夢幻覚 Ⅲ
〈蜜羽〉
黒猫だった。毛並みが整っており、とても明晰に瞳に映っている。黒猫は棗の部屋をうろつき、何かを探す様だった。
秋月さんが何気なく言葉にしていたのが脳裏を過ぎる。黒猫がうろついている。まさにその通り、言葉通りだった。「誰がいるの」と棗が興味心に恐怖の様なものが混ざった声で訊ねて来る。自分の部屋なのに、萎縮していた。私は「猫がいる」と無愛想に返し、その彷徨う黒猫を見つめる。
「え、猫?」棗が私の肩から顔だけを乗り出し、視界に映らない猫を探す。「それって黒猫じゃない?」
「なんで分かったの?」
「やっぱりだ。黒猫なら、多分ゴロツキなんだね」
「ゴロツキ?」
ゴロツキ。と脳裏で反芻してみるが、「ネーミングセンスないな」程度の感想しか浮ばなかった。けれど、棗はその猫を知っている様らしく、問題はすぐに解決しそうだった。
そうこうしている間に、秋月さんがマンションへ到着した。私達がいる部屋へと上がって来、「それで霊はいるの?」と玄関から顔を出す。
「あ、秋月さん」
「どうも」と棗が顎を引く。
「どうも」秋月さんも軽くお辞儀し、「お邪魔します」と靴を脱いで足を踏み入れる。「確かに何かするね」
「この前秋月さんの言ってた黒猫ってこの子ですか?」私は猫の方へ人差し指を向け、秋月さんの顔を覗きながら確認を取る。秋月さんは私より前へ身を出し、黒猫をまじまじと視線を向けた。
「君だったのか」
〈春樹〉
瞼の隙間から入り込むかの様に光を感じ、目が覚める。朦朧とした夢心地で、弛緩した体を起こす。「起きたかい」と秋月さんが微笑みながら声を呼び掛けて来た。
僕はここまでに至った経路を脳内で整理していた。悪霊が僕の体に憑依されかけたのだな、と記憶を辿った。秋月さんが僕に近付き、霊感とは違う寒気を与える。「なんですか」と畏縮の声を漏らす。
「ひとまず悪霊は逃げたよ。でも消えたわけじゃない。必ずまた現れる」
「は、はあ」曖昧に頷く。
一昨日と同様で、意味深げに「気を付けて帰ってね」と吐かれ、戦々恐々としていた。足だけに集中し襲い掛かって来る重力が煩わしい。
空はすでに薄暗く闇が漂い、部活をして帰ってもここまでは遅くにならない筈だった。ゴロツキが脳裏に過ぎり、駆け足もどきになる。待ってろゴロツキ、と洩らす。
歩道信号が赤色を点滅させる。「まあ待て。落ち着け」と僕に言い掛ける様だった。一匹の猫に高揚している僕を小馬鹿にしている様で、思わず苦笑する。そして青色にへと変哲する。
僕は周りに並ぶ人達よりも先に足を前へ出した。それはもうすぐゴロツキに会える、という興奮と、それに伴う油断。気を付けて帰ってね、秋月さんの言葉が耳元で鳴る。信号待ちをしていた人達は、僕以外足を出していないと気付いたのはすぐの頃だった。
「あ?」
トラックだった。悲鳴にも似た金属と金属が擦れた音が轟々となる。徐々に僕の耳元に軋みの悲鳴が広がって行く。向こうの人だかりに、祓われた筈の男がいた。気付いた頃にはすでに遅く、トラックとの衝撃で視界は吹っ飛んだ。
〈蜜羽〉
しばらく二人きりにさせてくれないなかな、と秋月さんが猫を指差しながら訊ね、私と棗はマンションの外で冷えた空気に抱え込まれながら秋月さんを待っていた。
秋月さんは現在、棗の部屋で黒猫の幽霊と談判をしている、らしい。「と言ってもさ」棗がコーヒーの缶を手でぐりぐりと捏ねる様に持ちながら呟く。白い吐息が、僅かに淡く漂った。「さすがに寒いよ」外は冬の下旬ではあるが首元に纏わり、擦り抜けて行く様な空気が肌を苛める。私も棗から渡されたコーヒーを頬に当てたりなどをして暖を求めている。
「秋月さんてさ、なんか雰囲気が怖いよね」
「なんだ、急に」
「あの雰囲気さ、すこし不気味に感じるんだよね」
霊感がなくてもそれはわかるらしい。私は「意味が分からない」と惚けつつも、薄々同定していた。彼の背後には、無数の幽霊が浮遊している。愉快に、浮遊している。
「秋月さんと蜜羽の会話を聞いていてさ」棗がコーヒーの缶を振る。「心底わたしには理解出来ない世界だなあと思ったよ」準稀君にもそんな事を言われたな、と思い出す。
「わたしもゴロツキ見えないかな」
棗がそんな事を呟いた。私は悴んだ指で辛うじて缶を開け、コーヒーを啜る。
「そのゴロツキっていうのは猫の名前だよね」
「そう。わたしの弟の春樹っていうのがね、連れて帰って来たんだよ」
話を聞けば、その弟さんは二ヶ月前に亡くなったばかりだと、棗が言った。
《春樹》
呼吸が難しく、視界に無数に蠢く微粒子が宙へ浮いている。自分の体はもはや原型を留めておらず、肉の破片の様な物体や、管。視界に映るこの塊はすべて僕の体の一部なのだな、と朦朧の意識の中で思索すると嘔吐が込み上げた。
自分の暗愚さに嘲笑する。悪霊は祓ったわけではない。秋月さんの言葉を反芻する。戻って来るのがはやすぎだろ。壊れたかの様に嘲笑い、目玉が涙で溺れた。
ゴロツキの顔が浮ぶ。
姉さんの顔が浮ぶ。
両親の顔が浮ぶ。
空は闇に包まれ、僕自身を闇に染めて行く。浸食され、底のない闇に飲み込まれて行く。沈んで行くにつれて、死が僕を招きに来たのだな、と実感した。伸ばす事の出来ない手を伸ばす。光を掴もうともがく。けれど、伸ばす事が出来ないのだから断念した。
意味深な印象を抱かせた「気を付けて帰ってね」とは、違う意味だったのかもしれないな。
どうか、違ってほしい。
次回最終回+エピローグ回です。




