第10話 怒り
地下通路の照明が消えた。
完全な暗闇。
白石凛が、僕の手を握っている。
その向こうに、黒い男。
そして――
闇の中から聞こえる知らない声。
「次は――怒りだ。」
「誰だ!」
僕が叫ぶ。
返事はない。
代わりに足音が一つ。
また一つ。
ゆっくり近づいてくる。
世界認識を起動する。
画面にはこれまで見たことのない表示が並んでいた。
① 美咲――家族
② 神崎透――共感
③ 黒い男――秘密
④ 白石凛――愛情
⑤ ――――
⑥ ――――
⑦ ――――
⑧ ――――
⑨ 佐藤―――原型
僕は、
①の表示を見て眉をひそめた。
美咲。
さっきまで「記憶」になっていた。
でも違う。
世界認識が表示しているのは家族。
「じゃあ、僕が忘れていたものは……」
白石が答える。
「家族そのもの」
「美咲は?」
僕は暗闇の中で美咲の顔を思い出す。
赤い髪留め。
白いワンピース。
そしてあの笑顔。
「じゃあ、君は?」
「愛情」
白石は自分自身を指差す。
「私はあなたが誰かを選ぶ力」
「じゃあ⑤は?」
黒い男が答えた。
「怒り。」
その声と同時に地下通路の奥から男が現れた。
大柄だった。
拳を握っている。
顔には明らかな怒りが浮かんでいる。
「お前が佐藤か?」
「……そうだ」
男は僕を睨みつけた。
「ずいぶんのんびりしてるな」
「誰だ?」
「それをお前自身が思い出せ」
男が一歩近づく。
「俺を検索してみろ」
僕は世界認識を開いた。
該当人物――なし。
「やっぱりな」
男が笑った。
「俺は世界認識に存在しない」
「分離個体?」
「そうだ」
「何の?」
男は拳を握った。
「怒りだ。」
「なぜ怒ってる?」
男は僕を睨む。
「お前に決まってるだろ」
「僕?」
「そうだ」
「僕が何をした?」
「全部だ」
男が僕の胸ぐらを掴んだ。
白石が、
「やめて!」
と叫ぶ。
だが男は止まらない。
「お前は俺たちを捨てた」
「……何?」
「自分にとって都合の悪いものを全部切り離した」
僕は黒い男を見る。
「それは本当なのか?」
黒い男は答えない。
「答えろ!」
「……本当だ」
僕の頭に映像が流れ込んだ。
2127年より、
ずっと前。
世界認識が完成した頃。
人類は歓喜した。
もう誰も孤独にならない。
誰も見落とされない。
誰も忘れられない。
でも同時に問題が起きた。
人間は自分の感情まで他人に理解されているような錯覚を抱き始めた。
夫婦喧嘩。
「あなたが何を考えているか分かる」
友情。
「お前ならこう思うだろ」
親子。
「あなたのためを思って言っている」
人々は相手を理解したつもりになった。
でも世界認識は心を読めない。
そして一部の人間は気づいた。
**知っていることと、
理解していることは違う。**
「じゃあ、世界認識は失敗したのか?」
僕が聞く。
神崎が答える。
「違う」
「じゃあ何が問題だった?」
「人間が自分自身を理解できなくなった」
怒りの男が笑った。
「だから俺が必要だった」
「なぜ?」
「怒りは自分の境界線を教える」
男は自分の胸を叩いた。
「嫌だ」
「許せない」
「奪われたくない」
「認めたくない」
「そういう感情があるから人間は『自分』を守れる」
僕は何も言えなかった。
男が僕に近づく。
「佐藤。お前は怒ったことがあるか?」
「もちろんある」
「じゃあ最近いつ怒った?」
僕は答えようとする。
でも思い出せない。
世界認識には僕の過去が表示される。
怒った記録。
怒鳴った記録。
喧嘩した記録。
すべてある。
でもそのときなぜ怒ったのか。
それだけが分からない。
「分からない」
僕が答える。
男は笑った。
「それが俺が消された理由だ」
「僕が消した?」
「そうだ」
「なぜ?」
「怒りを持つ自分が嫌だったからだ」
その言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かが繋がった。
僕はいつも冷静であろうとした。
会社でも。
家庭でも。
子どもの前でも。
怒ることは悪いことだと思っていた。
でも違った。
怒りを抑えていたのではない。
**怒りそのものを自分ではないことにしていた。**
男が言う。
「だから俺は生まれた。お前が『こんな自分はいらない』と切り捨てたから」
僕は男を見る。
「じゃあ、君は僕なのか?」
「違う」
男は答える。
「俺はお前が捨てたお前だ」
その瞬間。
男の拳が飛んできた。
僕は避けなかった。
頬を殴られる。
鈍い痛み。
口の中に血の味が広がる。
「佐藤!」
白石が叫ぶ。
僕はゆっくり顔を上げた。
男がもう一度拳を振り上げる。
僕はその拳を掴んだ。
「……もういい」
男が睨む。
「何がだ?」
僕は声を荒らげた。
「俺だって怒ってるんだよ!」
男が止まった。
「ずっと勝手に僕のことを決めるな!」
「家族も!」
「愛情も!」
「記憶も!」
「共感も!」
「全部僕が選んだわけじゃない!」
僕の声が地下通路に響く。
「なのにお前らは僕の中から出てきたくせに、僕より僕のことを知ってるみたいな顔をする!」
男は黙って僕を見る。
僕も息を切らしながら睨み返す。
しばらくして男が笑った。
「……やっとだ」
「何が?」
「それだよ」
「?」
「それが、俺だ」
世界認識が突然起動した。
画面に新しい表示。
【分離個体⑤――接続確認】
そして、初めて名前が表示された。
怒り 飛雄真
その下に小さな文字。
「あなたが、あなたを守るための感情」
男の身体が少しずつ光になっていく。
「待て!」
僕が手を伸ばす。
「どこへ行く?」
男は笑った。
「俺もお前の中には戻らない」
「じゃあどうする?」
「俺は俺として生きる」
「分離したまま?」
「ああ」
男は僕を見る。
「それが、お前が初めて俺にくれた自由だ」
光が消える。
そこに男はいなかった。
地下通路が明るくなる。
僕はしばらく動けなかった。
白石が隣に立つ。
「大丈夫?」
「……うん」
「怒ってる?」
僕は少し笑った。
「かなり」
白石も笑う。
「よかった」
黒い男だけが何も言わなかった。
僕は世界認識を見る。
残りの表示が変わっている。
① 美咲――家族
② 神崎透――共感
③ 黒い男――秘密
④ 白石凛――愛情
⑤ 怒り――飛雄真―接続済
⑥ ――――
⑦ ――――
⑧ ――――
⑨ ――――
そして⑤の下に新しい一文。
「怒りは、あなたを傷つけるために存在したのではない。あなたが、自分を守るために存在した。」
僕はその言葉を見つめた。
すると突然、
世界認識が警告を出した。
【重大警告】
分離個体の接続により、 原型個体の安定性が低下しています。
僕は黒い男を見る。
「これはどういう意味だ?」
黒い男は初めて少し焦った顔をした。
「……早すぎる」
「何が?」
「⑤まで戻ったなら、次は――」
その瞬間。
世界中の世界認識端末が一斉に停止した。
83億人。
すべての人間の前から、
世界認識が消えた。
名前も。
住所も。
家族も。
職業も。
過去も。
何も表示されない。
街が静かになった。
そしてすべての端末に一つだけメッセージが表示された。
**「あなたは、隣にいる人を知っていますか?」**
世界中で人々が顔を見合わせる。
初めて、何もわからない。
僕は白石を見る。
白石も僕を見る。
「……今、何を考えてる?」
僕が聞く。
彼女は笑った。
「教えない」
その瞬間、僕は気づいた。
世界認識がなくても人間は会話できる。
人間は相手を知ろうとする。
そして――
**知らないまま、誰かを好きになることもできる。**
だがその直後。
世界中の画面に別の文字が浮かんだ。
**「これは、最初の実験です。」**
そして、画面の中央に、
一つの数字。
8,299,999,992
僕は息を止めた。
83億人だった世界から、
8人が消えていた。
神崎。
美咲。
白石。
飛雄真。
黒い男。
そして、まだ会っていない分離個体たち。




