第9話 愛情の種類(前編)
「で、今日は何しに来たの?」
よく晴れた日の夕方。
仕事終わりの紅茶を楽しんでいたジスランは、突然部屋に押し入ってきた大男にリラックスタイムを妨害されていた。
「妻がずっと見つめてくる」
仁王立ちで邪悪なオーラを放つ幼馴染に、ジスランはわざとらしくため息をついた。
結婚すると友人付き合いが減る人が多いが、クラウスは逆だった。
結婚してからは、頻繁にジスランに悩みをぶつけにくるようになった。
「惚気にきたのかい?」
「違う、友人の話だ」
「見つめてもらえばいいじゃないか、あんなに綺麗な奥さんなんだから」
面倒になってきて、適当に答えた。
クラウスはさらに怖い顔になったが、しばらくすると「帰る」とだけ言って出ていった。
「何しにきたんだか……」
肩をすくめて、ジスランはティータイムを再開した。
* * *
クラウスが王宮から真っすぐ帰宅すると、玄関に夕飯のいい香りが漂っていた。
出迎えてくれたジェラールにジャケットを渡す。
すっかり暖かくなって、コートがいらなくなってきた。
「ノーラは?」
「湯あみをされています。夕飯はまだです」
「そうか。ノーラが上がったら一緒に食べる」
「かしこまりました」
階段を上がろうとしたら、ジェラールに呼び止められた。
まだ何か話があるようだった。
「エレオノーラさまから、ご相談がありました。リンデンのご家族を、家に招待してもいいかと」
「構わん。仕事は調整する」
「承知いたしました。では、準備を進めます」
ジェラールはお辞儀をして下がっていった。
クラウスは寝室に入って、シャツのボタンを数個開けた。
テーブルに置かれたガラス瓶を手に取って、中の砂糖菓子を一つ、口に放り込んだ。
エレオノーラがこの家に来てから、至る所に菓子が置かれるようになった。
「ノーラの家族か……」
ベッドに上がって、クラウスはポツリと呟いた。
急な結婚だったので、ろくに顔合わせもできていなかった。
唯一、エレオノーラの父――モーリス・アフ・リンデン男爵とは婚前に挨拶をしたことがあった。
それ以外には、母と弟、妹がいると聞いていた。
「弟は、確かアレクサンドルだったか……」
あとでエレオノーラに話を聞こう。
そう思ったが、クラウスは目下解決しないといけない別の問題を思い出した。
数日前から、エレオノーラが意味深な視線を向けてくることがあった。
キスしたことを怒っているのかもしれない。
一刻も早く泣き止ませたい一心だったが、エレオノーラからすれば都合のいい言い訳でしかないだろう。
弁明の余地はない。
腹を括って謝るべきだ。
そう考えていると、妻の部屋に続く扉が開いた。
少し開いた隙間から、青い瞳が瞬きもせずこちらを見ていた。
「ど、どうした?」
エレオノーラは何も答えずベッドに上がると、四つん這いでそばまで迫ってきた。
クラウスは思わず息を止めた。
「クラウスさま、聞きたいことがあります」
「なんだ?」
エレオノーラは湯上りのようで、頬がほんのり上気していた。
髪もまだ濡れており、寝巻きからは白い肌が覗いた。
目を逸らし、クラウスは必死に平静を装った。
「悪魔がいないと証明するためでないと、口付けをしてはいけないのでしょうか?」
「……ん?」
クラウスは意味がわからなかった。
わからないながらも答えた。
「俺たちは夫婦なんだから……したいときにすればいいんじゃないか? その……ノーラが嫌でなけれ――」
エレオノーラが身を乗り出してきて、気づいた時には唇が触れ合っていた。
驚いて固まっている間に、柔らかな感触はすぐに離れていった。
その直後、扉を叩く音がした。
「奥さま、ちゃんとお髪を乾かしてください」
アンナの声だった。
「今戻るわ」
そう答えて、エレオノーラは何事もなかったように戻っていった。
部屋には呆然とするクラウスだけが残された。
「何だ今の」
クラウスは自分の唇に指先で触れた。
ここ数日、何か言いたげに見ていたのは、キスがしたかったのだろうか。
「そんな都合のいいことあるか……?」
バタリと倒れこむと、クラウスは枕を抱きしめて顔を埋めた。
その耳が次第に赤く染まっていった。
* * *
翌週末、昼を過ぎたころにエーレンベルク邸の前に一台の馬車が停まった。
馬車の側面には、翼を広げた美しい白鳥の家紋が描かれていた。
リンデン家の家紋だ。
「すごい豪邸! お庭にうちが入っちゃいそう!」
「ルーシー、お行儀が悪いわよ」
ストロベリーブロンドの髪の少女が、馬車から飛び出してきた。
続いて、エレオノーラによく似たブロンドの女性――リセが降りてくる。
「父さま、早く降りてよ」
「よいしょ。ちょっと待っておくれよ、ハイド」
反対の扉からは、小太りの男性――モーリスと一緒にハイドと呼ばれた青年が出てきた。
「あ! 姉さま!」
重そうな玄関扉が開いて、その向こうに恋しかった姉の姿を見つけた。
ルーシーは嬉しさのあまり大きな声を出して、駆け出した。
「ルーシー、久しぶり」
勢いよく突っ込んできたルーシーを、エレオノーラはよろめきながら受け止めた。
他の家族もぞろぞろと玄関へやってきた。
「久しぶりね、エレオノーラ。元気そうでよかったわ」
「お母さまも、お元気そうですね」
一人一人とハグをしていくエレオノーラを、クラウスは横で見守っていた。
「クラウスさま、お久しぶりです」
「お久しぶりです、リンデン男爵。でも、『さま』はよしてください。敬語もいりません」
頭を下げたモーリスを、クラウスは慌てて止めた。
エレオノーラは家族の隣に立つと、クラウスの方を見た。
「クラウスさま。こちらが父のモーリスと、母のリセです。この子が妹のルーシー。十歳です。最後に弟の――」
「ああ、君がアレクサンドルか」
「は?」
ハイドが素っ頓狂な声を出した。
「前に言ってただろ? 弟だって」
クラウスがエレオノーラに尋ねると、横からハイドが答えた。
「アレクサンドルはうちの犬です」
「え?」
「俺はハイド・アフ・リンデンと申します。歳は十七です」
クラウスは妻に虚ろな目を向けた。
「その様子だと姉さんのことはろくに理解してなさそうですね」
「ちょっとハイド、伯爵さまになんて失礼なこと言うの」
リセに叱られて、ハイドは顔を背けて黙った。
「皆さま、ひとまず中へどうぞ。昼食も兼ねてお茶会のご用意ができています」
ジェラールがにこやかに差し挟んで、一同は客間へ移動した。
* * *
客間のテーブルには、豪華なセイボリーやお菓子が載った三段皿が並んでいた。
ガスパールたちが張り切って作った料理だった。
互いの自己紹介をしながら、皆で茶菓子をつまむ。
子どもたちは全員、リセにそっくりだった。
致死量の美貌に晒された使用人たちが、時折魂を抜かれたように見とれていた。
エレオノーラが自分の顔を特別に思っていないのも、この環境で過ごしてきたからかもしれない。
「どれも美味しいわね。ノーラはいつもこんな美味しいものを食べているのね」
「はい。とても幸せです」
リセがチョコレートケーキを食べて、嬉しそうに微笑んだ。
クラウスは自分の分のマカロンを小皿に取って、エレオノーラに渡そうとした。
「姉さん、俺のマカロンをあげるよ」
「ありがとう、ハイド」
一歩早く、ハイドがエレオノーラにマカロンを差し出した。
クラウスは手元のマカロンを見て、何事もなかったように口に入れた。
「ふんっ」
ハイドが鼻を鳴らして笑った気がしたが、クラウスは聞かなかったことにした。
「姉さま、あーんして」
ルーシーは隣に座る姉の袖を引っ張った。
「どれがいいの?」
「このクッキー!」
「はい、あーん」
「あーん」
顔をくしゃくしゃにして、ルーシーは全力で幸せを表現していた。
エレオノーラの幼少期もこんな感じだったのだろうかと、クラウスは思わず顔を綻ばせた。
「そういえばクラウスくん、結婚式はどうするんだい?」
スコーンにジャムを塗りながら、モーリスが言った。
娘に似た豪快な塗りっぷりだった。
「すみません。仕事が忙しくて、まだ計画できていません」
「仕事より結婚式を優先してくださいよ。姉さんのウエディングドレス姿が見たくないんですか?」
「ハイド、いい加減にしなさい」
リセに怒られて、ハイドは口を閉ざした。
「そうだぞ。二人が決めることなんだ。とはいえ、親として娘のドレス姿はやっぱり見たいなあ」
モーリスはエレオノーラを見ながら言った。
「実はね、ノーラ。私が使ったウエディングドレスを持ってきたの。リメイクしてノーラが着られないかと思って」
リセが言うと、ルーシーがパッと顔を輝かせてエレオノーラの膝を揺らした。
「姉さま、絶対似合います!」
「どう? お茶が済んだら、ドレスを試着してみない?」
クラウスは耳を澄ませてエレオノーラの返答を待った。
「はい、着てみたいです」
クラウスの向かいで、ハイドが小さく拳を握りしめた。
「あっ、男性は立ち入り禁止ですからね!」
直後下されたルーシーの無情な宣告に、男三人は揃ってうなだれた。




