第4話 匿名
「匿名って、昔は普通だったんだって」
娘がそう言ったのは、日曜日の午後だった。
ソファに寝転びながら、古い歴史資料を読んでいる。
「何が?」
「知らない人と話すこと」
僕は笑った。
「今でもできるよ」
「できるけど、わざわざしないでしょ」
「まあな」
娘はスマートフォンを見せた。
そこには匿名交流施設と表示されていた。
「今日、友達と行くの」
「匿名交流施設?」
「うん」
「何するところ?」
娘は当たり前のように答えた。
「相手の情報を見ないで話すの」
僕は少しだけ黙った。
世界認識が生まれてから「知らない人」という言葉はほとんど死語になった。
誰かと初めて会ったとしても、その人の情報は最初から頭の中にある。
だから、
「この人はどんな人なんだろう」
と考えることがない。
知っているから。
しかし、世界認識が生まれてから約100年。
奇妙な文化が生まれていた。
「知らないこと」を楽しむ文化。
名前を隠す。
年齢を隠す。
職業を隠す。
家族を隠す。
過去を隠す。
そして、
相手のことを何も知らない状態で話をする。
それが匿名交流だった。
「お父さんも行けば?」
娘が言った。
「僕が?」
「うん」
「なんで?」
「最近、そういうの好きじゃん」
「そういうのって?」
「知らないこと」
僕は苦笑した。
確かに最近の僕は妙に「知らない」という言葉を気にしていた。
この前(第3話)見つけた存在しない男。
98%という相性。
そして、
「知らないことを、知りたいですか?」
という謎の表示。
「分かった」
僕は立ち上がった。
「行ってみる」
施設は駅から少し離れた場所にあった。
外観は普通のビル。
入口に、大きな文字。
ANONYMOUS
匿名という意味だ。
その下に小さく書かれている。
「知らない幸福をあなたに。」
僕はその文章を見てなぜか胸が高鳴った。
受付。
「初めてですか?」
「はい」
「それでは、認識遮断を行います」
「認識遮断?」
「はい」
係員が、僕の手首に小さな端末を装着する。
「これを装着している間、世界認識による個人情報の取得が制限されます」
「どこまで?」
「名前、年齢、住所、職業、家族構成、過去。
基本的な個人情報はすべて遮断されます」
「顔も?」
「顔は見えます」
「じゃあ、顔から分かることは?」
係員は笑った。
「あなた自身が考えてください」
僕は少し不安になった。
こんな感覚は初めてだった。
ドアが開く。
中には小さな個室が並んでいる。
係員が言う。
「一つ選んでください」
僕は7番の部屋に入った。
椅子が二つ。
向かい側に誰かが座っている。
男か女かも分からない。
暗い照明。
顔も半分しか見えない。
僕は椅子に座った。
しばらく沈黙。
相手が先に口を開いた。
「こんにちは」
「こんにちは」
「名前は?」
「……言わないルールじゃないんですか?」
相手が笑った。
「そうだった」
僕も笑った。
こんな会話は初めてだった。
相手が誰なのか、何歳なのか、どこに住んでいるのか。
何も分からない。
だから何を話していいのか分からない。
「何の仕事してるんですか?」
聞いてから自分で笑った。
「聞いちゃダメでしたね」
「別にいいですよ」
「じゃあ……」
僕は考える。
「最近、楽しかったことは?」
相手は少し黙った。
「昨日、知らない人と話したこと」
「それ、今日じゃないですか?」
「違う人です」
「そうなんですか」
「はい」
不思議だった。
情報がない。
なのに会話が続く。
「何歳ですか?」
相手が聞く。
「43歳です」
「へえ」
「そちらは?」
「秘密」
「ずるいな」
「匿名だから」
僕は笑った。
「じゃあ、好きなものは?」
「雨」
「嫌いなものは?」
「朝」
「なんとなく分かります」
「どうして?」
「今の話し方が眠そうだから」
相手が笑った。
「初めて、あなたに分かられた気がします」
その言葉に、僕は少し戸惑った。
世界認識がなくても、人間は相手を理解できる。
情報ではなく、
表情。声。間。言葉。
そんな小さなものから。
一時間が経った。
係員が終了を知らせる。
僕は最後に聞いた。
「また会えますか?」
相手は答えた。
「どうでしょう」
「名前も知らない」
「はい」
「住んでいる場所も」
「はい」
「何も知らない」
「そうですね」
相手は少し笑ってこう言った。
「だから、また会いたいんじゃないですか?」
端末が外された。
世界認識が戻る。
僕はすぐに相手を検索した。
名前は分からない。
でもさっきの特徴を使えば簡単に見つかる。
43歳。男性。雨が好き。朝が嫌い。
今日、この施設にいた人間。
検索結果。
0件。
僕はもう一度検索する。
0件。
係員に聞いた。
「さっきの人、検索できないんですが」
係員は怪訝そうな顔をした。
「ちょっと待ってくださいね。」
そして、少しだけ表情を変えた。
「……その人を、認識できなかったんですね?」
「はい」
「それはおかしいですね」
係員が端末を操作する。
しばらくして顔色が変わった。
「どうしました?」
「7番の部屋には、誰も入っていません」
僕は笑った。
「そんなはずないですよ」
「記録上、入室者は一人です」
「僕ですよね?」
「はい」
「じゃあ、向かいにいた人は?」
係員は答えない。
僕は7番の部屋へ戻った。
椅子が二つ。
さっきと同じ。
ただ、向かいの椅子に小さな紙が置かれていた。
僕は拾う。
そこには一言だけ。
「あなたは、まだ知らない。」
帰宅すると妻が夕食を作っていた。
「どうだった?」
「面白かった」
「何が?」
「知らない人と話した」
妻は笑う。
「知らない人?」
「うん」
「どんな人?」
僕は答えようとして言葉に詰まった。
「……分からない」
妻が笑った。
「それが匿名でしょ」
僕も笑った。
でも胸の奥には小さな違和感が残っていた。
本当に、
「知らない人」
だったのだろうか。
夜。
僕は世界認識を起動する。
83億人。
いつものように、
全員が表示される。
僕は今日会った人間を検索する。
――該当なし。
7番ブースの入場記録。
――一名。
僕だけ。
その瞬間。
画面が一度だけ暗くなった。
そして昨日と同じ表示が現れた。
「認識不能な個体:1」
僕は息を止める。
昨日より文字がはっきりしている。
その下に新しい一文。
「あなたは、その人に会ったことがある。」
僕は画面を見つめた。
そんなはずはない。
世界認識が僕の知らない人間を表示している。
それだけでもおかしい。
なのにもっとおかしいことがある。
その「一人」の情報欄に名前が表示された。
僕は、
目を疑った。
そこにあったのは、
知らない名前ではなかった。
佐藤。
僕自身の名前だった。
画面が消える。
部屋が静かになる。
僕は自分の手を見る。
僕は僕自身を知っている。
年齢も。
家族も。
仕事も。
過去も。
すべて。
なのに――
世界認識は、僕を見ながらこう言っていた。
「認識不能。」
その瞬間、初めて思った。
もしかすると、この世界で本当に「知らない人」は世界のどこかにいるんじゃない。
最初から、僕の中にいるのかもしれない。




