夢幻覚 Ⅳ
《蜜羽》
棗の弟は、三ヶ月前に交通事故に遭って亡くなった。らしい。棗が澄んだか濁ったかわからない白い息を宙へ吐く。私はコーヒーをすこし口に含み、口内を冒険させる。熱が広がった。「弟は春樹、っていう名前なんだけれどね」私は悴む手をコーヒーの缶に密着させて、耳を傾ける。「うん」
「その春樹がね、ゴロツキを連れて来たの」
「あの黒猫を?」
「そう。急に拾って帰って来たんだよ」
「捨て猫なんだ」
コーヒー缶を手の平で転がしながら、私は秋月さんを気にした。猫を相手に遅くはないだろうか。「でもね」棗の口調に、僅かな嗚咽が乱入した気がした。「ゴロツキを持って帰って来た次の日にね」瞼が、赤く腫れを作る。
「春樹は事故に遭ったの」
「え」
「トラックに轢かれたって聞いた」
突然の事に思わずたじろく。額辺りの重みがすっ、と抜けて行く様な感覚がする。気の毒だった。「それで」けれども、質問が私の脳を過ぎる。口元から溢れる。「ゴロツキは、なんで?」
「わたしが家に帰って、玄関のドアを開けた瞬間にゴロツキは飛び出して行ったの」
それはなんで?、とはさすがに訊ねるのを躊躇した。秋月さんが棗に「ごめんなさい」と謎の謝罪をしたのも、その時だった。
2
秋月さんは、棗の弟さんを知っていた。「やっぱり、彼はすでに憑依されていたのか」と秋月さんが自分の愚かさに嘆き、目玉を潰す様に瞼を強く閉じていた。「自分は何故。彼を帰らしてしまったのか」弟さんを殺したのは僕だ、と秋月さんは何度も自分を責める様な口調で呟いていた。話によれば、棗の弟は巨大な悪霊に憑依されていたらしく、秋月さんはその所を助けた、つもだりだった、と答えた。
「それで黒猫は」私が秋月さんに訊ねる。棗はただただ涙で顔面を歪ませながら、目元を隠していた。
「成仏したよ。ゴロツキと会話したんだ」
「なんて、言ってました?」棗がそこで口にする。
「春樹君と君の事を、楽しそうに話していたよ」
「途中で自分が轢かれた事にも気付かず、ゴロツキは拾ってくれた人を探していたんだ。彷徨い続けていた」彷徨う。その言葉が私には、とても重いものに聞えた。彷徨う。すべての生き物は迷路の中で生き続け、彷徨う。死んだ後も、彷徨う。彷徨うのか。
棗の弟さんは、すでにゴロツキを見つけているらしかった。目を細めて視界を狭めると、秋月さんの背後に、新しく幽霊が一人。浮遊していた。あれが、春樹君か。
《エピローグ》浮遊快と夢幻覚
「明日とうとうデートだね」
『そうだね』
その日の夜はいつにも増して寒かった。肌を囲み、内側へと拡散して行く。とうとう明日が準稀君とのデートの約束日だ。「楽しみすぎて今日は眠れないかも」
準稀君が笑い、私も釣られる。『僕もだよ』本当かよ、と微笑する。
『あ、そうだ』
「ん、なに」
私は腰を起こし、玄関へと足を運んだ。玄関に置いてある塩盛りに目をやる。『昨日なんだけれどさ』その塩盛りの皿を手に持ち、台所へと戻った。電話越しに準稀君はごそごそと何かを探している様な物音を立てている。見つけた、と遠い距離から声がし、「なに?」と訊ねる。
ニャー、と鳴き声が耳元へ流れたのはその時だった。また幽霊か煩わしい、と耳を傾けると「子猫拾ったんだよねえ」と準稀君が昂りの印象を抱かせる声で話してきた。マジかよ、と思わず頬が緩んだ。
こんな事もあるんだな、と私は電話を肩で挟む。持っていた塩盛りを台所へ流し、器を洗う。「名前は何にしたの」単なる好奇心から質問してみる。
『すこし茶色っぽい色だから、琥珀にしたよ』
「なりほど」名前までは一致しない様だった。ゴロツキとはそう思いつかないだろう。
「今度あわせてよ」私は水で洗った塩盛りの皿を捨てた。こんな事をしても意味がないな、と認めざるおえなかった。それと、何となく。秋月さんみたいに無防備に生きてみるのもいいかもな、と思ってしまった。
「じゃあね」と準稀君が通話を切り、私も電話をソファへ投げる。息を吐いてから背後に首を曲げた。
「まだいたのか」
ねぇ遊ぼう?、と幼い印象を抱かせる女の子が、私の頬を突いて来た。 END
最終回でした。 最後まで読んでくれた方がいるなら、ありがとうございます。




