第12話 恐怖
世界認識が復旧してから三日が経った。
街は以前の生活を取り戻していた。
駅では人々がスマートフォンを見ている。
店員は客の名前を知っている。
学校では先生が生徒の情報を確認する。
世界は何事もなかったかのように戻った。
でも僕だけは知っていた。
世界は戻っていない。
世界認識には新しい表示が追加されていた。
【分離個体】
遭遇済:5
神崎透――共感
美咲――家族
白石凛――愛情
飛雄真――怒り
黒い男――秘密
未遭遇:3
恐怖
欲望
罪悪感
「次は恐怖だね」
白石が言った。
「どうして分かる?」
「あなたの顔」
「顔?」
「怖がってる」
僕は少し笑った。
「怖くないよ」
「嘘」
白石は即答した。
そのとき神崎が言った。
「恐怖はたぶん今までで一番会いたくない」
「どうして?」
「恐怖は自分を守るための感情だから」
「怒りと同じじゃないの?」
「違う」
神崎は僕を見る。
「怒りは自分を守るために戦わせる」
「恐怖は?」
「逃げさせる。」
僕はその言葉の意味をまだ理解していなかった。
その日の夜。
僕は一人で帰宅した。
妻と娘は先に寝ている。
家の中は静かだった。
玄関を閉める。
電気をつける。
何もない。
いつもの家。
なのに何かがおかしい。
リビング。
誰もいない。
キッチン。
誰もいない。
廊下。
誰もいない。
世界認識を起動する。
家の中には妻と娘。
二人とも寝室にいる。
異常なし。
「……気のせいか」
僕は寝室へ向かった。
その瞬間。
廊下の奥で、
何かが動いた。
僕は立ち止まる。
「……誰?」
返事はない。
世界認識。
検索。
該当――なし。
心臓が速くなる。
僕は一歩下がった。
その瞬間背後から声。
「見つけた」
振り返る。
誰もいない。
僕は走った。
寝室へ。
ドアを開ける。
妻と娘が眠っている。
「あなた?」
妻が目を覚ます。
「どうしたの?」
僕は答えられない。
「……何でもない」
その夜。
僕はほとんど眠れなかった。
翌朝。
鏡を見る。
目の下に濃い隈。
妻が言う。
「眠れなかったの?」
「ちょっとね」
「何か怖いことでもあった?」
僕は一瞬黙る。
「……分からない」
妻はそれ以上聞かなかった。
会社へ向かう。
電車。
人混み。
いつもと同じ。
でも怖い。
誰かが僕の後ろに立つ。
怖い。
スマートフォンが鳴る。
怖い。
知らない番号。
怖い。
僕は気づいた。
世界認識が「恐怖」を分類している。
画面を見る。
【恐怖反応】
原因――不明
「……何なんだ」
僕はスマートフォンを閉じた。
会社に着く。
田辺が声をかけてくる。
「おはよう」
「おはよう」
「顔色悪いぞ」
「寝不足」
「大丈夫か?」
「大丈夫」
その瞬間。
田辺の後ろに黒い影が見えた。
僕は息を止める。
「田辺!」
「ん?」
「後ろ!」
田辺が振り返る。
何もいない。
僕は目をこする。
消えた。
「……悪い」
「疲れてんじゃない?」
「そうかも」
でも分かっていた。
あれは幻覚じゃない。
昼休み。
僕は神崎に電話をかけた。
繋がらない。
白石にも。
繋がらない。
そして突然、スマートフォンにメッセージが届いた。
送信者――
不明
本文。
「逃げて。」
僕は画面を見つめる。
次のメッセージ。
「振り返らないで。」
その瞬間。
背後から声がした。
「佐藤さん。」
僕は振り返らなかった。
「佐藤さん」
もう一度。
女性の声。
優しい声。
「どうして、逃げないの?」
僕の全身に鳥肌が立った。
僕はゆっくり前へ歩いた。
「誰?」
「あなたが一番、知りたくない人」
「誰なんだ?」
「私」
僕は立ち止まった。
「振り返って」
声がする。
僕は振り返らない。
「怖い?」
「……怖い」
「何が?」
「分からない」
「違う」
女性は笑った。
**「あなた自身が、何を怖がっているのかを知るのが怖いんでしょ?」**
僕は振り返った。
そこに少女が立っていた。
年齢は僕の娘と同じくらい。
白い服。
長い黒髪。
笑っている。
「……君は?」
「恐怖」
世界認識が勝手に起動する。
【⑥――恐怖】
接触確認
少女は僕を見る。
「やっと会えた」
「僕を知っているの?」
「もちろん」
「何を知ってる?」
少女は笑った。
「あなたが、何から逃げ続けてきたのか。」
その瞬間。
僕の視界が真っ白になった。
映像。
幼い僕。
病院。
母。
父。
美咲。
そして、一人の男。
幼い僕が泣いている。
怒り。
恐怖。
罪悪感。
全部が混ざっている。
場面が変わる。
大人になった僕。
妻と出会う。
娘が生まれる。
幸せ。
でもその裏に一つの恐怖。
失うこと。
妻を失う。
娘を失う。
家族を失う。
自分を失う。
僕はその未来からずっと逃げていた。
目を開ける。
少女がいる。
「分かった?」
僕は息を切らしていた。
「……僕は失うのが怖い」
「そう」
「だから世界認識に全部を知ってもらおうとした?」
少女は頷く。
「失う前に全部知っておけば守れると思った」
便利だから。
安全だから。
そう思っていた。
でも本当は違った。
怖かったからだ。
少女が僕の胸に手を当てる。
「だから私は生まれた」
世界認識が表示する。
【⑥ 恐怖】
役割――喪失を予測する
目的――大切なものを守る
僕は少女を見る。
「じゃあ、君は僕を苦しめるために存在したんじゃない?」
「うん」
「守るため?」
「うん」
少女は少し笑う。
「でも守りすぎると、何もできなくなる」
その言葉が胸に刺さった。
僕はずっと未来を恐れていた。
だから失う前に知ろうとした。
危険になる前に予測しようとした。
傷つく前に避けようとした。
そして気づけば――
**生きる前に、安全であることを求めていた。**
少女は一歩下がる。
「だから、私を消さないで」
「消さない」
「約束?」
「約束する」
少女が笑う。
そして僕の胸に光となって溶けていく。
世界認識。
【⑥ 恐怖――亜玖璃 接続確認】
しかしその瞬間。
世界認識が新たな警告を表示した。
【原型個体の安定度――低下】
【分離個体接続率――62%】
僕は、
画面を見る。
「62%……」
神崎がいつの間にか後ろに立っていた。
「もう始まった」
「何が?」
「原型への逆流だ」
「僕に何が起こる?」
神崎は答えなかった。
代わりに僕のスマートフォンが鳴った。
表示された名前。
白石凛。
電話に出る。
「もしもし?」
白石の声が聞こえる。
でもいつもの彼女ではない。
震えている。
「佐藤……」
「どうした?」
「私、おかしくなってしまいそう。」
電話が切れた。
僕と神崎は顔を見合わせる。
「何が起きてる?」
神崎が静かに言った。
**「次の個体が目を覚ました。」**
「誰?」
神崎は答えた。
「欲望。」
そして遠く離れた場所で。
白石凛は自分の前に立つ男を見ていた。
男は白石の手を握る。
「君は、僕が欲しい?」
白石は答えられない。
男は笑う。
「大丈夫。」
「欲しいと思うまで、待ってあげる。」
白石の瞳に恐怖が浮かぶ。
世界認識には一つだけ表示されていた。
【⑦――欲望】
接触準備――開始




