夢幻覚 Ⅰ
〈蜜羽〉
今日は珍しくシャワーは止められなかった。今か今かと警戒しながら頭を洗っていたけれど、男達の喚きも耳元には響かず、思わず安堵の息を漏らす。
霊も私の疲労を察してくれたのか、と納得して、私は湯船に浸かる。お湯の温度を調節などが出来る機械に目をやると、彼氏とのデートの約束日が明後日となっていた。妄想が膨らみ、思わず頬が緩む。えへへ、と蕩けた。そのまま湯船に沈んで行き、身を委ねようとした瞬間に、億劫な約束事を思い出す。
「棗の件があったあ」
鼻筋まで浸かり、ぶくぶくと泡を何個も破裂させる。さすがに呼吸が困難になり、体勢を戻す。棗との約束は、明日だ。
2
いつにも増して疲労が体を覆い、本来よりも一時間と早く今日は就寝する事にした。ベッドに潜り、指先が冷え切った足を毛布に擦り付ける。瞼を閉じ、闇一色の中に逃げ込む。
眠気に委ね、ベッドへ沈んで行く。朦朧となり、意識が歪んで行く。闇はさらに深くなって行く。包み込まれて行く様な、居心地だった。
頬に妙な感触を覚える。ん?と軽く困惑するが、夢か、と決め付けて寝返りを打つ。すると再び、頬を突かれる様な感触が襲う。「煩わしいからやめろ」手で宙を払い、唾を飲む。
「ねぇ遊ぼう?」
少女の声がした。幼さい印象を抱き、寂しそうに小さな声だった。「あ?」と思い瞼を開き、ぼやけている視界を再開させる。少女らしき人物はいなく、夢か、と再び決め付ける。「無視しないで」と柔らかく淡い声が再び耳元に流れる。
「なんだよ」私は再び瞼を辛うじて開き、少女らしき人物を探す。枕元に違和感を感じ、寝返りを打つ様に体勢を戻すと、ショートカットの似合う女の子が、私の頬を人差し指で突いていた。「ねぇ遊ぼう?」と声がする。もう、やめてくれ。脳裏で嘆く。
〈春樹〉
僕は昨日とは違う事で、学校内を忙しなく動いていた。昨日は煩悶だったけれど、今日は高揚だ。昨日飼い始めた黒猫のゴロツキはすぐに姉にもなれ、毛布に包まっていた。「餌とトイレは明日私が買って来る」と姉が言い、出来る姉だな、と久々の関心を覚えた。
「春樹。今日お前おかしいぞ」
「いつもだろ」
「そうだった」
認めるなよ、と聊かな失望を抱く。昨日捨てられた猫を拾った、と友人に自慢を話すと、「ゴロツキって。ネーミングセンスねえな」と昨日も言われた様な言葉が返って来た。鋭い刃の槍が、心臓を貫く。
「あ」友人から顔を逸らし、時計を確認する時に、違和感を感じた。教卓の場所に、この前浮いていた男が何事もなくいる。顎を引き、血が足りていない様な冷徹な視線が僕を捉え、悪寒が覆う。
「どうした?」
「いや、なんでもない」
「もしかするとさ、春樹って霊感とかあるの?」
「いや、全く」間逆の嘘を、軽々しく吐く。
男の口角が、僅かに上がった気がした。本当に、「気がした」だけだけれど。
2
二日間くらい、と自分に口実をし、今日も校門を抜けた。昨日と同様に少々駆け足で急ぎ、昨日ゴロツキが捨てられていた居場所を通り過ぎる。
その時と同時のタイミングだった。聞き覚えのある男の声が背後から聞えた。「ちょっと、いいかな」
「はい?」
「やあ。おとといぶりだね」
「な、なんですか」
「テンションが上がっているとこ悪いけれど、時間を貰うよ」
男の表情は少々、焦りの汗を浮かべていた。僕の顔を覗きながらそんな憔悴の顔色を見せるので、僕も思わず「僕がどうかしましたか」と訊ねる。
「まずいな」
男は一言そう吐き捨て、僕は夢幻覚という整体屋へと招かれた。僕は、どうなるんだろうか。
はい。最終回はあと二、三話です。




