浮遊快 Ⅳ
〈蜜羽〉
念の為に、と秋月さんが言い、私は仕事での疲労などが溜まった全身をベッドに預けていた。秋月さんは整体師とはいっても、マッサージの方も負けじと上手く、自分も一週間に一回は必ず通っている程だ。
秋月さん自身は冴えなく男らしくない雰囲気が漂っているけれど、力はなかなか強く、背中で感じる手の平の圧迫などが、疲労そのものを潰している様だった。指先が肩を押し揉む。煉瓦の様に固くこっている肩を一瞬でほぐし、電流を流す様にワンポイントの所を親指で射して来る。痛覚を感じると同時に電流が筋肉を囲み、胡桃を押し潰す様な衝撃が快感だった。
「よくもまあ一週間で固まるもんだね」
「パソコンとずっと向き合うと、こんなもんよ」そういうものなのかは、知らない。
秋月さんの指が肩から首元を翻弄して行き、手の甲を二重に重ね、頭部を弱く叩いて来た。痛みは無く、ただ首が上下に揺れた。頭部から首元へと伝い、再び頭部へと戻って行く。その繰り返しに身を任し、全身から疲労を伴う力が擦り抜けて行き、弛緩する。霞んだ視界に光が差したかの様な明りが甦る。「あーいいわー」と感想を述べる。首の動きで扇風機に当たっている様な声になる。
秋月さんは霊感がもの凄く強い。どんな霊だろうと、姿も明晰に視界に映り、毎日の様に新たな霊と出会う。なのに店にも家にも塩盛りを置いていないのだから不思議に思える。「前から気になってたんだけれどさ」なんとなく、質問してみる。「なんだい?」
「なんで塩盛りとか置いていないの?」単なる好奇心で訊ねてみた。
「うーん。何でだろうね」
秋月さんはすこし笑みを見せ、曖昧模糊とした理由を答えてくれた。「蜜羽さんはさ、学生までは親に面倒見て貰っていたのに、離れた瞬間に親から相手されなかったら悲しい?」
「そりゃあ、まあ」と曖昧に頷く。秋月さんは手を休めず、私の肩を揉みながら話を続ける。「人間って、独りになる事を恐れているんだよ」そういうもんですかねえ、と素直な感想を呟く。
「それって死んだ後も言えると思うんだよね」
「先生!わかりません」
「死んで幽霊になったとしても、誰かに気付かれたいんじゃないかなと思うんだよね。人間は自分が忘れられる時が怖いんだよ。生きてる時も、死んだ後も。だから僕達みたいな人達がいるんじゃないかな」
「だからといって、脅迫めいた事してくるのはちょっと」
「それはそれが幽霊にとっての目的だったんだ。目標が達成出来なくて死に切れなかったんじゃない?」
「いい迷惑です!」
疲弊が抜けて行き、熱が胃辺りに篭る。眠気がひらひらと浮遊しながら、私の頭を包む。弛緩したままの体は、緩慢で鈍い動きしか出来なかった。「それで塩盛りを置かない答えだけれどさ」
「塩盛りなんて置いてあるお店なんて、入りたくないじゃん」
「さっきの空気はどこに喚起された?」
「あ、そうだ」秋月さんがふと思い出したかの様な口調で謂う。「なんです?」私が訊ね返す。
「最近ここらへん、黒猫がうろついているんだよね」
「はあ」
それだけの様だった。なんだそりゃあ、とこめかみを掻く。それじゃ、と吐き捨てて店を出た。
外はまだ騒がしい。
〈春樹〉
謎の男と離れた後も、僕の脳裏には必ず黒猫の姿が過ぎった。夕食の時間も片隅から引っ張り出される様に黒猫の姿が堂々と甦り、煩悶の渦に巻きこまれて行く様だった。
案の定。次の日の授業も集中出来る筈は無く、教師の放つ声など微粒子程も耳元に入って来るわけなかった。今頃あの黒猫はどうなったのだろうか、と不安が脳を揶揄し、シャーペンで何度もノートの隅側を突いた。窓側の方へ、廊下の方へ、と忙しなく首を動かす。
手で柵を作り、その中へ顔を埋める。どうしようか、と悶え続けている間に睡魔が襲い、僕の脳を侵略した。意識が飛び、渋滞していた脳内が真っ白に変わる。眠い。そう思う頃には、寝ていた。
2
授業の終わりを知らせるチャイムが甲高く鳴り響き、その反動で目が覚めた。手で囲んでいた顔を上げると、涎が机に垂れている事に気付く。再び、顔を埋めた。
すべての授業が終了し、僕はすぐに学校を抜け出した。本当は今日は部活があったのだけれど、一日くらい、と自分に言い聞かせながら校門を出た。
何をしても黒猫の姿が浮ぶ。その度にどうしよう、と悶え、逡巡する。偶然な出会いではあったけれど、僕はその邂逅に、僅かな期待を抱いていたのだと思う。
昨日カメラを持った彼女と出会った場所までやや早歩きで急ぐ。出来れば走りたかったけれど、思春期的感情の不透明な何かが蠢き、駆けようとする足が躊躇いをみせる。
「何処だ」
立派に生え、並んでいる木を目で辿る。ダンボール箱は?と目玉を忙しなく動かす。「あ」
見つけた。
昨日と同じ木の下に置かれたダンボール箱は奇妙な雰囲気を漂わし、間違いない、と確信を得る。すぐに駆け寄り、中を覗く。黒猫は「また来てくれた」と言う様な感激の声で「ニャー」と鳴いた。僕は笑みを零し、まだ小さい体の黒猫を両手で抱く。黒猫は暴れる気配も見せず、僕の手首を舐めて来た。そしてもう一度、「ニャー」と鳴いた。ダンボール箱に戻し、そのダンボールを抱く様な形で持つ。
「僕が面倒見てあげるからね」と黒猫に呟き、やや駆け足でマンションにへと足を運んだ。
3
姉はまだ仕事中らしく、部屋にはいなかった。仕方なく僕は黒猫を部屋に入れ、とりあえず何かないか、と冷蔵庫を開けた。黒猫は初めての空間に困惑しているのか、僕の後ろを追う様に着いて来る。
ちくわを発見し、半分の大きさに千切り、黒猫の顔に近づけてみる。すると小さく弱々しい口で必死に被り付いた。「お腹減ってたんだね」
姉が帰宅し、すぐに黒猫の件で許可を求めてみると、「可愛い猫だな。飼おう!」と仕事の疲れを漂わせない懇々とした声で許可を貰い、めでたくこの黒猫は僕の家族の仲間入りとなった。
「名前どうすんの?」と姉に訊ねられ、いろいろ思い付く単語を脳裏に上げて行く。勘案し、三分ほど悶えてから口から出た言葉は「ゴロツキ」だった。
姉は「ネーミングセンスねえなあ」と苦笑した後に、いいんじゃない?と軽い流れで、名前はゴロツキに決定した。
ニャー、とゴロツキが鳴いた。嬉しそうだった。姉が。
はい。今回は秋月さんの台詞が魔法少女とリンクしてます。 あ、言っちゃったらダメか。
あと最近は脱字誤語がないか確認するため、音読をしてます。自分の声渋いので、女性の声すらおっさんに早変わり。




