レモンティー
14:30 学生寮 渚の部屋
教室で松原と飛鳥が衝突していた頃。
ユウキは、渚の部屋にいた。
なみはや学園の校舎を出て少し歩いた先に、学生寮がある。そこは、なみはや学園の生徒が生活する場所であった。
今日も渚は体調が優れず、授業を早めに切り上げて帰ることとなった。
ユウキは、弱った渚を部屋まで送るため、その歩調に合わせてゆっくり歩いていた。
生徒がいない学生寮は、しんと静まり返っていた。
1階には食堂や浴場などの共用施設があるため、二人は階段を上がる。
渚の部屋は、体調への配慮から2階の階段近くにあった。
部屋の前につくと渚が扉を開ける。ユウキは閉まりかけた扉を手で支えて、渚を先に部屋の中へ入れた。
玄関は広く、ホコリやゴミがなく綺麗にされている。靴を脱いで奥へ進むと、廊下の先に居室があった。
部屋には日中の明かりが差し込み、照明をつける必要はなさそうだった。
「ユウちゃん、今日はありがとう」
「気にしなくていいよ」
渚の部屋は、いつ来ても綺麗に整えられていて、ほのかに甘い香りがした。
この部屋の間取りは9畳のワンルームで、1人部屋にしては広めだ。
必要な家具、家電以外はほとんど置かれておらず、目につく飾りといえば、窓際と玄関に置かれていた芳香剤くらいだ。
ユウキは部屋に入ると、荷物をテーブルの脇に置いた。渚はベッドに腰を下ろし、あらためてユウキに声をかける。
「隣、座る?」
「ああ……そうさせてもらう」
渚にそう声をかけられ、ユウキは隣に腰を下ろした。
距離が近づいたことで、2人の鼓動はそろってわずかに速くなる。
(ど、どうしよう……また隣に座ってと言っちゃった……)
(渚から鼻先をくすぐる甘い匂いがする……だめだ、渚は体調が悪いんだ。俺の理性、抑えてくれ…)
緊張のせいか、2人とも声をかけるきっかけを掴めずにいた。そのまま、しばらく沈黙が続く。
長引く静けさのなかで、2人はお互いに話し出すタイミングを探り合っていた。
「渚」「ユウちゃん」
声をかけるタイミングがピタリと重なり、2人は思わず噴き出した。
静かだった空間は、その瞬間、やわらかな微笑みで、少しだけ温かさを帯びる。
「ふふ。息ぴったりだね」
「少し面白かったよ」
「ユウちゃん、私に話があるんだよね?」
「そうだな。飛鳥に、さっきは渚に返したいものがあるって嘘をついたからな」
「やっぱりそうだったんだ」
「飛鳥も、なんとなく気づいてそうだった。悪いことしたな……」
「そうだね。明日は私の方から飛びついていこうかな」
「ははは。びっくりするだろうな」
「ふふ」
「少し顔色が良くなってきたな」
「さっきよりは良くなったかも。本当のことを言うと、明日からの不安で気分が良くなかっただけかな……」
「俺も明日からのことを思うと憂鬱だ」
渚の体調は、午後に授業に出られるほど回復していた。それでも本調子ではなかったのは、明日から始まるA組の猛訓練に対する精神的不安があったからだ。
いつもなら飛鳥に付き添ってもらうのだが、今日はユウキが渚を部屋に送ることになった。
渚もまた、ユウキの雰囲気に何かを感じとっていた。
だからこそ、ユウキの言葉にひとつの覚悟を決めたのだった。
「私もユウちゃんに聞きたいことがあったの」
「そうか。渚、先に言っていいよ」
「ちょっと待ってね。ふぅ……」
渚も聞きたいことがあった。だが、すぐには言葉にできなかった。何かを言おうとしているのに、その先が出てこない。
固くなった唇が、言葉を押し止めている。
それでもユウキは急かさず、優しい眼差しのまま渚を見つめた。
やがて覚悟を決めた渚は、ひとつ深く息を吸って、重い口を開く。
「私のことを知っているのはユウちゃんだけ。ユウちゃんのことを知っているのは私だけ」
渚の瞳はまっすぐにユウキを見つめた。
そして、小さな手をそっとユウキの手の上に重ねた。
小柄な渚は、そのままユウキの顔を見上げた。手を触れ合わせたまま、上目遣いの眼差しを向ける。けれどユウキもまた、逸らすことなく真剣な目で渚を見つめ返していた。
「ユウちゃんは私のことを知った時、どうして自分のことも教えてくれたの?」
「初めて渚のことを知った時、正直驚いたよ。でも、俺と渚にも共通するものがあった。
だから、渚のことを俺だけが知っているのは不公平かなって。何でいえば分からないけど……特別な気持ちになった」
ユウキは思ったことをそのまま口にした。
そのなかにあった「特別」という言葉に、渚の体温がふっと上がる。
ユウキと渚。
2人だけの、特別な関係だった。
「私もユウちゃんのことを知れて良かったと思う。私達は特別だけど……私達は普通じゃないから……」
「普通じゃなくてもいい。俺は俺らしく、渚は渚らしく。それでいいだろ?」
「うん。だけど、怖いの……ユウちゃんも怖くないの?」
「怖くないと言えば嘘になる。だけど、俺は仲間を信じたい」
渚の身体はかすかに震えていた。ユウキはその震えを抑えるように、そっと両肩へ手を置く。
そして、まっすぐな眼差しで渚に答えた。
「仲間は渚を見放したりしない。絶対に、絶対だ」
「ユウちゃんは強いね。私は不安な毎日の中で自分自身に負けてしまいそうだよ……」
「その時はまた俺に頼ってくれ。今日みたいな日が毎日続いても、俺は味方だ」
ユウキのまっすぐな眼差しは、渚に確かな安心感を与えていた。震えていた身体は次第に落ち着き、2人の視線の距離がゆっくりと近づいている。
そしてユウキが、渚の頬にそっと手を添えた。その瞬間――
「ユウちゃん。も、もう大丈夫だよ!」
「あ、ご、ごめん!」
ユウキは慌てて、渚に触れていた手を離した。その拍子に、二人の間には少しだけ距離ができる。
さっきまでの空気が一変して、部屋の中には気まずいような、くすぐったいような熱が残った。
まるで二人の身体から、白い湯気でも立ちのぼっているようだった。
(やりすぎたな……)
(近いよ……)
沈黙に包まれた部屋は、暖房がきいているかのように温かった。互いに意識してしまってるせいで、2人とも、もじもじして落ち着かず、次の言葉が出てこなかった。
「そ、そうだ、久しぶりにお手製のレモンティーが飲みたいかな」
「一杯だけだよ?ユウちゃんはまだ授業に参加してないといけないから」
「ははは。忘れてたよ」
ユウキの口から咄嗟にでた「レモンティー」という言葉をきっかけに、渚は慌てたようにベッドから立ち上がり、キッチンへ向かった。
ユウキはそんな渚の背中を見つめたあと、ひとつ深く息を整える。
渚はお湯を沸かしている間に、ティーポットのへ茶葉を入れた。
それをベッドのそばにあるテーブルまで運び、そっと置く。
やがて二人は、テーブルを挟むように座椅子へ腰を下ろした。
お湯が湧くまでには、まだ少し時間がかかる。
さっき途切れた話の続きがまた始まりそうだった。
「俺が話したいことを、聞いてもらえるか?」
「うんいいよ」
ユウキはひとつ息をのみ、静かに口を開いた。
「俺は、飛鳥と夏季に伝えるつもりだ」
ユウキのそのひと言は、渚の胸に重く落ちた。
「ユウちゃんはもう決めたんだね。私はまだ決心がつかないかな」
「無理して決めなくていいと思うぞ」
「うん。そうだね。
でも、いつかは伝えないといけないと思うの。仲間……信じたい。けど、もし、飛鳥ちゃんと夏季くんが私のこのを知ってしまったらどう思うのか……」
「俺達は仲間だ。
たとえ夏季と飛鳥が渚を知って、渚を仲間だと思わくなったとしても、俺は渚の仲間だ」
「うん。ありがとう。そろそろお湯が湧いたから、淹れてくるね」
「ああ」
渚は湧いたお湯をテーブルまで運び、茶葉の入ったティーポットへ静かに注いだ。すぐに蓋をすると、透明のティーポットの中で茶葉が上下に舞うように揺れる。その様子は、思わず見入ってしまうほどきれいだった。
しばらく蒸らしたあと、渚は茶こしを当てながら2つのティーカップへ紅茶を注ぐ。
さらに、あらかじめ輪切りしておいたレモンを、それぞれのカップへ見栄え良く浮かべた。
上品な香りが、ふわりと二人のあいだに広がっていく。
ユウキは右手でティーカップの取っ手を持ち、音を立てないようにそっと一口呑んだ。
続いて渚も、一口目を味わう。
「渚の淹れるレモンティーは、やっぱり美味しいな。体も心も温まるよ」
「ありがとう」
「紅茶の飲み方って、マナーがあると聞いたけど……これで合ってるかな?」
「私も詳しいわけじゃないけど、両手で持つのはあまり良くないって聞いたことがあるかな」
「へえ。そうなんだ。……何で片手なんだろうな。両手のほうが上品に見えそうなのに」
「カップに左手を添えると、紅茶がぬるいって、受け取られることがあるみたい。それに、紅茶は片手で持つのが基本らしいよ」
「そうなんだ。お茶は両手で飲むことがあるのに、不思議だな」
「ふふ」
のぞみエリアで採れる食材はどれも貴重だ。
紅茶もまたそのひとつだった。
だからこそ、久しぶりに口にするレモンティーの温かさと香りは、2人の心にゆっくりと染みていく。
「あの日以来かな。ユウちゃんはレモンティーが好きになったよね」
「渚のことを初めて知った日だったな。あの時の渚は、俺に知られてかなり焦ってた」
「うん」
「俺もあの時、自分のことを話すって決めた。そしたら渚は、同じ仲間だって受け入れてくれた。最初は信じてくれてなかったけど、お互いの思いをぶつけ合ったことで、何か通じるものが生まれたよな」
「うんうん」
「俺は当時、自分だけが辛いと思っていた。だからこそあの日、渚も同じように辛いんだって分かったんだ」
「……私はユウちゃんに全部ぶつけたね」
「そうだな。あの時の渚は、なりふり構わずだった。でも、俺は嬉しかったのかもしれない。思わず抱きしめてしまったし……今思えば恥ずかしいな」
「ユウちゃんの肌の温もり、嬉しかった」
「全部終わったと思ったら、急に疲れがどっと来たよ。相当アドレナリンが出てたかもな」
「そうだね。私は泣き疲れてたかも」
「そのあと、俺達は渚の部屋で休むことになったんだったな。それで、渚が淹れてくれたのが――」
「レモンティー」「レモンティー」
同じ言葉がピタリと重なり、2人はまた顔を見合わせて微笑んだ。
2人だけが知る秘密をぶつけあったあの日から、少しづつ積み重ねた絆は、確かに今も深まっていた。
「優しい香りと味に感動したんだ。俺は、レモンティーを飲むために渚の部屋へ来ることが楽しみなんだよ」
「それだけかな?」
「あ……いや、それだけじゃないよ。はは……あ、そうだ」
ユウキは照れたように人差し指で頬をかきながら、ふと何かを思い出した。
「そういえば忘れてた。渚にこれを渡さないとな」
ユウキはバッグの中から、袋に入ったマジックパウダーを取りだし、渚へ手渡した。
飛鳥には咄嗟に嘘をついてしまったが、こうして実際に渚へ渡すものがあったのも事実だった。もっとも返すというより、正式には渡すというより贈るに近い。
「ありがとう。今日もいただくね」
「今夜と明日の朝に使用してくれ。じゃあ、教室に戻るよ」
気づけば、思ってた以上に時間が経ってしまった。
ユウキは少々急ぎ気味で、レモンティーを飲み干し、使ったものを手早く片付ける。本当なら、渚お手製のレモンティーをもっとゆっくり味わっていたかった。だが、まだ授業の途中だ。
そろそろ戻らないといけない。玄関で靴を履き、ドアノブに手をかけた、その時だった。
「待ってるから」
渚はユウキの背中の制服をそっとつまみながら、そう言った。その一言が何を意味しているのか、ユウキにはちゃんと分かっていた。
「……ごめんな……不器用で」
「ううん。不器用なユウちゃんは――だよ」
「……夏季からメッセージが来てたよ。明日からのことについて」
「うん。このあと見てみるね」
ユウキは扉を開け、渚の部屋をあとにした。
渚は、彼が出ていったあとの静かな扉をしばらく見つめていた。
「最後、ちょっとだけ意地悪したかな。今日はもう休もうかな。身体が熱くなっちゃった……」
渚は自分でもわかるほど身体が熱くなり、頬も赤く染まっていた。
体の奥がふわふわと落ち着かず、そのままおぼつかない足取りでベッドに向かう。
そして、力が抜けたように、身体をそっと預けた。
そこは、さっきまでユウキが座っていた場所だった。
「ユウちゃんの香りがする。ふふ……ふふふ」
その夜、渚はなかなか寝つくことができなかった。




