていたが、この娘にどう伝えればよいのか迷っていた。
「ノーラ」
クラウスは立ち上がって、エレオノーラの前に膝をついた。
青い瞳をまっすぐに見つめる。
「もう一度、ちゃんと学んで来い。これは意味も知らずにすることではない」
「わかりました。でも、私に覚えられるでしょうか」
「覚えなくていい。話を聞いて、ノーラが俺と本当の夫婦になってもいいと思えたら、教えてくれ。いいか?」
「はい」
クラウスはエレオノーラの手をポンポンと叩いた。
靴を脱ぎ散らかして、ベッドに上がる。
「寝よう、疲れただろう」
「一緒に寝るのですか?」
「嫌か?」
初夜から別の部屋で寝てしまうと、エレオノーラの立場がなくなる。
「いえ、むしろ私が嫌な思いをさせてしまうかと思いまして」
「ん? そんなわけないだろう」
「では、失礼します」
エレオノーラはゴソゴソと布団に潜り込んでくる。
彼女の足先がクラウスの足に触れた。
冷たかった。
随分と待たせてしまったとクラウスは内心で反省した。
身体をよじってエレオノーラの方を向くと、海色の瞳が眠そうにトロンと潤んでいた。
クラウスは指先でそっとエレオノーラの頬に触れた。
「あらためて、よろしく頼む」
「はい、旦那さま」
「おやすみ、奥さん」
形のいい唇が、柔らかく弧を描いた。
クラウスはベッドサイドの灯りを消して、目を閉じた。
半刻後、クラウスはエレオノーラの言葉の意味を理解した。
容赦ない蹴りを食らったわき腹を押さえて、ベッドの隅に縮こまる。
「舞踏会にでも参加してるのか?」
妻の芸術的な寝相を見ながら、そう呟いた。
* * *
翌朝、昨日と変わらぬ様子のエレオノーラと対照的に、ゲッソリしたクラウスがダイニングにやってきた。
「あのクラウスさまを疲れさせるなんて、奥さまは一体……」
「しっ、不躾な詮索はやめなさい」
使用人たちは、二人の様子を見てうわさ話に勤しんだ。
席に着いたクラウスに、エレオノーラは微笑みかけた。
「おはようございます、クラウスさま」
「おはよう、ノーラ。よく眠れたか?」
「はい。実家よりベッドが柔らかくて、心地よかったです」
「それはよかった……」
蹴られたわき腹をさすって、クラウスはナイフとフォークを手に取った。
「商人を呼んでおいた。夜会用のドレスを買うといい。他にも欲しいものがあれば好きに買え」
「わかりました。ありがとうございます」
「夕方には戻る。朝一で会議があるから、食べたらすぐ出る」
エレオノーラは小さくうなずいた。
広いダイニングに、食器の音だけがカチャカチャと静かに響く。
クラウスは時折、エレオノーラの様子を見ていた。
ナイフを使う手つき、口に運ぶ動作、食べ終わった後のお皿。
そのどれもがきれいで、見ていて気持ちがよかった。
「お食事中失礼します、クラウスさま。そろそろお時間が……」
「わかった」
クラウスはパンを口に押し込んで、水で流し込んだ。
小皿の上に一つだけ置かれたマカロンを、エレオノーラの前に差し出した。
「やる。見送りはいいから、ゆっくり食べろ」
「ありがとうございます。お気をつけていってらっしゃいませ」
エレオノーラはフォークを置くと、座ったまま丁寧なお辞儀をした。
* * *
夕方、騎士団での仕事を終えると、クラウスは急いで家に帰った。
予定より遅くなった。
小走りで部屋に向かい、使用人の手を借りて着替えていると、執事長のジェラールがやってきた。
「クラウスさま、おかえりなさいませ。馬車の用意はできております」
「助かる。ノーラは変わりないか?」
「はい、午前中は屋敷をご案内いたしました。午後はお買い物を楽しんでおられました」
「そうか。今度、騎士団の本部も案内したい。予定を組んでおいてくれ」
「かしこまりました」
支度を終えて、クラウスは玄関前でエレオノーラを待った。
ジェラールの様子から、まだエレオノーラの秘密はバレていないようだった。
しかし、時間の問題だ。
どうしたものかと、クラウスは頭を悩ませていた時、足音がした。
「お待たせしました」
マノンに連れられてエレオノーラが二階から降りてきた。
エレオノーラは、光沢のあるロイヤルブルーのマーメイドドレスを纏っていた。
シンプルなデザインだが、胸元にあしらわれたレースの刺繍が華やかさを演出している。
「綺麗だな。ノーラは青が好きなのか?」
「はい。私の瞳の色だからと、昔から母が青いものをよく買ってくれました」
「そのネックレスは?」
クラウスは、エレオノーラの首元で光る宝玉を指した。
繊細な蔦を模した台座に、紫色の石が並んでいた。
「とても綺麗で、これも買ってしまいました」
「構わん。よく似合っている」
この豪奢な服と装飾をしてなお、エレオノーラ自身が圧倒的な存在感を放っている。
宝飾品の一つぐらいなくては、バランスが取れないとクラウスは思った。
「行こうか」
「はい」
クラウスはエレオノーラをエスコートして、馬車に乗り込んだ。
半刻も経たないうち、馬車は会場のブラン伯爵邸に到着した。
広大な庭があり、玄関まで距離がある。
クラウスは馬車から降りて、ふと隣に停まっている馬車を見た。
馬車の側面に、よく知る人物の家紋が刻まれていた。




