第8話 黒い男
神崎透と別れてから三日が経った。
その三日間、僕は世界認識をほとんど使わなかった。
名前を調べない。
年齢を調べない。
過去を調べない。
目の前の人間に直接聞く。
それだけを試していた。
コンビニの店員に、
「今日は疲れてますか?」
と聞いた。
「ちょっとだけ」
と言われた。
駅員に、
「この仕事、好きですか?」
と聞いた。
「好きですよ」
と笑われた。
会社の田辺には、
「最近どう?」
と聞いた。
田辺は少し黙って、
「……妻と話しました」
と言った。
世界認識なら一瞬で分かることだった。
でも本人から聞くとなぜか違った。
情報ではなく言葉として届く。
その違いが少しずつ分かってきた。
そんな生活を続けていた四日目の夜。
会社からの帰り道。
突然、街灯が一つ消えた。
次の街灯も。
その次も。
僕の歩いている道だけまるで闇が追いかけてくるように一つずつ消えていく。
僕は立ち止まった。
世界認識を起動する。
周囲の人間を確認。
83人。
全員の情報が表示される。
――異常なし。
しかし、一つだけ黒い空白があった。
人間の形をしている。
なのに情報がない。
僕は振り返った。
街灯の下に、
男が立っていた。
黒いコート。
黒い髪。
顔も暗闇に溶け込んでいる。
恐らく美咲が恐れていた男だ。
「……誰だ?」
男は答えない。
僕は世界認識を開いた。
検索。
該当なし。
もう一度。
該当なし。
男が小さく笑った。
「それ、やめたほうがいい」
「何を?」
「人を検索すること」
僕は背筋が冷たくなった。
「君は……」
「そう」
男は僕を見る。
「君が探している一人だ」
「名前は?」
「ない」
「年齢は?」
「ない」
「住所は?」
「ない」
「家族は?」
「ない」
僕は神崎の言葉を思い出した。
僕の中にあったもの。
この男もそうなのか。
「君も僕から分かれたのか?」
男は少しだけ笑った。
「そうだ」
「何を担当してる?」
「担当?」
「神崎は共感だと言った」
男はしばらく僕を見つめる。
そして答えた。
「僕は、名前のないものだ。」
「名前のないもの?」
「匿名。秘密。誰にも知られないこと。
誰かに知られる前の、ただの自分。」
男は、自分の胸を指差した。
「君の中には、そういう部分があった」
「僕に?」
「誰にも見せたくない自分。誰にも知られたくない感情。誰にも説明できない願い。」
僕は何も言えなかった。
思い当たることがある。
「じゃあ、君の名前は?」
男は笑った。
「ないって言っただろ」
「じゃあ、どう呼べばいい?」
「好きに呼べばいい」
「黒い男?」
「それでいい」
僕は、その呼び方を選んだ。
「黒い男」
男は少し嬉しそうに笑った。
「それも名前じゃないけどな」
僕たちはしばらく歩いた。
街にはたくさんの人間がいる。
誰も僕たちを気にしていない。
いや、正確には誰もこの男を認識していない。
83億人の世界の中で、男だけが世界の外側にいる。
「君は、ずっとここにいたのか?」
「違う」
「じゃあ、どこに?」
「君が見ない場所」
「?」
男は街の大きな広告を指差した。
そこには世界認識の広告が映っていた。
「知れば、もっと優しくなれる。」
黒い男が鼻で笑う。
「本当にそうかな?」
「どういう意味?」
「人間は知ったことで優しくなったのか?」
僕は答えられない。
「犯罪者の住所を知れば犯罪を防げる」
「病人を知れば助けられる」
「孤独な人を知れば声をかけられる」
「世界認識は確かに多くの人間を救った」
男は一つずつ言葉を並べる。
そして僕を見る。
「でも、知らなくていいことまで知るようになった」
僕は思い出した。
妻の過去。
娘の友人関係。
田辺の家庭。
駅ですれ違った人間の人生。
僕は何も悪いことをしていない。
ただ知ることができるから知っていただけだ。
「だから、僕が必要なのか?」
男は答えない。
「誰にも知られない場所を残すために?」
「それもある」
「じゃあ他には?」
男は僕の目を見る。
「君が自分自身に嘘をつけるようにするためだ」
「自分自身に?」
「人間は全部知られてしまったら自分を演じることすらできない」
男は静かに言った。
「人間には誰にも見せない自分が必要なんだ」
僕は少し考えた。
「でもそれって孤独じゃないのか?」
「そうだ」
黒い男は即答した。
「孤独だ」
「じゃあ、なぜ必要なんだ?」
「孤独と自由はよく似ているからだ」
その瞬間。
遠くから救急車のサイレンが聞こえた。
黒い男が突然立ち止まる。
「行け」
「どこへ?」
「君の家」
「どうして?」
「今夜、君の過去が一つ消える」
僕は男を見る。
「何の話だ?」
「帰れば分かる」
男は、闇の中へ歩いていく。
僕は追いかけようとした。
「待って!」
男が振り返る。
「君は、あと何人いる?」
男は僕を指差す。
「君が一人目だ。」
「どういう意味だ?」
「そのうち分かる」
「君たちは何をしようとしている?」
男は少し遠くを見る。
「戻るんだよ」
「どこへ?」
「一人に」
その言葉だけを残して男は闇の中へ消えた。
僕は急いで家に帰った。
玄関を開ける。
「ただいま!」
返事がない。
「母さん?」
娘の部屋を見る。
誰もいない。
妻の部屋も。
誰もいない。
僕は世界認識を開く。
妻を検索。
――該当。
娘を検索。
――該当。
二人とも存在している。
なのに家にはいない。
妻の現在位置を見る。
表示される。
病院。
娘も同じ。
僕は急いで病院へ向かった。
病室。
妻がベッドに座っている。
娘が隣にいる。
二人とも僕を見る。
「あなた」
「お父さん」
僕は安堵した。
「どうしたんだ?」
妻は困ったように笑った。
「今日お母さんから電話があったの」
「母さんから?」
「うん」
僕は一瞬黙った。
母は二年前に亡くなっている。
妻が言う。
「でも電話の声があなたのお母さんだったの」
僕は何も言えなかった。
「何を話したの?」
「昔の話」
「どんな?」
妻は答えようとした。
でも首を傾げる。
「……忘れちゃった」
その瞬間。
僕の世界認識に一つの通知が表示された。
【記憶情報に異常を検出】
続いて、もう一つ。
【分離個体◯――活動開始】
そして最後に、
黒い男の言葉が頭の中に蘇った。
「今夜、君の過去が一つ消える」
僕は妻を見る。
「ねえ」
「何?」
「僕の母さんのこと覚えてる?」
妻はしばらく考えた。
「もちろん」
「どんな人だった?」
妻は答えられなかった。
「……あれ?」
妻の顔から笑みが消える。
「どうして?」
「何が?」
「お母さんとのことが思い出せない」
僕は自分の世界認識を確認した。
母の情報は存在している。
名前。
年齢。
出生。
死亡。
すべて。
なのに僕や妻から母の記憶からは消えかけていた。
「お父さん」
娘が言った。
「私も……」
「どうした?」
娘は泣きそうな顔をしている。
「おばあちゃんとの思い出、思い出せない」
僕は息を止めた。
世界認識は83億人を知っている。
しかし、僕たちの中にある「記憶」は世界認識には保存されていない。
記録で誰かを知ることと、その人との記憶を持つことは別だった。
その夜。
僕は一人、母の写真を見ていた。
写真の中で母が笑っている。
僕も笑っている。
でも、その人との感情の歴史が少しずつ分からなくなっていく。
そして、写真の裏に見覚えのない文字があった。
僕の字だった。
「忘れるな。」
その下にもう一行。
「記憶は、世界認識には保存されない。」
僕は震える手で写真を握った。
そして気づく。
思い出は、記録ではなく記憶にあるのだと。
その頃。
暗い部屋で一人の女性が古い写真を並べていた。
その写真には同じ家族が写っている。
幼い僕。母。父。
そして――
本来いるはずのない、もう一人の子供。
女性はその写真を見ながら呟く。
「やっぱり、まだ覚えてる」
写真の中の少女。
赤い髪留め。
白いワンピース。
女性はその写真を胸に抱いた。
「美咲」
そして写真の裏を見る。
そこには、9人分の名前が書かれている。
そのうち一つだけが、
ゆっくり浮かび上がった。
④ 白石凛
女性は小さく笑った。
「次は、愛情が目を覚ます。」
写真の端には黒い男の姿が写っていた。
その顔は誰にも認識できないほど黒く塗りつぶされていた。




