第11話 知らない世界
世界認識が消えてから十二時間が経った。
街は異様なほど静かだった。
駅のホーム。
コンビニ。
学校。
病院。
会社。
どこへ行っても、人々がスマートフォンを見つめている。
しかしそこにあるのはカメラだけ。
名前が分からない。
年齢も分からない。
職業も分からない。
家族も分からない。
過去も分からない。
そして何より誰が誰なのか分からない。
「すみません」
駅で若い男性に声をかけられた。
「はい?」
「この電車、大阪駅に行きますか?」
「……たぶん」
「たぶん?」
「僕も分からないんです」
二人で電光掲示板を見る。
路線図を確認する。
そして一緒に笑った。
昨日までは世界認識に聞けば一瞬だった。
今は人間同士で確認しなければならない。
不便だ。
面倒だ。
時間がかかる。
でも不思議と悪くなかった。
駅を出ると知らない女性が道端で困っていた。
「どうしました?」
「子どもとはぐれて……」
女性の顔が不安で歪んでいる。
僕は周囲を見渡した。
以前なら子どもの名前を検索して現在地を特定できた。
今はできない。
「一緒に探しましょう」
そう言うと女性はほっとした顔をした。
それから三十分。
ようやく小さな男の子を見つけた。
母親が男の子を抱きしめる。
「よかった……!」
泣いている。
僕は少しだけ笑った。
世界認識がなくても人間は人を助けられる。
その日の夕方。
僕は神崎透を探していた。
世界認識はない。
だから手掛かりはない。
僕が覚えているのは神崎が以前言っていた言葉だけ。
「僕は君の痛みを感じるために生まれた。」
そして美咲。
白石凛。
飛雄真。
黒い男。
彼らも今は世界認識の外側にいる。
僕は一つの場所を思い出した。
以前(第7話)で神崎と会った公園。
そこへ向かう。
誰もいない。
ベンチに座る。
風が吹く。
「来ると思ってた」
背後から声がした。
振り返る。
神崎透だった。
「……神崎」
「久しぶり」
「どうしてここに?」
「君が来るから」
「世界認識がないのに?」
神崎は笑った。
「だから来られるんだよ」
僕は隣に座った。
「8人が消えた」
「ああ」
「君も?」
「僕も」
「美咲も?」
「ああ」
「白石も?」
「たぶん」
「飛雄真も?」
「ああ」
僕は神崎を見る。
神崎はしばらく黙っていた。
「佐藤」
「うん」
「世界認識は君たちを管理していたんじゃない」
「じゃあ何をしてたんだ?」
神崎は空を見上げた。
**「僕たちを知ろうとしていた。」**
「君たちを?」
「ああ」
「感情ってことか?」
「ああ」
神崎は静かに話し始めた。
世界認識が作られた当初。
人類はすべての人間を把握できるようになった。
犯罪は減った。
孤独も減った。
自殺も減った。
行方不明者もいなくなった。
社会は史上最も安全になった。
けれど一つだけ問題があった。
**人間が自分自身を偽れなくなった。**
「自分の本音まで他人に知られるわけじゃない」
僕が言う。
「そう。人間が何を感じているかは、世界認識には定義できない」
例えば、誰かを好きになったとして、世界認識はその事象を記録する。
「本来人間は自分の感情を理解できるが、世界認識にはできない。だからコントロールできるようにしようとした。その結果君たちは世界認識に依存して感情というものを認知できなくなっていった」
神崎はそう言った。
僕は白石を思い出した。
「100%の相性」
という数字。
あれも同じだった。
僕が彼女を好きになる前に世界認識が、
「100%」
と答えていた。
「じゃあ、あの相性って……」
「可能性だよ」
「可能性?」
「君たち二人が似た価値観を持っている。過去に似た経験をしている。行動パターンも近い。だから世界認識は『うまくいく可能性が高い』と計算した」
神崎は少し笑った。
「でも、恋は計算通りにならない」
僕は納得した。
だから白石はこう言った。
「私はあなたを100%好きなわけじゃない」
「じゃあ、分離個体っていうのは?」
神崎の顔から笑みが消えた。
「それは世界認識が生まれる前の人間が持っていた、
自由な感情の残骸だ」
「残骸……?」
「怒り。愛情。共感。恐怖。嫉妬。欲望。罪悪感。
そしてそれらを司る記憶と自分自身。」
僕は黙って聞いた。
「人間は感情を持っていた。でも世界認識はそれを正確に分類しようとした」
「分類?」
「そう。分類すれば理解できる。理解できれば管理できる。」
神崎は地面に線を引いた。
「だけど人間の感情はそんなに単純じゃない」
怒っているのに、好き。
好きなのに、憎い。
悲しいのに、笑う。
怖いのに、進む。
「だから、分類できなかった感情が少しずつ切り離されていった」
僕は息を呑んだ。
「それが……」
「僕たちだ」
そのとき。
公園の入口から足音がした。
白石凛だった。
「二人とも見つけた」
僕は立ち上がる。
「どうしてここが?」
「分からない」
「分からない?」
「でもここに来る気がした」
白石は僕の前に立った。
「ねえ」
「何?」
「今、私のことをどう思ってる?」
世界認識はもうない。
だから数字もない。
僕は考えた。
「好きだと思う」
白石は少し笑った。
「何%?」
「分からない」
「それでいい」
神崎がその様子を見ていた。
そして突然、
苦しそうに胸を押さえた。
「神崎?」
「……大丈夫」
「顔色が悪い」
「平気だ」
「本当に?」
神崎は答えなかった。
その瞬間。
公園の外から子どもの声がした。
「お兄ちゃん」
僕は振り返る。
美咲が立っていた。
赤い髪留め。
白いワンピース。
あの日と同じ。
「美咲……」
僕が近づく。
美咲は笑った。
「やっと見つけたね」
「どこにいた?」
「ずっと近くにいたよ」
「どうして?」
「あなたが思い出してくれるまで」
僕は美咲の手を握った。
小さな手。
温かい。
「美咲」
「なに?」
「僕たちは、何なの?」
美咲は少し考えた。
そして答えた。
**「あなたが人間だった頃のもの。」**
その言葉に神崎が立ち上がった。
「美咲」
「なに?」
「まだそこまで話す必要はない」
「でももう始まったよ」
「何が?」
美咲は僕を見る。
**「戻り始めた。」**
その瞬間。
世界中で止まっていた世界認識が一斉に復旧した。
人々のスマートフォンに名前が戻る。
住所が戻る。
職業が戻る。
家族が戻る。
街に安堵の声が広がった。
「戻った!」
「よかった!」
「元通りだ!」
僕も自分の端末を見る。
世界人口。
8,300,000,000人。
「戻った……」
白石が呟く。
でも神崎は首を振った。
「違う」
「え?」
「戻ったんじゃない」
画面を見る。
僕たちの情報が変わっていた。
佐藤 認識状態――原型個体
神崎透 認識状態――分離個体
白石凛 認識状態――分離個体
美咲 認識状態――分離個体
黒い男 認識状態――分離個体
飛雄真 認識状態――分離個体
僕は画面を見つめる。
「じゃあ今まで世界認識に表示されていた83億人は……」
神崎が答える。
「本物だよ。」
「……え?」
「全員本物の人間だ」
「じゃあ僕たちは?」
神崎は静かに言った。
「僕たちも本物だ。」
僕は混乱した。
「じゃあ何が違う?」
神崎は僕を見る。
「僕たちは人間の中にいるんじゃない」
その瞬間。
美咲が僕の手を握った。
「お兄ちゃん」
「うん」
「この世界には83億人だけじゃないよ」
僕は息を止めた。
神崎が静かに続ける。
**「83億人の中に、
それぞれ8つの『可能性』がある。」**
僕は世界認識を見る。
一人ひとりの情報の横に、
小さな数字が浮かび始めている。
1 / 9
2 / 9
3 / 9
……
世界中、
すべての人間に。
「……まさか」
僕が呟く。
神崎が頷く。
「そう」
世界認識が最後の通知を表示する。
【全個体に分離因子を確認】
対象――8,300,000,000人
推定総数――74,700,000,000
僕は言葉を失った。
83億人。
それだけでも僕たちは全員を知っていると思っていた。
でも実際には違った。
**一人の人間の中に、
まだ8人分の「知らない自分」がいる。**
そして世界認識は最後にこう表示した。
【次段階へ移行します】
**「あなたは自分以外の8つを、
どこまで許せますか?」**
僕はその問いを見つめる。
隣には白石。
その隣に神崎。
そして美咲。
まだ会っていない3人。
恐怖。欲望。罪悪感。




