第7話 神崎透
午前6時43分。
いつもの時間に目を覚ました。
隣では妻が眠っている。
リビングでは、娘が学校へ行く準備をしている。
いつもと同じ朝。
――のはずだった。
僕はスマートフォンを手に取る。
世界認識を開く。
検索欄に神崎透と入力する。
該当人物――1名
年齢――43歳。
性別――男性。
出生地――不明。
家族――不明。
職業――不明。
住所――不明。
僕は眉をひそめた。
画面の一番下にははっきりと表示されていた。
認識状態:存在
「お父さん」
娘が後ろから画面を覗き込んだ。
「誰?」
「神崎透」
「知ってる人?」
「……分からない」
娘は笑った。
「じゃあ、知らない人じゃん」
僕はその言葉に引っかかった。
知らない。
その言葉を最近よく聞く。
でも、この世界ではそれが一番珍しい言葉だった。
会社へ向かう。
電車に乗る。
乗客を見渡す。
83億人のうちの、
ほんの数百人。
全員の情報が頭の中にある。
ところが一人だけ。
何も分からない男がいた。
僕は振り返った。
黒いコート。
40代前半くらい。
窓の外を見ている。
世界認識を起動する。
――情報なし。
「……神崎?」
男が振り返った。
目が合う。
男は少し驚いた顔をした。
そして笑った。
「やっと見つけてくれた」
僕の心臓が跳ねた。
「神崎透?」
「そう」
「どうして僕を知ってる?」
神崎は答えなかった。
代わりに僕の隣の席を指差した。
「座っていい?」
僕は黙って頷いた。
電車が走り出す。
二人ともしばらく黙っていた。
僕は聞く。
「君は僕を知っているんだよね?」
「知ってる」
「どこまで?」
「かなり」
「僕の家族は?」
「妻と娘」
「仕事は?」
「会社員」
「年齢は?」
「43歳」
全部合っている。
「じゃあ僕の過去も?」
「知ってる」
「僕が小さい頃、公園で遊んでいた女の子のことは?」
神崎の表情が変わった。
「……美咲か」
僕は息を止めた。
「知ってるのか?」
「ああ」
「彼女は何者?」
神崎は窓の外を見る。
「まだ、君には言えない」
「どうして?」
「君が自分で気づかなきゃいけないから」
また同じ言葉。
「神崎」
「何?」
「君は何者なんだ?」
神崎は少し笑った。
「僕?」
「うん」
「君だよ」
意味が分からなかった。
「何を言ってる?」
「正確には――」
神崎は自分の胸を指差した。
「君の中にあったものだ。」
電車が駅に止まる。
神崎は立ち上がった。
「降りるの?」
「うん」
「待って」
僕も立つ。
「話を聞かせてくれ」
神崎は振り返った。
「じゃあ、一つだけ教える」
駅のホーム。
人混みの中で神崎は僕を見る。
「この世界で83億人を知ることができるようになった理由。考えたことある?」
「便利にするためじゃないのか?」
「違う」
「じゃあ、何?」
神崎は少し寂しそうに笑った。
「誰も、一人にしないためだよ。」
電車が出ていく。
僕はホームに残った。
その言葉が頭から離れなかった。
会社に着いても仕事に集中できない。
「誰も、一人にしないため」
世界認識は人間を管理するために生まれたのではない。
孤独をなくすため。
誰かが困っていれば、誰が助ければいいか分かる。
誰かが危険なら、誰が近くにいるか分かる。
誰かが死ねば、誰が悲しむか分かる。
世界認識は起こった出来事を共有することによって、「誰にも気づかれない人間」をなくした。
午後。
神崎からメッセージが届いた。
「今日の19時、公園に来て」
僕は指定された公園へ向かった。
神崎はベンチに座っていた。
その隣には誰もいない。
「美咲は?」
「今日は来ない」
「どうして?」
「まだ、君に会う準備ができていない」
「君は美咲のことを知っているんだな」
「ああ」
「じゃあ、僕たち9人のことも?」
神崎は少し黙った。
「9人?」
僕は世界認識の表示を見せた。
分離個体:9
神崎はその画面を見ると、
目を閉じた。
「……やっぱり始まったか」
「何が?」
神崎は僕の隣に座る。
「佐藤。君は今まで自分を一人の人間だと思ってきたよね」
「当たり前だ」
「本当に?」
「どういう意味だ?」
神崎は地面に落ちている小石を拾った。
「例えば、怒っている君。
優しい君。誰かを愛している君。誰かを憎んでいる君。怖がっている君。全部、同じ人間だと思う?」
「……当然だ」
「じゃあ、なぜ人間は自分の感情を理解できないんだろう?」
僕は答えられなかった。
神崎は静かに言った。
「僕は、共感だ。」
「……何?」
「君の中にあった、他人の痛みを感じる部分。」
「それが、君?」
「そうだね。僕は、君から分かれたものだ。」
風が吹く。
木の葉が揺れる。
僕は神崎を見つめる。
「じゃあ、僕は何なんだ?」
「それを知るために君はこれから残りの6人に会う。」
「6人……」
「美咲と僕を除いて、あと6人」
「じゃあ、9人目は?」
神崎は僕を見た。
「君だよ」
その瞬間。
僕の頭に強烈な頭痛が走った。
視界が歪む。
そして一瞬だけ知らない映像が見えた。
白い部屋。
泣いている子供。
怒っている男。
泣いている子供を抱きしめる女性。
泣いてる子供に寄り添いながら、抱きしめている女性を睨見つけている男
怯える少女。
謎めいた男。
俯いている男。
そしてその中心に、一人の男。
――僕。
僕は息を切らしていた。
「今の……何だ?」
神崎は答えない。
「神崎!」
「まだ早い」
「何が?」
「全部思い出したら君は壊れる」
僕は立ち上がる。
「じゃあ、何をすればいい?」
神崎は初めて僕の目をまっすぐ見た。
「人を知るんだ」
「世界認識で?」
「違う」
「じゃあ?」
神崎は微笑んだ。
「聞け。」
「相手の名前を検索するな。」
「年齢を調べるな。」
「過去を覗くな。」
「相手が何を感じているのか本人に聞け。」
僕は少し笑った。
「それじゃあ、世界認識がある意味がない」
「そうだよ」
神崎も笑う。
「それがこの世界の一番大きな間違いなんだ。」
その夜。
神崎と別れ僕は一人で歩いた。
街には無数の人間がいる。
83億人。
全員を知っている。
だけど誰も本当には知らない。
交差点で一人の老人が転んだ。
僕は駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
老人は僕を見る。
「……大丈夫だ」
世界認識を開けば老人の名前も、住所も、病歴も、家族も分かる。
でも僕は検索しなかった。
代わりに聞いた。
「本当に大丈夫ですか?」
老人は少し驚いた顔をした。
そして笑った。
「……いや」
老人は小さな声で言った。
「今日は少し寂しいんだ」
僕はその隣に座った。
何も知らないまま。
ただ話を聞いた。
その瞬間。
世界認識の画面が勝手に開いた。
そして一つの表示が出る。
【共感反応を検出】
僕は画面を閉じた。
その夜。
神崎は誰もいない部屋で一枚の古い写真を見ていた。
そこには少年時代の僕が写っている。
その隣には美咲。
さらに写真の端に神崎自身がいる。
神崎は写真を裏返した。
そこには、9人の名前が書かれている。
① 美咲
② 神崎透
③ ―――
④ ―――
⑤ ―――
⑥ ―――
⑦ ―――
⑧ ―――
⑨ 佐藤
神崎は、
佐藤の文字を指でなぞる。
そして小さく呟いた。
「僕は、君の痛みを感じるために生まれた。」
写真の裏側。
9人の名前の下には、
さらに一文があった。
「一人に戻るには、全員を理解しなければならない。」
神崎はその文字を見つめた。
そして最後に、写真には写っていない場所を見た。
「……でも、本当にそれでいいのか?」
暗闇の中で、誰かが答えた。
「それを決めるのは、自由を持つ最後の一人だ。」
神崎の顔から笑みが消えた。




