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似たもの夫婦の恋日和 ~堅物騎士団長は深窓のアホ令嬢を読解してみせます!~   作者: 上園 千紗


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第8話 悪魔の歯(後編)

 エレオノーラは自室におらず、寝室にいた。

 ヘッドボードに寄りかかり、虚ろな目で窓の外を見ていた。


「ノーラ、帰ったぞ」

「おかえりなさいませ」


 クラウスはベッドに腰掛けた。

 エレオノーラの髪はあちこち絡まっており、寝巻きのまま着替えてもいなかった。


「出迎えのハグはしてくれないのか?」


 答えはなかった。


 クラウスは今朝の会話を思い出した。

 同じ質問をした時、エレオノーラは「したくない」ではなく「できない」と言った。


 アンナの話も踏まえると、エレオノーラが人との接触を拒む何かがあるはずだ。


「人に触れられたくないか?」


 ボサボサの頭が小さく上下に動いた。

 否定ばかりだったエレオノーラが、ようやく一つ認めてくれた。


「それは、ノーラが人に触れられるのを嫌だと感じるからか?」

「違います。嫌じゃありません」

「じゃあどうしてだ?」


 指先を見ていた視線が、また窓の外に移った。

 空に浮かんだ白い月を見ながら、エレオノーラは静かに言った。


「私に触れると、悪魔がうつってしまうからです」

「……悪魔?」

「私は地下牢に行かないと――」

「待ってくれ、ノーラ。ゆっくり話そう」


 クラウスは少し語気を強めて、その言葉を制した。

 突拍子もない言葉に、クラウスの方が混乱してしまいそうだった。


 気を落ち着けるよう、一度大きく深呼吸した。


「一つずつ教えてくれ。どうして悪魔がうつると思うんだ?」

「ガスパールさんがそう教えてくれました」

「じゃあ、その悪魔が……風邪みたいなものだとして、ノーラはどうして自分が悪魔に感染したと思うんだ?」


 エレオノーラはうつむいた。

 眉間にシワを寄せて、苦しそうな顔をした。


 その表情に、クラウスは胸の奥が潰されるような感覚を覚えた。


「ノーラ。地下牢になんて行かせない。もし悪魔に感染していても助ける。だからノーラの言葉でちゃんと教えてほしい」


 ベッドに乗り上げて、妻の顔を覗き込んだ。


「俺たちは夫婦だろう? ノーラが辛い時は、俺が支えたい」


 エレオノーラの瞳がわずかに揺れた。

 何かを言いかけて口を開いて、閉じて、しばらくそれを繰り返した。


「歯が……」


 粘り強く待っていると、ようやくエレオノーラが言葉を発した。


「歯がどうした?」

「悪魔の歯が生えてきたんです」


 その瞬間、クラウスはすべてを悟った。


 悪魔の歯。

 少し昔に使われていた、親知らずの俗称だ。


 痛んだり腫れたり、悪さをすることが多く、クラウスも数年前にひどい目にあった。


「ノーラ、大丈夫だ。それは――」


 その時、エレオノーラがパッと顔を上げた。

 海色の瞳を見て、クラウスは言葉を失った。


 宝石のようなその目には、溢れ出しそうな涙が溜まっていた。


「だから私はもう、クラウスさまと一緒にいられません」


 ポロポロと涙が零れて、頬を伝った。

 驚くと同時に、クラウスは反射的にエレオノーラを抱きしめていた。


 エレオノーラが泣いた。

 それはひどくクラウスの心を動揺させた。


 何を言われようとノーダメージで斜め上に打ち返すエレオノーラが、自分を想って泣いていた。


「ノーラ、落ち着け。大丈夫だ」

「クラウスさま、いけません、悪魔が――」

「大丈夫だ」


 クラウスは震える背中をトントンと叩いた。


「悪魔は人にうつらない。何も心配することはない」


 エレオノーラの手が、ギュッとシャツを握った。


「本当ですか?」

「ああ、本当だ」


 エレオノーラはクラウスを仰ぎ見た。

 綺麗な顔が、涙でぐしゃぐしゃになっていた。


「でも、ガスパールさんが悪魔はうつると」

「あー……」


 クラウスは言葉に迷った。

 ガスパールには今度、騎士団への差し入れをたんまりと作らせようと心に決めた。


「うつる悪魔もいるのかもしれないが、ノーラの悪魔はうつらない。それに俺にも、同じ悪魔の歯がある」

「クラウスさまにも?」

「ああ。それに、今こうして触れ合っても、うつっていないだろう?」


 エレオノーラはコクリとうなずいた。

 しかし、なおも不安なのか、まだ涙が溢れていた。


「そんなに不安か?」

「……はい」


 エレオノーラは鼻をすすりながら答えた。

 クラウスは優しくその頬に触れて涙を拭った。


「じゃあ本当にうつらないか、試してみるか?」

「試せるのですか?」


 クラウスの親指が、エレオノーラの唇にそっと触れた。


「ここに触れれば証明できる」


 そう言って、クラウスは自身の唇をエレオノーラの唇に重ねた。

 腕の中で華奢な身体がビクリと震えた。


「うつってないだろ?」

「……はい……」


 エレオノーラはポカンと口を開けたまま答えた。


 涙が止まっているのを見て、クラウスはほっと胸を撫でおろした。

 目の縁に残っていた雫を掬ってやると、エレオノーラは呆けたままクラウスの胸に顔を埋めた。


「もう不安なことはないか?」

「はい」

「ご飯もちゃんと食べるか?」

「食べます」

「出迎えのハグもしてくれるか?」

「はい」


 背中を撫でながら、クラウスは目を閉じた。


 時間はかかったが、ちゃんと向き合えた。

 それが嬉しかった。


「ノーラ?」


 そのまま背中を擦っていると、段々とエレオノーラの身体が重くなってきた。

 疲れて眠ってしまったようだった。


 クラウスはエレオノーラをベッドに寝かせると、顔に張り付いた髪の毛を払った。

 その指が、スヤスヤと穏やかな寝息を立てる唇のそばで止まった。


「……」


 クラウスの頭の中を、この部屋に来てからの出来事が走馬灯のように駆け巡った。

 そこでようやく、自分のしたことを正しく認識した。


「俺は……何を……?」


 クラウスは無罪を主張するようにパッと両手を上げた。

 手遅れだった。


 気持ちよさそうに眠るエレオノーラを残して、クラウスは放心状態で自室に戻った。


*    *    *


 エレオノーラが目を覚ましたころ、エーレンベルク家の侍医がやってきた。

 マノンも付き添って、エレオノーラに正しい親知らずの知識が伝えられた。


 さらにその夜、クラウスによってエーレンベルク家の全使用人が食堂に集められた。

 屋敷内での比喩表現の全面禁止が告げられ、使用人たちは顔を見合わせた。


 侍女長とガスパールだけが、隅の方で肩をすぼめてしょげていた。

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