第9話 愛情
昨日まで確かにあったものが少しずつ遠ざかっている。
ベッドの横には昨夜の写真。
僕と母。
そして、いつの間にか写真の端にいる少女。
美咲。
僕は写真を見つめる。
「……美咲」
名前だけは、なぜか消えない。
むしろ以前より鮮明になっている。
世界認識を起動する。
画面にはいつもの83億人。
そして新しい通知。
【分離個体①②③――活動継続】
【分離個体④――接触可能】
名前が表示される。
白石凛。
女性。
43歳。
住所――大阪。
職業――不明。
家族――不明。
そしてその下に奇妙な表示があった。
あなたとの相性――100%
僕は息を止めた。
今まで見た最高値は妻との96%。
田辺が見つけた相手は99%。
でも100%は初めてだった。
その瞬間、娘が部屋に入ってきた。
「お父さん」
「ん?」
「また検索してる」
「うん」
娘は画面を覗き込む。
「白石凛?」
「知ってる?」
「知らない」
「相性100%なんだ」
娘が笑う。
「それってお母さんより上じゃん」
僕はその言葉に何も答えられなかった。
妻は朝食を作っている。
いつもと同じ。
なのに僕の中に奇妙な感情が生まれた。
妻との相性は96%。
白石凛とは100%。
数字だけなら答えは明白だ。
でも僕は思った。
それでも、妻を選ぶ。
その瞬間、世界認識が警告を出した。
【認識エラー】
合理的選択と感情的選択が一致しません。
僕は初めてその表示を見て笑った。
「……それでいいんだよ」
会社に行く。
しかし、仕事をしていても白石凛のことが頭から離れない。
なぜ100%なのか。
なぜ情報が不完全なのか。
そして、なぜ神崎や黒い男と同じように僕の人生と繋がっているのか。
昼休み。
白石凛を検索する。
現在地――
大阪駅。
僕は会社を出た。
駅前。
人が多い。
世界認識を起動する。
数千人の情報が一斉に頭の中へ流れ込む。
その中に一人。
白石凛。
女性が立っていた。
黒い髪。
白いシャツ。
本を読んでいる。
僕は少し離れた場所から彼女を見る。
世界認識が彼女の情報を表示する。
名前。年齢。住所。
そして相性100%。
僕は声をかけようとした。
「白石さん?」
女性が顔を上げる。
目が合った。
その瞬間。
世界が止まった。
音が消えた。
人の声も。
電車の音も。
信号機の音も。
全部。
ただ彼女だけが動いている。
彼女は僕を見ていた。
そして、泣いていた。
「……遅かったね」
僕は言葉が出なかった。
「どうして……」
「何が?」
「僕を知ってる?」
白石は笑った。
「知ってるよ」
「どこまで?」
「あなたがまだ自分を知らないところまで」
彼女は本を閉じた。
「佐藤さん」
「はい」
「私、あなたのことが好き」
僕は固まった。
「……会ったばかりだよ」
「そうだね」
「どうして?」
「分からない」
「じゃあ、100%っていうのも?」
「それは、世界認識が勝手に言ってるだけ」
彼女は笑った。
「私はあなたを100%好きなわけじゃない」
「じゃあ、どれくらい?」
「分からない」
「……」
「だから好きなんだと思う」
僕は何も言えなかった。
白石はゆっくり歩き出した。
「ついてきて」
「どこへ?」
「あなたが忘れた場所」
地下へ続く階段。
古い駅の地下通路。
僕は見覚えがない。
なのに足が勝手に進む。
「ここ」
白石が立ち止まる。
壁に古い落書きがある。
子どもが描いたような絵。
三人の人間。
一人は男の子。
一人は女の子。
もう一人は顔のない人間。
僕はその絵を見た瞬間、頭痛がした。
「……これ」
「覚えてる?」
「分からない」
「そう」
白石は少し悲しそうに笑う。
「ここであなたは私に告白した」
「……何?」
「小学生の頃」
僕は息を止める。
「君と?」
「うん」
「でも僕は君を知らない」
「そうだね」
「どうして?」
白石は壁に手を当てる。
「あなたが私を忘れたから」
僕の頭の中に映像が流れ込んだ。
雨。
学校帰り。
僕と一人の少女。
少女が笑っている。
「大人になったら結婚しようね」
幼い僕が頷く。
「うん」
少女が小指を差し出す。
「約束」
僕も小指を絡める。
映像が途切れる。
僕は壁に手をついた。
「……凛」
白石の目から涙が落ちる。
「やっと呼んでくれた」
「でも僕は覚えてない」
「知ってる」
「なぜ?」
「世界認識があなたから私の記憶を切り離したから」
僕は振り返る。
「世界認識が?」
「正確には世界認識を作った人たちが」
その言葉に神崎の顔が浮かんだ。
「神崎もこのことを知ってる?」
「もちろん」
「黒い男も?」
「彼はもっとよく知ってる」
「美咲は?」
白石は少し黙った。
「美咲は一番知らない」
「どういう意味?」
「彼女は最初に分離されたから」
僕は凍りついた。
「最初?」
「うん」
「じゃあ美咲は何なんだ?」
白石は僕を見る。
「あなたの、記憶」
頭の中で何かが弾けた。
母。父。幼い頃の公園。
赤い髪留め。白いワンピース。
全部が繋がる。
美咲。
僕が忘れてしまった、最初の記憶。
僕が最後に交わした会話。
『お兄ちゃん、忘れないでね』
『何を?』
『私のこと』
僕は膝をついた。
「……妹じゃなかった」
白石が頷く。
「うん」
「でもあの子は僕の中にいた」
「そう」
「じゃあ、僕が忘れたのは――」
白石は静かに答えた。
「あなた自身の一部だよ。」
その瞬間。
世界認識が起動した。
画面いっぱいに警告が表示される。
【分離個体④――接触確認】
続いて新しい情報。
【感情同期――開始】
僕と白石の周囲に淡い光が現れる。
そして世界認識が僕に問いかけた。
「この人物を知っていますか?」
僕は白石を見る。
昔の記憶。
現在の彼女。
全部が混ざる。
僕は答えた。
「知らない」
白石が驚く。
僕は続ける。
「でも――」
一歩、彼女に近づく。
「知りたい」
世界認識が一瞬停止した。
そして初めて見た表示。
【回答を記録できません】
僕は笑った。
「そうだよな」
白石も笑った。
「だから私たちは自由なんだよ」
そのとき。
地下通路の奥から、
足音が聞こえた。
一歩。
また一歩。
僕と白石が振り返る。
黒い男が立っていた。
「……黒い男」
男は白石を見る。
「久しぶりだな」
白石は冷たい目で睨む。
「あなたがあの記憶を消した」
黒い男は否定しなかった。
「そうだ」
僕は驚いた。
「なぜ?」
男は僕を見る。
「君を守るためだ」
「何から?」
「君自身から」
その言葉の直後。
地下通路の照明が一斉に消えた。
完全な暗闇。
暗闇の中で世界認識が勝手に起動した。
画面にはこれまで表示されなかった情報が、
次々と現れる。
① 美咲――記憶
② 神崎透――共感
③ 黒い男――秘密
④ 白石凛――愛情
そしてその下。
⑤ ――――
⑥ ――――
⑦ ――――
⑧ ――――
⑨ 佐藤――原型
最後に一行。
「残りの4人は、あなたが最も認めたくないものです。」
僕はその文字を見つめる。
暗闇の向こうから誰かが笑った。
そして僕の耳元で声がした。
「次は――怒りだ。」




