第10話 夫の決意(後編)
テオが立っていた地面が折れるように崩れた。
クラウスは崖下に吸い込まれていくテオの腕を掴んだが、引き上げられずそのまま落ちた。
「団長! テオ!」
班員たちが慌てて下を覗くと、二人は数メートルの斜面を滑り落ち、パッと姿が見えなくなった。
「待て、先に安全確認だ。狼が散ったか確認しろ。常に冷静に動けと言われてるだろう」
年長の騎士が中心になって役割を振り分け、班員たちは周辺の警備や救助の準備にあたった。
「団長、テオ! 聞こえますか!」
二人の班員が転落地点に残って、下へ声をかけていた。
しかし沢の水音がうるさく、声がかき消された。
「道具がないと降りるのは厳しいな。今から救助の準備をしても、日暮れに間に合わないかもしれない」
「山を降りて、猟師から情報を集めよう。防寒具も保存食もあるから、一晩ぐらいしのげるはずだ」
二人は年長の騎士に状況を報告した。
他の班員たちも集合し、皆暗い表情で下山を開始した。
* * *
その夜、夕食を終えたエーレンベルク家に一人の騎士が馬で駆けてきた。
以前にも来たことがある伝令係だと気づいて、ジェラールはよくない報せを察した。
「……以上が現状わかっている情報です。新しい情報が入ったらまたお知らせします」
「よろしくお願いいたします」
騎士から状況を聞いて、ジェラールは大きく息をついた。
これまでも、似たようなことが何度かあった。
しかし、エレオノーラにとっては初めての経験だ。
「マノンさんを呼んでもらえますか」
「承知いたしました」
近くにいた使用人にそう頼んでから、ジェラールは重たい足取りでエレオノーラの部屋へ向かった。
扉の隙間から灯りが漏れていた。
「奥さま、夜遅くに失礼いたします」
「どうぞ」
エレオノーラはソファーに座っていた。
「どうかしましたか?」
「奥さま、落ち着いてお聞きください」
ジェラールは、エレオノーラの横に膝をついて屈んだ。
「先にお伝えしておきますが、今は正確な情報がわかっていない状況です。悪い方にご想像をなさらないように」
「はい……?」
エレオノーラは不思議そうにしながらも小さく頷いた。
「旦那さまがベルネでの任務中に崖から転落されて、ご無事かどうかわからない状況です」
青い瞳が大きく見開かれた。
膝に置かれた手は、ドレスをギュッと握りしめた。
「……わかりました」
答えは短かったが、その声は震えていた。
「また報せがありましたら、すぐに参ります」
「ありがとうございます」
ジェラールが部屋を出ると、マノンが立っていた。
「状況は伺いました。ここで待機しています」
「では、椅子をお持ちしましょう」
「ありがとうございます」
マノンはお辞儀をして、扉のそばに寄りかかった。
その向こうから、押し殺したような泣き声が聞こえた。
* * *
同じころ、星空の美しいベルネの山中では、二人の男が小さな焚き火を囲んでいた。
「テオ、なんか食べるか? 色々持ってきた」
「あざっす!」
クラウスとテオだった。
テオの足には痛々しく包帯が巻かれていたが、クラウスはピンピンしていた。
「すいません団長、迷惑かけて」
「いい。その程度の怪我で済んでよかった」
二人は斜面を滑った後、崖の下の岩棚に落ちていた。
少々身体は痛いが、崖がそれほど高くなかったことが幸いして大きな怪我はなかった。
しかし、足を痛めたテオを抱えて脆い地面を登るのは危険と判断し、大人しく救助を待っていた。
「明日になれば救助がくるだろう。野営の訓練とでも思って待とう」
「えー嫌っすよ、こんな時まで訓練するの」
テオは言いながら、リュックを漁るクラウスの手元を見た。
「お、あった。干し肉だ」
クラウスは手に取った布袋をテオに投げた。
続いて別の布袋を取り出した。
やけに可愛らしい、水色の花が刺繍された袋だった。
「なんすか、それ」
「わからん」
クラウスは紐を引いて、中を見た。
色とりどりの小さな砂糖菓子が入っていた。
エレオノーラが好んで食べている菓子だった。
「あー! お菓子! 高いやつ!」
袋を覗き込んだテオが興奮気味に叫んだ。
「ほしいならやるから騒ぐな」
お手する犬のようにテオが両手を差し出した。
クラウスはその手に数粒の菓子を落としてやった。
「うーん、甘い! 疲れた身体に沁みます。奥さんからですか?」
「ああ」
昨日の夜、荷造りをしているジェラールにエレオノーラが何かを話しかけていた。
その時に入れたのだろう。
クラウスも数粒、砂糖菓子を口に放り込んだ。
「愛されてますねえ」
テオが砂糖菓子をボリボリと噛み砕きながら言った。
クラウスはリュックを枕に寝転がると、星空を見上げた。
「……そうだな」
砂糖の甘さが口いっぱいに広がる。
ずっと見て見ぬ振りをしてきた感情は、認めてしまえば案外スッと心に溶けた。
「あーあ、どうせなら彼女と見たかったなあ」
同じように寝転がると、テオが言った。
「恋人がいるのか」
「いますよ。ベルネの星空は恋人たちの聖地、なんて言われてるんすから」
「どうりで綺麗なわけだ」
エレオノーラを連れてきたら、喜ぶだろうか。
クラウスは、今朝の妻の顔を思い出した。
落ちた崖がもっと高かったら、こんな風に呑気に星を見ていられなかっただろう。
狼に噛みつかれていたら。
落ちた時に頭を打っていたら。
そんな想像が頭を巡った。
「救助が来たら走って帰ります。彼女が心配してると思うんで」
「その足で走ったら転ぶぞ」
テオはどこかエレオノーラと似ているとクラウスは思った。
素直で、全てが行動に直結するタイプだ。
対して、自分は逃げてばかりだ。
今朝もそうだった。
エレオノーラが唇に伝えてくれたことから目を逸らして、額に返事をした。
万一さっき死んでいたら、それを後悔しながら逝く羽目になっただろう。
エレオノーラが伝えてくれる想いを、ちゃんと真正面から受け止めたいと思った。
そして自分も、伝えたいと。
クラウスはゆっくりと起き上がると、火のそばに移動して座った。
「テオは寝てろ。狼はここまで来ないと思うが、念のため見張っている。朝になったら狼煙をあげよう」
「うっす、ありがとうございます」
テオはそう答えて、身体を丸めた。
パチパチと鳴る薪の音を聞きながら、クラウスは瞬く星々をいつまでも眺めていた。




