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浮遊快  作者: 雨尾 秋人
3/8

浮遊快 Ⅲ

 〈蜜羽〉

 

 棗の部屋を訪れなくてはいけない日は、明日に決まった。仮に棗の部屋に霊がいたとして、私は祓う事は出来ない。ただ霊感があるだけ、というだけなのに。あんな相談に乗ってしまうとは我ながらに億劫な道を選んだな、と後悔した。

 仕事は終了し、肩と腰を翻弄する様な疲労が溜まり、若干の眠気も脳に侵入していた。空はとっくに薄闇を漂わせ、街中の建物が派手な彩りをしていた。夜なのに明るく、自分と同じ帰宅中なのか、人も混雑していた。喧騒が耳元に次々と流れて来、身が流れに委ねられ窮屈な空間に酔う。

 瞼の上が霞む様な感覚が襲う。眠気だ。帰ったら寝よう、と脳に刻み付けて鈍重な足を踏ん張る。

 その時。人ごみの熱気が反射されたかの様な寒気が全身を駆けた。

 体内と皮膚が裏返る様な感覚が急襲し、視界を翻弄する様々な光が蒼白く反転する。目眩と共に反転が解けた時には、横断歩道の赤信号で足を止めていた。まるで横断歩道まで歩く時間を吹き飛ばされたかの様だ。

 久々の大きい気配だな、と私は瞼を深く閉じ、五秒ほど闇に浸かる。暗闇の中で色を消しながら、溜息を吐く。息を吸う。喧騒で止む事のない様々な音が、歪み、遅れて聞こえて来る。息を吐く。冷静を保つ様に、と呼吸を一定の律動でする。

 信号の待ち時間が長いと感じた。滞る事無く次々と道路を走る車の向こう側で同じ様に信号待ちをしている人ごみの方から巨大な違和感を悟った。

 丁度私の先に突っ立っている女がいた。女の周りは言葉では言い表せない「暗闇」が包んでおり、太股まで伸びた黒髪が顔を覆っている。貞子みたいだ。

 とてつもなく長い黒髪から、女の冷血な目が覗いた。その瞬間、私の世界は音が消え去り、走っていた車も、出来ていた人ごみも、すべてが一瞬にして姿を消した。

 一瞬にして世界が裏返り、静寂の中で風が切る音だけがする。私は女と対峙したまま、体が動かない事に気付く。

 殺してやる。殺してやる。と、幻聴が聞こえ始めた。脳を直接叩く様な幻聴だった。「お前かい」

 私はそこで、あの時彼氏と電話していた時に現れた女だと気付く。


 2

 再び、足元を不安定にする目眩で目が覚める。信号はまだ赤のままであった。「あの、大丈夫ですか?」と隣にいる男が私に訊ねて来ている。憔悴な顔色を窺わせている私の顔に、奇異な雰囲気を察したのだろう。

 

「あ、はい。気にしないでください」無理な笑みを作り、益々疲弊する。


 目眩が晴れ、向こうの人ごみへ目をやる。女はまだいる。金縛りが解け、私は一歩、二歩と引く。巨大なトラックが道路を走る。その瞬間に、私は悟った。次々と投げられて行く様に道路を走る車と共に、大きな荷物を運んでいるトラックが来る。普通の車とは違う、轟々とした音で線を引く様だった。そのトラックの轟音は私の耳元に強く響く。私は身を構える。

 そして、トラックが女の姿を消した。

 その瞬間に私は後ろへと駆けた。人ごみを乱暴に掃きながら、「すみません」と大声で呼びかけながら反対の方向へ駆ける。「どいてください」

 私は恐れ戦いていた。身に纏わり付く寒気を掃う様に、整体屋の「夢幻覚むげんかく」に目掛け全力で走っていた。

 その夢幻覚という場所にいる整体師の秋月さんは、もの凄く強い霊感を持っていて、祓う事も可能な程だった。秋月さんなら何とかしてくれる、と希望を向けながら地面を強く蹴る。

 息が切れ、脇腹辺りに練りこんで行く様な痛みを生じ、額から汗が吹き出る。化粧が荒く剥れて行き、前髪も汗で気持ち悪く額に引っ付く。煩わしいので掻き上げた。

 再び、女の声が脳に響き始める。殺してやる、殺してやる、と憎しみと殺気を伴う気味の悪い声が全身を覆う。

 夢幻覚の入り口が見えて来、耐えろ!と必死に走る。もがく様に駆ける。地面を勢い良く蹴る。


「秋月さん!」


 店の扉を乱暴に開け、店内に叫んだ。はぁはぁ、と息切れが激しく噎せた。「どうしたんだい?」秋月さんは驚いた表情をしながら、店の奥から出て来る。「助けて!秋月さん!」と必死に叫んだ。

 殺してやる、殺してやる。幻聴は大きく昂って行く。殺してやる、殺してやる。興奮状態の女の声がとうとう、耳で感じ取れた。「殺してやる」

 

「伏せて!」


 秋月さんが叫び、私は腰をすぐに屈めた。背後にいた女の声が抹消する。「もう大丈夫」と秋月さんが手を払う。私も深く溜息を吐き、安堵する。

 

「危なかったね」

「間一髪、というやつね」

「多分、君の彼氏さんの事が好きだった子の霊だね」

「それは察せた。嫉妬って怖いわあ」


 心臓を刻む鼓動が強く、胸が何度も叩かれている様な衝撃が走る。安堵の息と共に、その鼓動は益々強みを増した。



 〈春樹〉

 

 猫一匹の命も救えないのか。捨てられた黒猫と離れた後も、僕は自分に腹立ちを感じていた。今頃、あの猫はダンボールの中で身を丸めているのだろうか。それとも誰かに拾われたのだろうか。ぼんやりと空を眺める。

 雲が一つも無く、ただただ燃える様な夕陽が街を照らしている。地面が蝋の様に溶け、足を埋めて行く様な重みが翻弄する。

 「ニャー」と黒猫の鳴く声が、脳に繰り返しで再生される。手の平に僅かに残る黒猫の頭を撫でた感触が僕を蝕ませる。

 

「浮かない顔してるけれど、大丈夫?」


 通り過ぎた整体屋から男の人が出て来た。「僕ですか?」突然僕に話し掛けられ、戸惑ってしまう。いや、違った。戸惑う前に僕は。

 異様な程に、寒気を感じた。

 体内で螺旋に広がり、肌が爛れて荒れて行く様な感覚は、僕を畏怖させるには十分過ぎた。悪寒が爪の隙間から蹂躙して行く。視点に沿う様に幻覚の闇が浸食して行き、足が竦む。

 身震いが激しく、己の怯えがさらに恐怖を与える。膝が笑い、肘も笑う。


「君は、わかるのかい?」


 その店内から出て来た男が僕に呼び掛ける。この感覚は幽霊だ。僕の霊感が反応している。その感覚に似ている。けれど、目の前にいるその男は、何処からどう確認しようと生身の人間だった。僕は目の前にいるこの男に、恐い、と率直に感想を抱いた。


「あ、あなたは?」

「ここの店の人だよ。整体師さ」


 男はすべてを俯瞰で把握している様な、悠々とした余裕のある声で謂う。その纏っている雰囲気が、そこに漂う見えない空間が恐かった。「怖がらなくていいよ」男が察したのか、そんな事を言ってくる。僕は悪い人間じゃないから、と苦笑混じりに否定して来る。

 「僕的には、君の方が怖いよ」男がそんな事を言って来る。「ど、どういう事ですか?」僕が言及すると、男は「まあ、まだ大丈夫かな」と意味深な事を吐き、店内にへと戻って行った。

 なんだったんだ、と首を傾げるのと同時に、僕は脅威を感じた。

 男の背後には、一瞬見ただけでも軽く十体はいる。様々な霊が、浮遊していた。男は店に戻る前にこんな事を吐き捨てる。


「気を付けて帰ってね」


 男は「夢幻覚むげんかく」という整体屋の中に、姿を消した。気を付けて帰ろう。

 

 


 


 

 

 

はい。なんか伏線ばかりだった気がします。

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