第10話 夫の決意(前編)
リンデン家の来訪から数日後、エーレンベルク家にはいつもの日々が戻っていた。
クラウスは朝から自室にこもって、書類仕事を片づけていた。
コーヒーを飲みながらふと窓の外を見ると、庭をエレオノーラが歩いていた。
アンナと散歩しているようだった。
近くにいた庭師もエレオノーラに気付いて、三人で何か話し始めた。
目を細めてその様子を見ていると、扉を叩く音がした。
「旦那さま、少しご相談をよろしいですか」
「入っていいぞ」
「失礼します」
マノンだった。
コーヒーを啜りながらクラウスは問いかけた。
「どうした?」
「先日奥さまから、『本当の夫婦になるための儀式とは何をするものなのか』と聞かれました」
クラウスはむせた。
せき込むクラウスに、マノンは静かにハンカチを差し出した。
「念のためお聞きしたいのですが、どこからお教えすればいいでしょうか?」
「全部だ」
食い気味な答えだった。
マノンはすべてを察して、少しの間考えた。
「昔リンデン家に仕えていた乳母が王都にいるので、頼んでみてもいいでしょうか? 彼女は奥さまへの教え方を熟知していますし、口も堅いです」
「任せる」
「承知いたしました」
クラウスは書類に視線を戻して、ペンを取った。
扉の前で、マノンは立ち止まってクラウスを振り返った。
「エレオノーラさまを大切にしてくださって、ありがとうございます」
「当たり前のことだ」
ペンを走らせながら、クラウスは何でもないことのように答えた。
* * *
昼時、クラウスは仕上げた書類を持ってジスランの元へ向かった。
「今年の新人訓練の資料だ」
「わあ、今年もきつそうだねえ」
書類をパラパラとめくりながら、ジスランが言った。
「これで折れるぐらいなら、やめた方がいいんだ。命がいくらあっても足りん」
「それもそうだね」
「それで、相談ってなんだ?」
今日ここを訪ねたのは、ジスランに呼ばれたからだ。
書類はそのついでだった。
「ベルネで狼が出たらしいんだ」
「ああ……今年もそんな時期か」
ベルネは王都の外れの山沿いにある小さな町だ。
毎年、春先のエサが少ない時期になると人里に狼が降りてくることがある。
「今年は群れが大きいのか、家畜が結構やられちゃってるんだ。いつ人的被害が出るかわからない、早めに片づけてほしい」
「わかった。隊を組んで、明日にでも現地に行けるようにしておく」
クラウスはジャケットを腕に引っ掛けて立ち上がった。
「奥さんは元気?」
「急になんだ、元気だ」
「そう」
「本部に戻って相談してくる。じゃあな」
ニコニコ笑うジスランを、クラウスは気持ち悪そうに見て出て行った。
「今日はつまんないなあ」
書類を投げ出して、ジスランはひとりぼやいた。
* * *
本部での準備を終えて、クラウスは夕飯の時間よりも早くに帰宅した。
エレオノーラはお腹が空いていたらしく、既に食堂で待機していた。
「ガスパール、もうできているなら出してくれ」
「かしこまりました」
クラウスも自分の席に座って、エレオノーラと話をしながら料理を待った。
ガスパールが前菜代わりにとチーズを出してくれた。
「明日の朝、ベルネに行く。もしかしたら泊まりになるかもしれない」
クラウスは言いながら、近くに控えていたジェラールに向けて軽く手を挙げた。
「山用の装備と、保存食も少し準備しておいてくれるか」
ジェラールは静かにうなずいて部屋を出て行った。
「ベルネとはどこですか?」
エレオノーラはチーズをつまみながら問いかけた。
「王都の東の、端っこの方だ。狼が出たらしい」
「実家の裏山にも、よく狼が出ていました」
「それは……ちょっと危ないな」
「はい。一度、庭まで入ってきたことがあって、アレクサンドルが追い払ってくれていました」
番犬向きの大型犬なのだろうかと、少し興味がわいた。
騎士団で猟犬を飼っていることもあって、クラウス自身も犬が好きだった。
「夜になると遠吠えしていて、小さいときはすごく怖かったです。今でも苦手です」
「そうだったのか」
「気をつけて行ってきてくださいね」
「ああ、ありがとう」
クラウスが答えると、ちょうどお待ちかねの夕飯が運ばれてきた。
* * *
翌朝、エレオノーラはまだよく寝ていた。
起こすのも悪いと思って、頭を撫でて出ていこうとしたが、指を掴まれた。
「クラウスさま……」
寝ぼけまなこのエレオノーラがこちらを見ていた。
「起こして悪い。今日はもう行く」
身を屈めてそう言うと、エレオノーラの腕が首に回された。
そのままグッと下に引っ張られて、キスをされた。
「いってらっしゃいませ」
エレオノーラは気の抜けた顔で微笑んだ。
ここ数日、こうして何度か不意打ちを食らっていた。
本人は驚かせるつもりはないのだろうが、クラウスは毎回深刻なダメージを負っていた。
「……いってくる」
目を逸らして迷った末、エレオノーラの額に口付けを落とした。
ポンポンと頭を撫でて部屋を出る。
扉が閉まるまで、眠たげな青い目がずっとこちらを見ていた。
* * *
昼前にベルネに着くと、クラウスたちは町長と牧場主に狼の被害状況を確認した。
「三班に分かれて、三方向から山に追い立てよう。俺の班は足跡を辿って東から登っていく。副団長は──」
クラウスは地図を確認しながらテキパキと指示を出した。
説明が終わると、班員たちがクラウスの元へ集まった。
テオの姿もあった。
「これだけの人数がいれば狼は基本逃げるが、たまに興奮したやつが飛びかかってくることもある。気を抜くなよ」
「「「はい!」」」
クラウスを先頭に、班員たちは山を登り始めた。
高くなるにつれて、気温が下がって道がぬかるんできた。
「歩きにくいっすね」
クラウスの隣を歩くテオが言った。
「ここは陰になってるからな。雪解けの影響だろう」
「滑って転ばないように気をつけてくださいねー」
テオが後ろの班員に声をかけたその時、前方の茂みから物音がした。
「止まれ」
クラウスの声に班員が一斉に足を止めた。
茂みの合間から、数匹の狼がこちらを見ていた。
クラウスが一歩踏み出すと、狼は弾かれたように上へ逃げていった。
「足跡を追っていこう。もう少し上の方まで追いやりたい」
狼を追って細い道に入っていく。
すぐそばが斜面になっており、班員たちは慎重に足を進めた。
近くに沢があるようで、水音もうるさくなってきた。
しばらくすると、また数匹の狼を発見した。
先ほどよりも数が多い。
狼たちは毛を逆立ててこちらを睨んでいた。
「角笛を」
「はい!」
後方の班員が首に下げていた角笛を思い切り吹いた。
狼たちは飛び上がり、森の奥へ逃げていく。
しかし一匹だけ、パニックになったのか興奮気味にテオの方へ向かっていった。
「おっと」
テオは剣を納めたまま、鞘を横にして狼の前に突き出した。
鞘に噛みついた狼を振り払った直後、テオの足元からメリメリと嫌な音がした。
「テオ!」
「えっ?」




