第8話 悪魔の歯(前編)
クラウスの両親の訪問から二週間ほど経ったころ。
雪が減り、徐々に春めいた陽気になってきた。
窓から差し込む朝の日差しに目を細めながら、クラウスはエレオノーラにもらったオークのカフスを着けた。
騎士団の制服に袖を通して、自室と隣り合わせの寝室に戻った。
「ノーラ、そろそろ出る」
ベッドでボーっとしている妻に声をかけた。
エレオノーラはのそのそと身体を起こすと、膝立ちになってクラウスに腕を伸ばした。
「いってらっしゃいませ」
クラウスは慣れた様子で、身をかがめてエレオノーラを抱き留めた。
「いってくる。今日は少し遅くなるから、夕飯は先に食べてくれ」
「はい。お気をつけて」
クラウスを見送ってしばらくすると、アンナが身支度を手伝いにきた。
鏡台の前でアンナに髪を梳かしてもらっていると、エレオノーラは不意に口の中に違和感を覚えた。
「……?」
右の奥歯が痛かった。
エレオノーラは頬に手を当てた。
「どうかされましたか?」
「なんだか、奥歯が痛い気がして」
「右側ですか?」
「ええ。下の辺り」
「ちょっと口を開けていただけます?」
アンナの方を向いて、エレオノーラは口を開けた。
虫歯ひとつない、綺麗な白い歯が並んでいた。
右下の方を覗き込むと、小さな歯のようなものが飛び出していた。
アンナはそれに見覚えがあった。
「ああ……奥さま、これは親知らずですね」
「私はお父さまもお母さまも知っているわ」
「ええっと、親知らずという名前の歯なんです。ちょっと特殊な歯で、子どもの歯がないまま生えてくるんです」
「子どもの歯がない……?」
エレオノーラは混乱している様子だった。
アンナが懸命に説明していると、扉を叩く音がした。
「奥さま、申し訳ありません。少しアンナをお借りしてよろしいでしょうか」
侍女長の声だった。
アンナは櫛を持ったまま、扉とエレオノーラを交互に見た。
「あとは自分でできるから、いってきて」
「ありがとうございます。とにかく、心配はいりません! 念のため、近いうちにお医者さまを呼んでおきますね」
エレオノーラに櫛を渡して、アンナはバタバタと部屋を出ていった。
しかし、扉が閉まりきっていなかったようで、廊下から侍女長とアンナの話し声が聞こえた。
「侍女長、奥さまに親知らずが生えてきたようです」
「まあ、悪魔の歯が!? 大変! 奥さまは大丈夫なの? かわいそうに……うちの息子も大変なことになったのよ」
「はい。お医者さまを……」
そこから先の会話は耳に入ってこなかった。
悪魔の歯。
その言葉がエレオノーラの頭の真ん中に鎮座していた。
「……悪魔……?」
エレオノーラの手から、スルリと櫛が落ちた。
* * *
朝食を終えると、エレオノーラは食堂に残って使用人を下がらせた。
周囲に誰もいないことを確認して、厨房に続く扉を静かに開けた。
中を覗くと、ガスパールが調理台で献立を書いていた。
「ガスパールさん」
「奥さま!? こんな汚いところまでどうしたのですか!?」
「教えてほしいことがあります。食堂の方に来ていただけませんか」
「いいですけど……急にどうしたんですか?」
エレオノーラとガスパールは、食堂に戻って椅子に腰掛けた。
いつになく険しい顔をしたエレオノーラに、ガスパールは少し緊張した。
「ガスパールさんは、悪魔を知っていますか?」
声を潜めてエレオノーラが言った。
ガスパールは眉をひそめた。
「悪魔? それぐらい知ってますよ」
「では、悪魔に憑かれたらどうなるかはご存じですか?」
「悪魔憑きってことですか?」
「はい」
教会で教えられることの一つに、悪魔の話があった。
ガスパール自身は信心深い方ではなかったが、世間一般の教養程度には知っていた。
エレオノーラも悪魔憑きという言葉には覚えがあった。
「心がおかしくなって奇妙な行動をしたり、幻覚を見たり、そんな感じでしょう」
「身体の変化はないのですか? 例えば、『歯』とか……」
「うーん、歯ですか? 伸びてとがってくるとか、あと爪も黒くなるとかなんとか?」
「歯が……伸びて……」
ガスパールは、妻から聞きかじった内容を噛み砕いて伝えた。
彼の妻は熱心に教会に通っており、そうした伝承や俗信にも詳しかった。
「まあ、ただの迷信で――」
「そのあとは、どうなるのですか?」
ガスパールの言葉を遮って、エレオノーラは身を乗り出した。
「さあ……妻の話じゃ、悪魔は他の人に乗り移るから地下牢なんかに閉じ込めるそうです」
エレオノーラは椅子を倒しそうな勢いで立ち上がった。
口を塞ぐように手を当てて、ジリジリと後ろに下がっていく。
「わかりました。ありがとうございました」
「えっ、奥さま?」
いつも優雅なエレオノーラが、椅子や扉にぶつかりながら走り去っていった。
ガスパールはその姿を呆然と見ていた。
* * *
夕飯の時間を過ぎたころに、クラウスが帰宅した。
最近は出迎えのハグもしてくれるようになった妻が、今日は出てこなかった。
代わりに玄関に姿を現したジェラールを見て、クラウスは小さく肩を落とした。
「おかえりなさいませ、クラウスさま」
「ただいま。ノーラは?」
「それが、ご体調が悪いのか夕飯を召し上がっていないのです」
「ノーラが? 夕飯を?」
「はい」
クラウスは目を丸くした。
「朝、歯が痛いとおっしゃったようでアンナが医者を手配していたのですが……」
「虫歯か? そんなに重症なのか?」
「私にはお話ししてくださらないのです。マノンもちょうど休みを取っておりまして」
「そうか。ちょっと様子を見てくる」
ジェラールにそう告げて、クラウスは階段を上がった。




